鬼怒沼の機織姫の原作との比較。日本の伝説44「栃木の伝説」より(安西篤子著)

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弥十(やじゅう)という若者が姉の家に届け物をした帰り、道に迷って鬼怒沼にたどり着いてしまう。鬼怒沼の素晴らしい景色に見とれているうちに弥十は疲れて眠ってしまった。 しば...…全文を見る

鬼怒沼の機織姫の原作との比較。日本の伝説44「栃木の伝説」より(安西篤子著)

投稿者:マルコ 投稿日時 2013/9/10 18:14
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鬼怒沼の機織姫 日本の伝説44「栃木の伝説」より(安西篤子著)

 弥十は十七、川俣に住むいきのいい若ものである。
 よく晴れた初夏のある朝、弥十は母親から用事を頼まれた。日光沢へ嫁に行っている姉のところで、先日、赤ん坊が生まれた。祝いに餅をついたので、届けてやってくれというのである。 弥十はこころよく承知して、さっそく餅の包みを背負い、家を出た。
 山道をせっせと登ると、汗ばむほどである。ブナも白樺も楓も水楢も青々と繁って、その上をやわらかい風が渡る。駒鳥がしきりにさえずっている。草いきれでむせるようだ。鬼怒川の渓流が足もとを涼しげに流れて行く。
 昼ごろに姉の家に着くと、姉も姉婿もたいそう喜んで、昼飯を食わしてくれた。
 飯を済ませ、一休みして、弥十は姉の家を出た。
 こんどは荷がないので、足も軽い。弥十はとぶように道を急いだ。
 しかし、途中でふと立ち留った。もう、とっくに、下りにかかっていなければならないのに、道はなお山を登って行く。どうやら途中で、わきへ迷いこんでしまったらしい。
 「まあ、いいや、まだ日は高い。そのうちに道がみつかるだろう」
 川俣で生まれ育って、このあたりの地形を知り抜いている弥十は、べつに不安も感じなかった。
 登っていくうちに、しだいに視界が開けた。それは、弥十も初めてみる風景だった。
 ひろびろとした台地に、大きいの小さいの、幾十ともなく沼が点在する。しかも、いまは夏のはじめのことで、可憐な花が咲き乱れていた。
 岩の間に群れ咲く、玉子の黄味みたいな花は岩車、羞じらう乙女のようにうつむいて咲く淡紅花は姫石楠花、釣鐘の形の岩鏡、見渡す限り、咲き競い、甘い匂いはあたりに満ち満ちて、弥十は思わず五体が痺れた。
 「なんといい匂いだ。なんと美しい風景だ。この世の極楽とは、こういうところを言うのではあるまいか」
 子供の頃から弥十は、鬼怒沼の話を聞かされていた高くそびえる鬼怒沼山の上には、たくさんの沼がある。そこには春から夏にかけて、きれいな花が咲いて、人を夢見心地に誘いこむ。しかし、鬼怒沼には、妖しいことがいろいろある。
 むかし、沼に大蛇が住んでいた。あるとき、腕のいい猟師がこれを撃ち殺したために大洪水が起こり、麓の村々はたいそう迷惑を蒙った。
 それからまた、沼には機織姫が住んでいる。姫が機を織ろうとしているとき、うっかり覗き見すると、おそろしい祟りがある。
 弥十はこうした言い伝えをたくさん聞かされ、「だから、鬼怒沼へは、近寄ってはなんねえぞ」と、きつくいましめられていた。
 「ここは、きっと、鬼怒沼なのだ」
 心のうちで弥十は呟いた。が、少しもおそろしいとは思わなかった。花の甘い香に酔い、それに歩き疲れてもいたので、岩の上にごろりと横になった。岩は日に照らされて、ほどよくあたたまっている。弥十はいつか、うとうとと眠りこんでしまった。
 日が翳って、うそ寒くなったのか、弥十はふと眼をさました。びっくりしてあたりを見回した。
 「そうか、おらはここで眠ってしまったんだな」
 その弥十の眼が、沼の上にいるあるものを捉えた。光りかがやくような美しい女である。黒髪は肩を越えて背になびき、身には水色の羅(うすもの)をまとっている。遠目のよく利く弥十は、羅の下のもり上がった乳房や、まるみを帯びた白い尻まで、すっかりみてとってしまった。
 女はなにか歌を歌いながら、楽しげに機を織っていた。
 トン、カラリ、トントン、カラリ
 女の白い手が機の上をす早くかすめたと思うと、梭(ひ)が走り、筬(おさ)が動いた。
 弥十は呆然と見惚れていた。
 「天女さまだ、天女さまだ」
 乾いた唇をなめなめ、夢中で呟いた。
 ふっと、女の手がとまった。女は顔をあげて弥十を見た。たちまち女の顔に、怒りの色が走った。おそろしい眼をして弥十を睨んだかと思うと、さっと立ち上がった。
 女の手から、空を切って、梭がとんできた。狙いはあやまたず、弥十は額をわられた。どっと血が溢れた。気がついたときには、もう、女の姿はどこにも見えなかった。
 弥十がぼんやりと家へ戻ってきたのは、その日も暮れ切った時分だった。どこをどう歩いてきたのか、弥十の麻単衣はあちこち裂け、顔も手足も血と泥にまみれ、履物もなかった。それでいながら、どこで拾ったのか、飴色のみごとな梭を一つ、しっかりと握りしめていた。
 あれほどいきのいい若ものだった弥十が、その日を境に、すっかり腑抜けになってしまった。眼はうつろで、ものも言わず、時折、口の中でなにか呟くばかりである。
 ・・・あれは、鬼怒沼のほとりへ迷いこんで、機織姫を見たにちがいない。
 村人はおそろしそうに噂した。
 弥十はそれからまもなく、痩せ衰えて死んでしまった。
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