〈桂川=葛野川〉
『山城国風土記』(逸文)や『日本後紀』によると、京都盆地流入以南の桂川は、古くは「葛野川(かどのがわ、葛野河)」と称されていた。
〈梅津罧原町、桂川東岸の罧原堤(ふしはらづつみ)〉
古代は氾濫も多く、5世紀以降に嵯峨や松尾などの桂川流域に入植した秦氏によって治水が図られていた。「秦氏本系帳」によると、秦氏は桂川に「葛野大堰(かどののおおい)」を築いて流域を開発したといい、「大堰川」の川名もこの堰に由来すると推測される。『雑令』集解古記にも「葛野川堰」と見えることから、この大堰は実在したものと考えられている。また下嵯峨から松尾にかけての桂川東岸の罧原堤(ふしはらづつみ)も、その際に築造されたといわれる。これら秦氏による当地方の開発は、流域の古墳の分布から5世紀後半頃と見られ、現在も一帯には秦氏に関連する多くの寺社が残っている。
〈上流の大堰川=大井川、下流の桂川=葛河〉
その後、嵐山周辺および上流域では「大堰川」または「大井川」(大堰と大井は同義)、嵐山下流域以南では「桂川」または「葛河(かつらがわ)」と称されるようになった。『土佐日記』では「桂川」、『日本紀略』では「大堰川」、『徒然草』では「大井川」の記載が見える。うち『徒然草』の第51段では、嵯峨野の亀山殿に大井川から水を引く様子を伝えている。『雍州府志』では、川の西に「桂の里」が有ることから嵯峨より南の下流域を「桂川」と呼ぶようになったとあり、それより上流にあたる嵐山流域を「大井川」としている。
〈梅津 等の湊町〉
平安京造営の時、現在の右京区京北町の木材を京都に運搬するなど、桂川の流れは丹波と山城、摂津の木材輸送によく用いられた。17世紀に入ると嵐山の豪商であり政商の角倉了以が桂川を開削し、現在の丹波町与木村から下流の淀や大坂まで通じることになったため、船運が発達した。園部・保津・山本・嵐山・梅津・桂津などは湊町として栄えた。
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