やはり「地獄めぐり」の寂光寺。廃仏毀釈の影響か?
投稿者:マルコ 投稿日時 2014/1/8 16:37
日光観光協会ホームページより引用。
日光を開いた勝道上人
日光という未開の地を開き、ここを一大聖地に変えたのが、勝道上人(735~817)である。
勝道上人は日光のある下野国-しもつけのくに-(栃木県)の人で、明星天子-みょうじょうてんし-のお告げに導かれて、男体山(二荒山)に向かったと伝えられている。頂上を極めるまでには、多くの困難に出会ったが、天応-てんおう-2(782)年についに悲願を達成することができた。
日光を彩る伝説の多くは、勝道上人の足跡や業績に由来しており、日光を理解するうえで、最も重要な人物である。
勝道上人は栃木のまん日「大黒さま白ねずみ」に登場する奈良時代ごろのお坊さんです。
●神仏習合とは
勝道上人が日光を開いて以来、日光はずっと神仏習合の時代が続いた。そして、日本では、高い山は古来から神でもあった。
ゆえに、男体山は御神体(信仰の中心)であり、イコール大己貴命-おおなむちのみこと-であり、千手観音-せんじゅかんのん-でもある。同じように、女峰山-にょほうさん-も御神体で、田心姫命-たごりひめのみこと-であり、阿弥陀如来-あみだにょらい-でもある。さらに、太郎山-たろうさん-も御神体で、味耜高彦根命-あじすきたかひこねのみこと-であり、馬頭観音-ばとうかんのん-でもある。
このように、いわば古来からの山岳信仰と神道、仏教の考え方が違和感なく同居していたのである。現代人には一見、複雑なように思えるが、日光の歴史を深く知るうえで欠かすことのできない知識である。
こうした神仏習合のあり方は、明治元(1868)年の神仏分離令を境に改められ、日光もその例外ではなかった。明治4(1871)年に神仏分離がおこなわれ、一時は数多くの寺が併合されるなどした。
やっぱり、日光の寂光寺が若子神社になってしまったのは、廃仏毀釈の影響であると考えられます。