洲原神社そして西神頭家と円空
白山信仰の創始者であり修験道を進めた泰澄を円空は尊敬していたであろうことは想像できます。由緒書に「この山(鶴来山)を神山、御山(おやま)奥の院とも敬称し、昔は修験道場でしたが」とありますから、美並に近い白山信仰の洲原神社で円空が修験僧として修行した可能性は高いかもしれません。しかしこの神社に円空仏はないのです。それでは円空さんと洲原神社との間にはどんな関係があるのでしょうか。
「円空が最初に像を作り始めたのは研究者の多くが認めるように寛文3(1663)岐阜県郡上市美並町においてであることは間違いない。そして円空をして神像仏像を作らせたのは通説のように西神頭家の安永ではなく、その弟の安高である」「泰澄は養老五年(721)に美濃洲原を訪れ、そこに神社を建立して弟の三神安定を神主とした」「洲原神社の初代神主である三神安定には子どもがなかったため、泰澄および安定の長兄・安方の孫にあたる安直を養子に迎えて安直の子孫が継ぎ、後に西神頭、東神頭、勝原神頭を名乗る三神頭家に別れて西神頭家を筆頭神主として、三家の人が郡上郡内のすべての神主を務めた」(梅原猛著『歓喜する円空』より)
円空に最初に像を彫ることを進めたのは安永なのか安高なのかは論争になるところですが、西神頭家が円空のよき理解者であり庇護者であったことは確かなようです。
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