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No.0686
やまひめさまときょうだい
山姫さまと兄妹
高ヒット
放送回:0430-A  放送日:1984年02月11日(昭和59年02月11日)
演出:馬郡美保子  文芸:杉井ギサブロー  美術:馬郡美保子  作画:平尾光子
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あらすじ

昔、大谷の里に杉作と小江(こえ)という兄妹が住んでいた。里では秋になると雷電山の神、山姫さまは赤い晴れ着を織り、秋の踊りを舞うのだといわれていた。杉作はその踊りが見たくてたまらず、妹が止めても聞く耳もたなかった。

ある秋の日、杉作はとうとう山へ入ってしまう。山姫さまのところへ行くにはまじないがあり、ひとつは山姫さまは一本足だから、山に入る者も一本足にならねばならないというもの。杉作は片足跳びで山を進んでいった。もうひとつのまじないは山姫さまの歳の数だけ山の栗を拾って供えるというもの。山姫さまの歳は十と七つだった。

杉作が栗を供えたところ、赤い衣を着た美しい山姫さまが目の前に現れた。「一本足の若者…長い間待ってましたよ…」紅葉舞う幻想的な景色の中、山姫さまと杉作は楽しく踊りを舞う。しかし、ふいに「あんちゃ~ん」小江の呼び声が響く。杉作を心配して探しにきたのだ。とたん、山姫さまの形相が変わった。小江はまじないを知らなかったため、二本足で山に踏み入っていたのだ。

杉作は戻れと叫ぶが、小江は戻らない。あわてて止めようと杉作も二本足で駆け出した。「二本足!?」山姫さまの叫びとともにあたりの様子が一変する。鮮やかな紅葉の木々は暗い色に染まり、雷が轟き、風が渦巻きだした。そして山姫さまの姿も、美しい姫から目を光らせ髪を振り乱し、爪は尖り口の裂けた化け物へと豹変した。

「おのれー、二本足めー!」杉作の後ろから山姫さまが追いかけてきて、あっという間に捕まえてしまった。小江は転げ落ちたはずみで膝を強く打って、片足でぴょんぴょんと跳びながら逃げ出した。それを見た山姫さまは「なんじゃ、おまえも一本足か。一本足なら許してやろう」と追うのをやめた。小江は泣きながら片足で山を降りた。杉作はとうとう夜になっても帰ってこなかった。

夜、村の衆が杉作を探しにいこうと話している家の屋根に、何かが落ちてきた。見れば気絶した杉作が寝ている。杉作はそのまま三日三晩、眠り続けた。その後、杉作は起きてもまだ夢を見ている様子で、正体がはっきりしなかった。このことがあってから、大谷の里では秋の取入れが終わると大きな片わらじを作って山姫さまに豊作祈願をしたということだ。

(投稿者: hiro 投稿日時 2012-1-7 22:24 )


参考URL(1)
http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/matuyama_raiden/
ナレーション市原悦子
出典埼玉の伝説(角川書店刊)より
出典詳細埼玉の伝説(日本の伝説18),早船ちよ,角川書店,1977年5年10日,原題「山姫さまと兄妹」
場所について東松山市大谷の雷電山か?
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地図:東松山市大谷の雷電山か?
追加情報
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※掲載情報は 2012/1/8 2:34 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
10件表示 (全23件)
もんた  投稿日時 2020/3/10 7:45
こんな難しいことを教えてくれてためになります。なかなか覚えることができませんが。
ゲスト  投稿日時 2016/1/21 18:23
山姫 に似ています。

夔(き)は、中国神話における神、
一本足は天から地上へ落ちる一本の雷を表すともいわれる。
『書経』「舜典」では、夔は舜帝の配下である人間で、帝によって音楽を司るように命じられた。夔は「私が石を高く低く打てば百獣がそれに従って舞うことでしょう」と言ったという。
『韓非子』「外儲説左下」第三十三では、夔が一本足であるかどうかについての議論が行われている。このことを問われた孔子は「夔は一本足ではない。夔は性格が悪く人々は何も喜ばなかったが、誰からも害されることはなかった。なぜなら正直だったからである。この一つで足りる、だから一足というのである」。または「夔は何の才能もなかったが、音楽の才能だけは突出していた。そのため堯帝が『夔は一で足りる』と言った」と答えたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

式内社 山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)
山梨県笛吹市春日居町鎮目(しずめ)1096
祭神:大山祇神(おおやまつみのかみ)
  高龗神(たかおかみのかみ)
  別雷神(わけいかずちのかみ)
本殿前には「夔(き)ノ神」と呼ばれる神像が祀られている。
山梨岡神社は山の神や水・雨の神、雷の神など自然神を祀る神社であるが、夔神信仰が広まった背景には自然に対する民間信仰の存在が指摘されている。山梨県では山の神に対する信仰が広く存在し、雨乞い習俗、雷信仰も見られる。また、山梨県で一般的な道祖神信仰においても、道切り行事として大草鞋を飾る風習のあることからも、山の神としては一本脚の姿が一般的に観念されやすいものであったと考えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%B2%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
ゲスト  投稿日時 2016/1/21 17:45
伊古乃速御玉比売 は、忌部氏の祖 天太玉命 の 后神 天比理乃咩命 とも言われている。忌部氏は武蔵国(勿論 比企郡も)を含む 南関東に 総国 を作っていたのかも知れない。(推論ではあるが)
山姫 との関わりがあるかも知れないので掲載する。

阿波忌部の東遷説話
『古語拾遺』等では、阿波忌部による房総の地名起源として次の東遷説話が知られる。
『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)や『先代旧事本紀』の説話によれば、忌部氏遠祖の天富命(天太玉命の孫)は各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えたという。
同書では続けて、天富命が植えた麻が良く育ったのでその地を「総国(ふさのくに)」というようになり、また穀の木が育った地を「結城郡」というようになったとし(分注に、麻は「総(ふさ)」の古語とし、また上総国・下総国の2国がこれにあたるとする)、阿波斎部が移住した地は「安房郡」と名付けられたとする(分注に、これが安房国の国名になったとする)。また、同地には「太玉命社」を建てられ、これが「安房社」(現在の安房神社(千葉県館山市)に比定)にあたり、その神戸(神社付属の民戸)には斎部氏があるとも伝えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E6%B0%8F#.E4.BC.9D.E6.89.BF

総国(ふさのくに、捄国)は、上古の坂東の国。
「ムサ」は「フサ」と同じ語源でありもと南関東は1国であったとする説もあり、近藤芳樹『陸路廼記』などによれば、総国は安房国・上総国・下総国のみならず、相模国と武蔵国の地域をも含んでいたとされている。総国の一部が総上(フサカミ)国・総下(フサシモ)国となり、フサカミのフを省いて「サカミ」、フサシモのモを省き音便でフがムとなり「ムサシ」となったともされ、相模国と武蔵国も調物は布(麻)が中心であり調布や麻布などの地名も残る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%9B%BD
ゲスト  投稿日時 2016/1/21 15:23
比企郡 寺谷廃寺(滑川町羽尾) の成立した地域について
(お話の舞台である東松山市大谷を含む)
比企郡 総鎮守である 伊古乃速御玉比売神社 (埼玉県比企郡滑川町伊古1242)
http://www.geocities.jp/engisiki/musashi/bun/mus171401-01.html
http://kagura999.ikaduchi.com/hpbqsite/mysite1/newpage1iko.html
が、寺谷廃寺の西方面にある。
この地域は比企地方は勿論のこと、広範囲の勢力中心地であったことが伺える。

比企地域を最初に成立させたのは、阿波(安房)忌部氏のようで、
その後、続々と多くの氏族が定着して行きました。

比企郡 名前の由来
http://kagura999.ikaduchi.com/sub27hiki.html
上記サイトに載っていなかったので、私論ですが、
比企 は 伊古乃速御玉比売神社 の 伊古 から変換された名称と思います。
伊古  iko  
 ↓
比企 hiki
に、母音だけ変換されたと考えています。

また、お話の 山姫 と 伊古乃速御玉比売 との関係もあると思います。
伊古乃速御玉比売神社 の旧地奥宮は二宮山の山頂にあります。
http://www.geocities.jp/engisiki/musashi/bun/mus171401-02.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/19 20:37
  民話               遺跡
山姫さまと兄妹(東松山市大谷) = 大谷瓦窯跡
雷電山の山姫  (ときがわ町)  =  南比企窯跡群(みなみひきようせきぐん)


上記のような 同時代に窯跡があった という共通性がありました。
当時は人的な交流と移動が深くあったものと思います。(どちらが古いかわかりませんでした。)
当時の瓦等の作製には、大量の木材を必要としていました。ですので、大量の木材を山へ伐採しに 雷電山 に入り、事故等に遭った事が神話となったものとも思われます。
二つの地域には同じ「山姫」の物語がのこったものと推測します。
また、大谷 と ときがわ町 の中間地には、東日本で最古級の 桜山窯跡遺跡 があります。

南比企窯跡群(みなみひきようせきぐん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%AF%94%E4%BC%81%E7%AA%AF%E8%B7%A1%E7%BE%A4

ときがわ町 亀の原窯跡群 南比企窯跡群の一部
http://www.town.tokigawa.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=12425

桜山窯跡遺跡
http://www.qryo.net/remains001.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4_(%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%B8%82)
ゲスト  投稿日時 2016/1/19 18:53
寺谷廃寺【てらやつ はいじ】(比企郡滑川町大字羽尾字平沼下) 興長禅寺 近く
埼玉県寺谷廃寺から勝呂廃寺への変遷
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33996/rsg082-13-sakai.pdf

仏教が百済【くだら】から日本に伝えられて約50年の時を経て、日本初の本格的寺院-飛鳥寺【あすかでら】が6世紀末に建立されました。
埼玉県内には東日本最古と推測される寺谷【てらやつ】廃寺(滑川町)があり、本県でも7世紀前半に寺院が造営されたと考えられています。
やがて8世紀後半になると、関東の集落遺跡からは仏教的要素の強い遺物が出土するようになります。また、鑑真【がんじん】の高弟・道忠【どうちゅう】が民衆に布教活動を行ったのもこの時期のことと伝えられており、仏教が次第に民衆に浸透していった様子がうかがえます。
http://www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/index.php?page_id=143

興長禅寺 (〒355-0811埼玉県比企郡滑川町羽尾4717 Tel,0493-56-2107)
http://1st.geocities.jp/tekedadesu/kouchouzenjinamekawa.html


このお話の大谷にある 大谷瓦窯跡 は 東日本最古の寺院である 寺谷廃寺 に関係が深い。
この地域は、古代の権力者(物部氏、壬生吉士氏 等?)がいて、信仰の拠点であったようです。
また、大谷にある 比丘尼山横穴遺跡 は 吉見百穴遺跡 と同系統の遺跡です。
外国系氏族の 痕跡のようです。古代の大きな勢力と豊かであった当地域の歴史を感じる お話です。
ゲスト  投稿日時 2016/1/18 20:23
大谷瓦窯跡は、県道福田・吹上線を北側にのぞむ、丘陵の東南斜面に残されています。
昭和30年5月に2基の窯跡の発掘調査が行われ、完全な形で掘り出された1基です。
瓦窯跡は、瓦を焼いて製作した窯のことで「登り窯」とよばれる形態をもっています。
また、瓦の製造は、寺院建築とともに始まったものです。
この窯跡は、地山を掘り窪めて構築したもので、前長760センチメートル、約30度の傾斜をもっています。幅60センチメートルの焚口は、瓦を立てて補強してあります。燃焼部は一段深く掘り込まれて、一つの部屋を形成しています。また、瓦を利用して13の段が形成されているなど、全体に補強工作が慎重に行われています。
出土遺物は、軒丸瓦、平瓦、丸瓦、文字瓦などです。年代としては、白鳳時代と思われます。
所在地 東松山市大谷2192-1
指定年月日 昭和33年10月8日(国指定文化財)
http://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/kurashi/bunka_sports/bunkazai/shitei_bunkazai/1350459805158.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/18 20:16
【史跡データ】
名称:埼玉県東松山市指定史跡「比丘尼山と横穴墓群」
所在地:埼玉県東松山市大谷
時代区分:古墳時代終末期
形態:横穴墓群

比丘尼山横穴墓群(びくにやまおうけつぼぐん)は、埼玉県東松山市にある古墳時代の横穴墓群の遺跡。1957年、「比丘尼山と横穴墓群」の名称で市の史跡に指定された。三千塚古墳群の第8支群が分布する通称「比丘尼山」の南斜面に3、4段に配列して築造された。40〜50基余りの横穴墓が分布していると思われ、うち3基が開口している。吉見百穴と同様の7世紀頃に造られたものであると思われる。1878年(明治11年)に山名貫義とオランダ人ヘンリー・シーボルトによって踏査が行われた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC%E5%B1%B1%E6%A8%AA%E7%A9%B4%E5%A2%93%E7%BE%A4

「雷電山古墳」を散策した後は、川越カントリークラブの西側にある、東松山市指定史跡「比丘尼山と横穴墓群」を散策してみた。

現地解説板。解説板脇の藪の中に横穴があった。

「比丘尼山」は、伊豆に流されていた源頼朝を援助した比企郡司遠宗の妻が、夫の没後、比企禅尼となりここに草庵を営んだ、といういうことから呼ばれています。周辺には二代将軍頼家の妻若狭局が頼家亡きあと移り住んだと伝える場所などもあります。
また、この丘陵の斜面には、七世紀に出現した横穴墓群が存在します。比企地方では吉見百穴、黒岩横穴群などがあり市内では、この比丘尼山横穴墓群のみです。これらの横穴墓群は吉見百穴を中心に西に広がっており、同地方に移住した渡来系氏族の壬生吉志氏とのかかわりあいのある墓制とも考えられています。(現地解説板)
http://blog.goo.ne.jp/daidi/e/fbda8ef20b34202daa27e69a353ee255
ゲスト  投稿日時 2016/1/18 20:09
雷電橋
 角川、埼玉県東松山市大谷(下流から)
 形式: 石の桁橋(1スパン) 長さ2.1m、幅1.8m 建設:明治22年(1889)3月
 角川は荒川水系の一級河川(滑川の支川)。
 この橋は大雷神社の参道入口に架かるのだが、
 大雷神社は、ここから北へ1.2Km先の丘陵の中に位置する。
 雷電橋は明治22年に大谷村氏子中が寄進したもので、角川の左岸には
 同時に建てられた旗立、鳥居、大理石の敷石も現存している。
 雷電橋は全て石造りであり、構造は石材(215×36×20cm)5枚を
 桁として渡しただけの簡素なもの。石材のうち一枚はコンクリート製に
 換えられている。これは補修ではなく拡幅の可能性が高く、
 当初は橋面の石材は4枚であり、橋の幅は1.4m程度だったのかもしれない。
 同様に橋台と桁の支承部に見られるコンクリートも
 補修ではなく嵩上げのためのものだろう。
 親柱(高さ59cm、21cm角)と欄干(高さ30cm)はダボで結合されている。
http://www.geocities.jp/fukadasoft/bridges/stone/index6.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/18 19:47
大雷神社 東松山市大谷3506 祭礼4月12日
大雷神社祭礼相撲場跡 市指定史跡 案内板より
旧大谷村の総鎮守大雷神社の社殿を中心に、辻(相撲場)が二ヶ所あり、一の辻・二の辻と呼ばれ、一の辻は大相撲に、二の辻は草相撲に使用されていました。辻には三百席ぐらいの桟敷席が、傾斜地を巧みに利用して造られていました。現在は二の辻だけが残っています。大雷神社の相撲は、江戸時代中頃から行われていたと伝えられています。相撲の興業には、領主だけでなく関東取締役の特別の許可が必要でした。相撲興業には、近在の人々が大勢集まり、「関東三大辻相撲」の一つといわれるほどにぎわいました。この日、祝酒とともに「ぼたもち」を相撲見物の人たちにふるまったことから「大谷のぼたもち相撲」とも呼ばれ、大変親しまれていましたが、明治二十年頃を最後にその姿を消しました。
昭和61年3月 東松山市教育委員会

雷電山古墳(雷電神社) 東松山市内の古墳
雷電山古墳は県道391号線から丘陵地帯を登ったところにあり、周囲は川越CCになっています。 三千塚古墳群の1基である雷電山古墳は5世紀初頭に築造された全長約86m、高さ約6mの帆立貝式古墳です。
http://saitamano.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html
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