梅津の長者 についてのコメント&レビュー投稿
昔々、山城の国の梅津(うめづ)にたいそう貧乏な夫婦がいた。この夫婦、働いても働いても貧乏で、食べる物と言えば、野山で採れる木の実やイモばかり。それでも2人は正直者で、人...…全文を見る

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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/7 14:21
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梅津長者物語 うめづのちょうじゃものがたり 
西尾市岩瀬文庫コレクション(午-63) 紙本着色 巻子本 2巻

 昔、山城国の梅津の里に、大変貧しいながらも信心深く、正直な左近丞夫婦がおりました。ある日、不思議な老人(実は恵比寿神の化身)に親切にしたことがきっかけで、夫婦のもとに七福神が次々と訪れます。左近丞の家に住みつく貧乏神を追い出し、襲いかかる盗賊どもを撃退した七福神たちは、歌舞管弦の宴を繰り広げ、夫婦に祝福を授けました。左近丞の妻は関白の若君の乳母となり、左近丞も官職を得て、梅津の里を領地として賜り、子々孫々まで富み栄えました。

 岩瀬文庫の梅津長者物語は、江戸時代前期の幕府御用絵師・住吉如慶広澄が描いた物語絵巻を、絵師が文政2年(1819)に写したものです。薄い紙に淡い彩色で描かれ、一部に著色を省略し、顔料の名前を注記したところもあり、粉本(画技の勉強用、お手本用)として制作したものと思われます。

http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/collection/umezu/umezu.html

粗末な小屋に住む左近丞夫妻。縁には穴があき、かまどの煙も絶えている。

親切な左近丞の妻は飢えた老人になけなしの餅を施してしまう。
その晩、夫妻の夢に夷(えびす)三郎があらわれる。夢から覚めると枕元に一体の夷の像があった。

夷(えびす)像を家の乾(北西)の隅にまつると、思いがけない子宝に恵まれた。
また、「福の神たちが来るぞ!」とおかっぱ頭の貧乏神たちが家中から這い出し、騒ぎ出す…。

貧乏神たちを圧倒し、追い出した福の神たちは左近丞の家に入って大宴会。
余興に布袋と大黒が相撲をとり、行司役は夷三郎がつとめる。

福の神の祝福を受け、富み栄えるようになった左近丞宅へ盗賊が押し入った。
迎え撃つ左近丞とその家来たちに七福神が加勢し、見事に追い返す。
大黒天は打ち出の小槌、夷三郎は釣り竿をふるって大活躍。

盗賊を追い返した七福神たちは再びお祝いの大宴会。稲荷殿(弁財天)は琵琶、毘沙門天は横笛、寿老人は琴、布袋和尚は拍子を取り、大黒、福禄寿、夷は舞いを披露する。
のちに左近丞の妻は関白殿の若君の乳母となり、左近丞も官職を得て太夫将監と名乗り、梅津の里を領地として賜った。
貧しいものでも正直と善心があればこのような栄華と富貴がもたらされるのだから、決して貧しいものや正直者を軽蔑してはならない。
投票数:34 平均点:10.00

投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/8 12:27
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梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、京都府京都市右京区梅津フケノ川町30にある神社。式内社
主祭神 : 酒解神・ 酒解子神・大若子神・小若子神
京都市西部の梅津の地に鎮座する、四姓(源平藤橘)の1つ橘氏の氏社として知られる神社である。元々は奈良時代に南方の綴喜郡井手町付近に創祀されたといわれ、のち平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座したとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E7%A4%BE
http://www.umenomiya.or.jp/
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/8 13:00
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右京区(うきょうく)
かつてこの地には山背(山城)国府が置かれていたともいわれる。渡来人の秦氏もこの地方を拠点として活躍したと思われ、氏寺として広隆寺を建立した。秦氏は聖徳太子とも関わりがあったらしく、のちの山背大兄王が蘇我氏に攻められた際には、彼に太秦に避難するよう進言する者があった。秦氏と関係の深い桓武天皇が平安京を定めると、京中に寺の建立が禁止されていたために、現在の右京区域にも多くの寺社が立ち並んだ。嵯峨天皇が嵯峨離宮(後の大覚寺)を建てたりするなど多くの貴族はこの地に馴染み、また嵐山に遊んだ。
平安京造営の際に木材を献上した山国郷(京北山国・黒田地区)が歴史上最初に現れる。
山国郷の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京都に運ばれた。
桂川の水運は嵐山や梅津を荷揚場とし、天神川を水路として丹波以北からの品物を京都中に運んだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%8C%BA

江戸時代、葛野郡には83村あった。
1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制施行(葛野郡17村)。
    内、東梅津村,西梅津村 は合併し梅津村(うめづむら)となる。
1931年(昭和6年)4月1日 葛野郡嵯峨町、太秦村、花園村、西院村、梅津村、京極村、梅ヶ畑村、松尾村、桂村、川岡村が京都市に編入、右京区が誕生。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%87%8E%E9%83%A1
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/05kinki/26_kyo11.htm
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/8 14:21
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旧梅津村
=公称町名=
梅津構口町、梅津東構口町、梅津南町、梅津北町、梅津中村町、梅津堤上町、梅津堤下町、
梅津石灘町、梅津神田町、梅津高畝町、梅津南広町、梅津北広町、梅津段町、梅津上田町、
梅津南上田町、梅津後藤町、梅津北浦町、梅津西浦町、梅津徳丸町、梅津開キ町、梅津林口町、
梅津北川町、梅津坂本町、梅津前田町、梅津罧原町、梅津フケノ川町、梅津中倉町、梅津尻溝町、
梅津大繩場町、東梅津前子町
町数 : 29+1

旧葛野郡梅津村は昭和6年京都市に編入され、右京区の一部となった。
梅津村には東梅津、西梅津の2つの大字があった。
このうち、大字東梅津の区域は大部分が「梅津」を冠称する24町に編成され、残余は大字東梅津として残された。
大字西梅津の区域は「梅津」を冠称する6町(罧原町、フケノ川町、前田町、中倉町、尻溝町、大縄場町)となった。
その後、昭和44年に東構口町、南上田町が成立、長通町、畑田町、六竹町が廃止され、「梅津」を冠称する町名は現在は29町となっている。
昭和40年(1965年)、当時の京都市内各所に残存していた「大字○○字XX」の区域はすべて「町」となり、「○○XX町」と改称された。この際、「大字東梅津」として存続していた区域は東梅津前子町となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E3%81%AE%E7%94%BA%E5%90%8D#.E6.97.A7.E6.A2.85.E6.B4.A5.E6.9D.91
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/8 15:12
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〈桂川=葛野川〉
『山城国風土記』(逸文)や『日本後紀』によると、京都盆地流入以南の桂川は、古くは「葛野川(かどのがわ、葛野河)」と称されていた。

〈梅津罧原町、桂川東岸の罧原堤(ふしはらづつみ)〉
古代は氾濫も多く、5世紀以降に嵯峨や松尾などの桂川流域に入植した秦氏によって治水が図られていた。「秦氏本系帳」によると、秦氏は桂川に「葛野大堰(かどののおおい)」を築いて流域を開発したといい、「大堰川」の川名もこの堰に由来すると推測される。『雑令』集解古記にも「葛野川堰」と見えることから、この大堰は実在したものと考えられている。また下嵯峨から松尾にかけての桂川東岸の罧原堤(ふしはらづつみ)も、その際に築造されたといわれる。これら秦氏による当地方の開発は、流域の古墳の分布から5世紀後半頃と見られ、現在も一帯には秦氏に関連する多くの寺社が残っている。

〈上流の大堰川=大井川、下流の桂川=葛河〉
その後、嵐山周辺および上流域では「大堰川」または「大井川」(大堰と大井は同義)、嵐山下流域以南では「桂川」または「葛河(かつらがわ)」と称されるようになった。『土佐日記』では「桂川」、『日本紀略』では「大堰川」、『徒然草』では「大井川」の記載が見える。うち『徒然草』の第51段では、嵯峨野の亀山殿に大井川から水を引く様子を伝えている。『雍州府志』では、川の西に「桂の里」が有ることから嵯峨より南の下流域を「桂川」と呼ぶようになったとあり、それより上流にあたる嵐山流域を「大井川」としている。

〈梅津 等の湊町〉
平安京造営の時、現在の右京区京北町の木材を京都に運搬するなど、桂川の流れは丹波と山城、摂津の木材輸送によく用いられた。17世紀に入ると嵐山の豪商であり政商の角倉了以が桂川を開削し、現在の丹波町与木村から下流の淀や大坂まで通じることになったため、船運が発達した。園部・保津・山本・嵐山・梅津・桂津などは湊町として栄えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%B7%9D_(%E6%B7%80%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E7%B3%BB)
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/8 15:41
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葛野郡高田郷(京都府)
現在の京区嵯峨野高田町付近と推定されている。
※『和名類聚抄』の郷名比定地
http://mille-vill.org/%E8%91%9B%E9%87%8E%E9%83%A1%E9%AB%98%E7%94%B0%E9%83%B7(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C)

高田郷 は梅津地区の北にあります。
古代には梅津地区も「高田郷」の範囲だった可能性があります。
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/8 16:10
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ようこそ「岩瀬文庫の世界」へ 1話3分、知の探検。
絵巻物の解説動画です。

梅津長者物語 文政2年写 住吉如慶
 貧しいけれど心優しい夫婦が、七福神の祝福を受けて幸福になるという、とてもおめでたい物語です。昔、山城の国の梅津の里に、左近の丞という貧しい夫婦がおりました。ある日、左近の丞は、尼さんを親切に道案内し、そのお礼として十銭をもらいます。「これで餅を買って夫婦で食べ、せめて日ごろの貧乏を忘れよう」妻が餅を買いに行くと、飢えた老人に出会い、妻は自分の分の餅を老人に与えてしまいました。
その晩、夫婦の夢は不思議な夢を見、目覚めると、枕元に一体の恵比寿像がありました。その像をお祀りすると、二人は思いがけぬ子宝に恵まれました。さらには、とつぜん家のあちこちから貧乏神たちが這い出し、騒ぎ出します。あたりの村からも集結する貧乏神。そこへ恵比寿神と弁財天、毘沙門天が駆けつけ、貧乏神を追い払ってしまいました…。
この絵巻は、幕府御用絵師・住吉如慶が描いた作品を、文政2年(1819)に写したものです。薄い紙に淡い彩色で描かれ、また色を塗らず、顔料の名前だけを記したところもあります。おそらくは、絵師がこうした作品を制作するお手本として写したもの、「粉本」だと思われます。
http://iwasebunko.com/contents/library037.html
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/8 17:05
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真下美弥子 著 =室町時代物語論= (抜粋)

同・第二章「福神来訪の物語の方法」は、『大黒舞』『梅津長者物語』のそれぞれが、除災招福を主張する京洛の福神信仰にもとづき制作されたことを究明する。すなわちそれは、まず両物語の伝本が、いずれも大型の絵巻・絵本の形態によることを確認し、その筋立に共通点の見出されることを考察する。しかしながら『大黒舞』主人公大悦を『二十四孝』の大舜を擬して造形しており、福神来訪の物語に仕立てあげるのに、昔話「藁しべ長者」を素材とし、悪霊退散と招福の性格を加えて成っていくのに対し、『梅津長者物語』が夫婦者を主人公として、昔話「大歳の客」を素材とし、それを複合して貧乏神退治を経て七福神の来訪を説く物語に仕立て上げていると論究する。また以上の検討を通して、『大黒舞』が先行して成立し、次いで『梅津長者物語』が制作されたことを究明し、それぞれが室町末期、あるいは江戸初期における京洛の裕福層の人々の間で、絵を見、詞章を音読するという方法で享受され、それによって福神来訪を期待する機能を有していたことを論究する。同・第三章「『梅津長者物語』と檀林皇后伝説﹂は、『梅津長者物語』が、その主人公左近丞を橘氏の末裔とする叙述に注目し、梅津の橘氏関係の伝承を追い、祝言の物語の生成の土壌を究明する。すなわちそれは、まず『雍州府志』の掲げる記事や梅宮に伝えられる檀林皇后の臍の緒切りの伝承から、梅宮と関わる檀林皇后橘嘉智子の子授け祈願・安産説話が、『桂女資料』等の説く桂女の始祖・岩出姫の神功皇后安産説話と関わり、梅津の桂女によって伝承された可能性を説く。ついで梅宮周辺に点在する皇后伝承が、西福寺など熊野比丘尼の活動の拠点とする寺院とかかわることから、これがまずは熊野比丘尼によって伝播され、やがて桂女に継承されたことを類推する。しかして『言継卿記』『言経卿記』などによって天正年間には梅津に千秋万歳をおこなう芸能者の住していたことを確認し、これらの人々が橘氏の末裔を主張した可能性を説き、本物語の主人公夫婦像にはこのような芸能者および桂女の実像が投影されていることを考究する。同・第四章「『梅津長者物語』と『牛頭天王縁起』」は、両物語が有機的な関連のもとに構築されたことを考究する。すなわちそれは、疫神牛頭天王が中世陰陽道のなかで歳神的性格を担って、福神に近い性格を帯びるに至ったことを論究し、『梅津』の左近丞と『縁起』の蘇民将来とがきわめて近似した性格を保有し、桂川畔の梅津と賀茂川畔の祇園とは、福神の招来と疫神追放の境界地として対応するもので、両物語はそのような京洛の精神風土のなかで機能し合っていたと説く。

立命館大学大学院文学研究科博士論
http://www.doc88.com/p-008904841687.html
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/8 17:16
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梅宮大社 子宝の石 ”またげ石”
神域の奥、本殿の横に鎮座する神秘的な石で、またぐと子宝に恵まれるといわれています。
詳しい由来は残念ながら定かではありませんが、御祭神の一柱である檀林皇后がまたがれたところ、速やかに皇子(後の仁明天皇)を授かったと伝えられ、以来血脈相続の石として信仰されています。
http://www.umenomiya.or.jp/matage.html

絵巻 梅津長者物語 には
「夷(えびす)像を家の乾(北西)の隅にまつると、思いがけない子宝に恵まれた。」
「左近丞の妻は関白殿の若君の乳母となり」
とあります。
梅宮大社の御神徳とよく似ています。
投票数:35 平均点:10.00

投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/3/8 17:44
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=桂川、梅津の 罧原堤(ふしはらつつみ) と 桂女=
松尾から嵐山に向かうこの道路、罧原堤(ふしはらつつみ。しかし読み難い地名が
多いですね、京都って土地は)、観光シーズンは車が大渋滞するところです。
時代劇の撮影にもこの河原はよく登場しますね。船付場のロケシーンはたいがいこの河原。

「大原女」や「白川女」はよく知られていますが、桂川にも※「桂女」と呼ばれる
女性たちがいたそうです。
鎌倉時代は遍歴する鮎売りの商人として「おほやけもの」といわれ、室町時代には
遊女の一種とみられていたようです。
その後も桂川の鮎を朝廷に献上を続け、名主は女系相続をして明治まで緒家の
祝い事の祓いや貴人の婚礼の際のお供をする、巫女的な働きをしていたそうです。
やはり不思議なパワーを持つ川なんですね。

※桂女は「桂包み」「桂巻き」といわれる長い白い布で頭を覆い、前で桂結びを
していた。その一枚布が「桂むき」の語源といわれる。京都語源案内 黒田正子著。
http://blog.goo.ne.jp/you_sai/e/166f778b997b17cc848e5eb247e5ec22

=桂女(かつらめ)=
山城国葛野郡桂(現在の京都府京都市西京区桂)に住む、
女性であり、かつて時代により巫女、行商、遊女、助産師、予祝芸能者といった役割を担った。
桂御前(かつらごぜん)、桂姫(かつらひめ)、桂の女(かつらのめ)とも呼ばれた。

「桂女」の始祖は、武内宿禰の娘「桂姫」であり、「桂姫」が伝えた飴の製法が、のちの「桂飴」となったとも伝えられる。
平安時代後期(11世紀 - 12世紀)には、供御人として桂川で収獲した鮎を朝廷に献上する鵜飼集団の女性が源流であるともされる。
鎌倉時代(12世紀 - 14世紀)には、桂からくる女性の鮎売を指し、桶を頭上に載せて売り歩くスタイルをとった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A5%B3


梅津長者物語 を人々に伝承した、桂女も多くいたと思われます。
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