「雷様の病気」智玄和尚の壮絶なる過去!?
投稿者:マルコ 投稿日時 2013/9/21 16:22
録事尊縁起 現代語訳:駒場一男氏 常楽寺に関する資料より引用。
中野智玄の娘の難病
智玄が40余歳のころ、一人娘が難病にかかり、智玄は懸命に治療に努めたが快方に向かわない。そこで娘に、「おまえの難病は私の力では治すことができない。このうえは、どこの国の医師でもいいから名人を訪ね、治療や灸を試み、その体の病気が平癒したら帰郷するように。ただし、もし病気平癒ができなかったときは、帰ってこなくてよい。」と言い、娘を病気治療の旅に出すこととした。
娘さんかわいそうだよ~うあ゙ぁあ ・゚・(´Д⊂ヽ・゚・ あ゙ぁあぁ゙ああぁぁうあ゙ぁあ゙ぁぁ
娘は、両親にしばらくの間旅に出ることを申し出て、名医を探して治承3年(1180年)5月中旬出発した。旅に出てまもなくのある夜、宿もなく仕方なく木の下に一夜を明かしていると、夜も深まったうしみつ刻のころ、白髪の老人が来て、「その方、難病で悩んでいるようだが、わが灸点をたてるべきだ。これより伊吹山へ行き、七ツ葉のヨモギ草を取り灸をすればよい。そうすればこの難病は治ること疑いなし。」とつげ、かきけすごとく姿を消してしまった。夜が明けてみると、そこは真名子村大宮の前であった。娘は、老人に言われたとおり吹上村伊吹山へ向かい参詣し、さっそく七ツ葉のヨモギ草を取り、17日間灸をすえると、満願の日見事に病気が平癒したのである。娘はたいへん喜び、我が家へ帰ってきて両親へ一部始終を報告した。両親もことのほか喜び、天を拝み地に平伏し、「これはどこの国の何者かも分からない白髪の老人を訪ね、お礼申し上げたいがそのほうほうもない。」と、ただただ感謝するばかりであった。
病気がよくなってよかった!!。* ゚ + 。・゚・。・ヽ( ゚`Д´゚)ノウワァァァァァァン
娘の解剖
智玄は、娘の病気平癒に感心したり不思議に思ったりした。そこで、娘にたずねてみた。「その方、このたびの難病が治ったことは誠に不思議である。どうかその方の体の内部を見届けたく思う。その方の命を親にたまわりくだされないか。(難病の治療法が知りたいので、解剖して確かめたい。命をうばうことになるがよいだろうか。)」と、頼みこんだ。娘はこれを聞いて、「父上のおおせならば、私の一命は差し上げます。お望みにまかせます。」と、答えた。智玄はこれを聞いて大いに喜び、「それはかたじけない。一人の死を求めて万人が助かるの道理じゃ。」と、言い自分の考えに同調してくれたことに満足した。 こうして智玄は、ある日、母を伊吹山へお礼の参詣に行かせ、その留守の間に娘に体内の様子を見ることにした。ころは治承3年(1180年)6月下旬、裏山の沢に娘を連れていき、腹部を解胎してみると鳥の形をしたものがあった。不思議に思い、よくよく見ると、鳥の形をしたそのくちばしの先に当てるように灸がすえてあるのを発見した。さては、この鳥の形をした部分が病の原因だったのだなと思った瞬間、その鳥が飛び出し同国の久我石例山(石裂山?)へとびさった。その鳥は「せきれい」という鳥であった。その時から、この解剖が行われた沢を、子見谷沢と申し伝えている。
娘は死んでしまった。母は何も知らず伊吹山の参詣と17日の山ごもりを終え、粕尾に帰ってきた。帰宅して娘がいないのに気がつき、智玄に問いただすと、智玄はことの次第を残さず話して許しを願った。しかし、母はこれを許さずことのほか腹を立て、智玄がいろいろと謝罪やいいわけをしても承知することにはならなかった。
そりゃあ、家に帰ったら自分の娘が冷たくなって死んでいたら、誰だって怒るよねえ・・・しかも、殺したのは自分の夫でしょ?解剖する前に、奥さんに相談すればばよかったのに・・・。
(`Д´)ゴゴゴ…━(ノдヽ)━( 乂 )━━━ヽ(゚Д゚)ノゴルァァア!!
後鳥羽上皇の治療と録事尊
かくして、よりどころなき智玄は木薬などを麻萱に包み持参して、諸国へ医者修行に出ることになった。そして、関八州(関東)、奥州(東北)、北国より上方(関西)九州あたりまでまわり歩いた。その後、文治年中(1185年~1190年)において、京都で後鳥羽院様が病気でお悩みになっており、あらゆる薬や医師にてを尽くしてみたが快方に向かわないとき、智玄に勅命が下り宮殿へ来るように召し出されることとなった。智玄は糸脈で後鳥羽院様の病気を判断し、お薬を処方して差し上げたところ、お悩みはたちまち平癒してしまった。そして、智玄へのごほうびとして「録事法眼」という医名をたまわり、お薬料として粕尾郷を拝領する栄誉を得た。その上、上本尊定朝作の薬師如来やいろいろな品々をいただいた。なおまた、この地にある薬師堂は、飛騨の大工が勅命を受けて一夜で建てたものだ。
智玄(これより録事法眼)は、粕尾の南の山に屋敷を構え、粕尾郷の領主となり、粕尾録事法眼となり、安楽に暮らしができるようになった。しかし、これも娘の孝心のおかげと思いをいたし、先祖と娘のために6万部の経を読ませ、丑寅の間に塚を作らせた。ここを六万部という。(当時)
しかし、録事法眼の妻は、「一天の君のご病気を治療して粕尾郷中を薬料にたまわったといえども、わが子一人に替えがたい。(後鳥羽上皇の病気を治し、粕尾郷を領地としていただいたとしても、娘一人の命にはかえがたい。)」といって、出家し、小宮沢の近くに小さな庵を立てそこに住むことになった。そこは、録事法眼の守り本尊の薬師堂より未申の方にあたり、朝日の塚と言っている反対側には夕日の塚がある。また、一段高いところに、薬師尊ならびに録事尊の別当所がある。この寺は、瑠璃光山蓮照常楽寺と号している。
まんが日本昔ばなしを深く調べてみると色々と自分の郷土や歴史について、面白いことがわかってくるよ!!って話です。