No.0946
ななたんだ
七駄田
高ヒット
放送回:0595-B  放送日:1987年04月18日(昭和62年04月18日)
演出:阿部幸次  文芸:沖島勲  美術:阿部幸次  作画:上口照人
写真あり / 栃木県 ) 32772hit
あらすじ

昔々、栃木県の芳賀に小さな村がありました。この村では日照りが続き、困った村人たちはイライラしていました。

ある時、村のお百姓さんが手樋越の淵の堤を通りかかると、龍が雷のようないびきをかいて寝ていました。実は、この淵に住む雌龍がひなたぼっこをしようと堤の上まで這い上がり、あまりに良い陽気についついねむってしまったのです。

「雨を降らしてくれる龍神さまが眠っていたんじゃ雨が降らないはずだ!こんな役たたずは神様でもなんでもない、殺してしまえ!」
「目を覚まさないうちに殺して田んぼの肥やしにしよう!」ということになって、雌龍を切り殺してしまいました。

ところで、淵の底には雄龍もいたのです。いつになっても連れ合いが戻ってこないので、堤の上を見ましたところ、切り刻まれた雌龍が運ばれていくところでした。

悲しみから怒った雄龍は天に登っていくと、大粒の涙を流しました。雄龍の涙は大雨になって地上に降り注ぎ、大洪水を起こしました。

村人たちは、雌龍をころしてしまったことを後悔しましたが、もう間に合いません。この上は雄龍に謝るほかないと、毎年、村人たちは二度と過ちを犯さないため必ず赤飯を炊き、火打石で切火をして清めてから手樋越の淵に流し、雌龍の供養をしたそうです。

そうして、雌龍を七つに切って埋めたところを「七駄田」と呼ぶようになったといいます。

(投稿者: マルコ 投稿日時 2013-3-31 17:55)


ナレーション市原悦子
出典日向野徳久(未来社刊)より
出典詳細栃木の民話 第二集(日本の民話39),日向野徳久,未来社,1965年07月10日,原題「龍への謝罪」,採録地「芳賀郡」,原話「佐藤行哉」
現地・関連お話に関する現地関連情報はこちら
場所について芳賀郡芳賀町手彦子(地図は適当)
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地図:芳賀郡芳賀町手彦子(地図は適当)
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※掲載情報は 2013/4/1 0:12 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
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もみじ  投稿日時 2013/4/3 15:00
「自分たちのいうことを聞いてくれない龍なんて神様じゃない」から
「殺してしまえ」まで話が飛んでしまうなんて、切羽詰った人間って怖い(´・ω・`)、

寝ている龍を起こして、「寝てないで雨を降らせてくださいよ!」ってお願いするんじゃないんだ…
「そんな役たたずは死んでしまえ!」なんだ…怖いことこの上ない(´Д`;)

淵にはたくさんの鯉がいたとのこと。
龍のウロコは鯉であるということですし、竜門の滝(登竜門)の話もあります。

なにかしら繋がりを感じますね(・ω・)♪

ちなみに…
鯉って赤飯食べて大丈夫なの?って思ったのですが
鯉は雑食性で口に入るものならなんでも食べてしまう大変な悪食らしいです(´Д`;)エ…
まぁ、だから生命力が強いってことなんですけどね…。

マルコ  投稿日時 2013/3/31 17:24
マルコは今回、栃木県の芳賀町の手樋越(手彦子)に行ってきました。

田んぼがどこまでも続く平地に手彦子公民館があり、そのすぐ横を五行川が流れていました。
あまりに何もなさすぎるので、近くの人にお話を伺おうと思い、川を越えたところにあった古そうな家に立ち寄りました。
マルコがこの近くにあったという「七駄田」と「夫婦の龍が住んでいた手樋越の淵」の場所を尋ねたところ、この家の主である大島三郎さんという方が色々とお話を聴かせてくださいました。
「七駄田」は元々、大島さんの家の土地だったそうです。
農地解放で土地を分けた時に大久保さん?という大島さんの下で働いていた方に土地を譲り、それで大久保さんが「七駄田」に家を建てて現在に至るとのこと・・・。

マルコが大島さんの話を聴いて一番びっくりしたのがアニメでも語られていた風習が今でも続いているということです。
「毎年、村人たちは二度と過ちを犯さないため必ず赤飯を炊き、火打石で切火をして清めてから手樋越の淵に流し、雌龍の供養をしたそうです。」と市原さんが語っていた風習なのですが、この風習も大島さんの家で昔からやっているとのこと・・・。
田植えをする前の日、赤飯を炊いてわらの包に入れて、真夜中に手樋越の淵に持っていきます。手樋越の淵に着いたら後ろ向きに赤飯入りのわらの包を投げ込むんだそうです。
昔、手樋越の淵は3mも深い淵で禁漁区になっていたものですから、大きな魚がうじゃうじゃいたそうです。赤飯入りのわら包を投げ込むと淵の中からものすごい音を立てて大鯉が躍り出てきたそうです。「真夜中に大鯉が立てる音が怖かった・・・。」と大島さんが話していました。今では、真夜中ではなくて、夕方頃にわら包を持っていくのだとか・・・。理由を尋ねると、「真夜中は危ないから」・・・確かに。

昔は竹の杭?竹を使って五行川の流れをせき止めて、田んぼに水を引いたそうです。
その竹の杭にわら包が引っかかったら、その年は不作だ。引っかからずにサーっと流れていけばその年は豊作だとわかるそうです。

さて、この占いが何を意味しているのか?そのことも大島さんが教えてくださいました。
竹の杭にわら包が引っかかるということは、その年は水が少ないから稲があまり育たない。
逆に、竹の杭に引っかからずにサーっと流れていくということは、その年は水が多くて稲がよく育つぞ。というサインなのだそうです・・・。

現在は、農地開発で五行川が整備され、蛇行していた川を一直線にしてしまったので、龍の夫婦が住んでいた淵は水がなくなってしまったそうです。淵のあった場所に大島さんが案内してくれるとのこと、一緒について行きました。
龍の夫婦が住んでいたという淵があった場所には、水は流れていませんでしたが、川っぽく整備されていました。その近くには大島さんの氏神様と並んで夫婦の龍を祀る青龍神社の小さな祠がありました。

マルコは色々と、まん日の舞台巡りをしてきましたが、お話の舞台まで連れて行ってくださって説明をしてくれた方に出会ったのは初めてでした・・・。
大島さんはご自分で民俗学のことについて調べて、本を書いているとのこと。民俗学のプロなんですね!!手樋越の「七駄田」に立ち寄ったのなら、是非、三郎さんのお宅を尋ねるといいと思います!!きっと、色々と面白いお話を聴かせてくれるでしょう!!
ゲスト  投稿日時 2013/3/30 23:33
小貝川の名はひざ流域の貝塚から小さな貝がとれたことからという説、常陸と下総の国境をしもうさ流れていたので国境こっかいが、いつしかこかいになったという説がありますが明らかではありません。
また、小貝川の最大支川である五行川の名は、川のほとりで、真岡もおかの大前おおさき明垂先勝祈願の勤行をしたことに由来するという説、弘法大師が芳志戸ほうしと地内の手彦淵で水ごりを取り、五つの修行を行ったことに由来するという説などがあります。
小貝川及び五行川流域は、迫ム資源の豊かな肥沃な土地として古代から開け、芳賀はが地方の文化が育てられました。
マルコ  投稿日時 2013/3/30 23:13
夫婦の龍が住んでいたという手樋越の淵のある川は五行川らしいです。
ゲスト  投稿日時 2013/2/15 21:58
犬きり不動の崇真寺の近くじゃないですか!!こんなに近い場所にあったなんて・・・。
マルコ  投稿日時 2013/2/2 14:24
このお話の舞台は芳賀町の手樋越の堤が舞台になっているみたいです。

芳賀町. 江戸期~明治7年の村名。芳賀郡のうち。当村の七駄田には芳志戸堀 という細い堀を越えて樋で水が引かれており,細い堀を手樋【てび】といい,これを越えて水 が引かれることから手樋越と呼ばれるようになり,のち手彦子となったという。


芳賀郡芳賀町芳志戸の銅製鰐口(どうせいわにぐち)にその地名が鋳込まれているようです。
だから、相当昔から呼ばれている地名だったんでしょうね・・・。

銅製鰐口(どうせいわにぐち)有形文化財。S31.6.15指定。

面径13.1cmの小形の鰐口で、年代を経ていること、永い間打ち鳴らされたためか、肌が荒れている。撞座は素文で、2条、3条紐で3区に分けており、釣鐶の耳は比較的大きく、中央左右の目は短く小さい。表には「敬白奉懸熊野三所権現鰐口下州宇都宮東真壁芳士土手樋越」、裏には「嘉慶2年(1388)戊辰八月十八施主妙円尼敬白」と刻銘がある。
この鰐口は、近く五行川沿岸の手彦子にあった熊野権現に懸垂されていたもので、南北朝期の銘のある古い鰐口であり、銘文に古地銘芳士土、手樋越と書くなど、史料的にも貴重なものである。
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