トップページ >  お話データベース >  関東地方 >  栃木県 >  そうめん地蔵
No.0545
そうめんじぞう
そうめん地蔵
高ヒット
放送回:0341-A  放送日:1982年05月15日(昭和57年05月15日)
演出:こはなわためお  文芸:沖島勲  美術:横瀬直士  作画:小堤一明
写真あり / 栃木県 ) 83555hit
日光の輪王寺で行われる、有名な「強飯式」のはじまり

今からおよそ四百年ほど前のこと、栃木県の氏家(うじいえ)に小さな地蔵寺があり、気の優しい住職が一人で守っていました。ある日、この領内のお殿様(勝山城の左衛門尉、さえもんのじょう)から、自分の代わりに日光の二荒山神社へお参りに行くよう、頼まれました。住職は喜んで日光へ出かけ、心をこめて殿様の代わりとてして丁寧にお参りをすませました。

無事に大役をすませた帰り道、滝尾別所という所の谷川で一休みしていると急にお腹がすいてきました。近くにあった別所に立ち寄り「そうめんを一杯ご馳走して下さい」とお願いすると、別所の坊さん達はなにやら薄気味悪い笑いを浮かべながら、お堂に招き入れました。

やがて別所の坊さん達は、お膳に大山盛りのそうめんを運んできて「いっぱい食わせろと言ったのだから全部食え」と意地悪を言いはじめました。住職はお腹いっぱいに食べましたが全部食べられるはずもなく、泣いて謝りましたが、意地悪な別所の坊さんたちは許してくれません。

するとそこへ、旅の僧が「そうめんをいっぱいご馳走してくだされ」と、やってきました。別所の坊さん達はシメシメとばかりに、さっきよりもっと大山盛りのそうめんを差し出しました。しかし、旅の坊さんはつるつるぺろりと食うわ食うわ、あっという間に大山盛りのそうめんを平らげてしまいました。

悔しがった別所の坊さん達は、日光中のそうめんを買い集めて旅の坊さんに出しましたが、顔色も変えず全部平らげてしまいました。驚く別所の坊さんの目の前で、旅の坊さんは煙のように消えたかと思うと、そこには立派なお地蔵様が現れました。

実は、旅の坊さんは住職のお寺のご本尊様だったのです。さすがに別所の坊さん達も、泣きながら謝りました。そこへ、一人の木こりが「この西の谷にドンドンそうめんが流れている!」と、かけ込んできました。

こんな事があってから、この谷をそうめん谷といい、氏家の地蔵さまをそうめん地蔵と呼ぶようになったそうです。

(紅子 2011-11-21 1:30)


参考URL(1)
http://g.co/maps/nruaa
参考URL(2)
http://www.lib.pref.tochigi.jp/reference_ex/allr/tr042.htm
ナレーション常田富士男
出典栃木県
DVD情報DVD-BOX第5集(DVD第23巻)
現地・関連お話に関する現地関連情報はこちら
場所について将軍地蔵(そうめん地蔵)
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • このページを印刷
地図:将軍地蔵(そうめん地蔵)
追加情報
本の情報講談社デラックス版まんが日本昔ばなし第49巻(絵本発刊日:1986年03月15日)/講談社テレビ名作えほん第041巻(発刊日:1981年3月)
絵本の解説“一杯”を一膳ではなく、わざと沢山という意味にとり、食べきれないほどのそうめんを無理やり食べさせて、人のよいお坊さんを苦しめるとは意地の悪い僧どもです。しかしこの悪僧たちも、旅の僧が日光じゅうのそうめんをたいらげ、お地蔵様に姿を変えたのにはびっくりぎょうてん。お地蔵様は、人間の良い心も悪い心もお見通しというわけです。悪僧たちも自分の心を恥じた事でしょう。この話は、日光の輪王寺で行われる、有名な「強飯式」のはじまりともいわれています。(栃木地方の昔ばなし)(講談社のデラックス版絵本より)
講談社の300より書籍によると「栃木県のお話」
このお話の評価8.5238 8.52 (投票数 21) ⇒投票する
※掲載情報は 2011/11/21 1:30 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
お話の移動 ( 39  件):   <前  1 ..  16  17  18  19  20  21  22  .. 39  次>  
コメント一覧
10件表示 (全24件)
neneco  投稿日時 2019/7/1 2:31
そうめん、こと流しそうめんが食べたくなるお話です。

こんなお話が生まれるほど、修行僧の間で陰湿な虐めが常在化していたのでしょうか。

力で制するのではなく
相手の「手」を使ってギャフンと言わせる解決法も
穏やかで好感が持てます。

みなさん、ご当地レポートありがとうございます!
いつかお訪ねさせてもらえたらいいなぁ。
ゲスト  投稿日時 2019/1/28 17:31
そうめんが食べたくなりました

真冬ですが
ゲスト  投稿日時 2018/6/23 1:34
意外な助け方でしたね。
マルコ  投稿日時 2014/2/15 11:58
マルコが七駄田の大島三郎さんに『七駄田』のお話を聞かせていただいた折、『栃木県立博物館の篠崎先生は栃木県の民話研究を行っている人だから、紹介してあげるよ』といわれました。

そこで、県立博物館の篠崎先生に2月12日にアポイントメントをとって、お話を聞かせていただきました。

そこで、『そうめん地蔵』の滝尾別所はどうしてなくなってしまったのか?
『地獄めぐり』の覚源上人の寂光寺はどうして焼けてしまったのか?覚源上人は本当にいた人なのか?
『イモ正月』の風習は今も続いているのか?
『千駄塚』の千駄塚古墳について。

そして、栃木県の昔ばなしで「栃木県烏山町」としか表記の無い話の出典など。

いろいろ質問してみました。

そうしたら、私のために1時間半もお時間を割いてくれただけでなく、私の納得するまで、説明をしてくださり、資料を探してみせてくださりました。

篠崎、『そうめん地蔵』の滝尾別所と言うのはお坊さんたちの詰め所のようなもので、どうしてなくなってしまったのかというと時代の流れの中で別所が必要なくなったからだとおもわれます。

Qこの博物館の展示物である中世の日光の絵図には滝尾別所が描かれているので中世のころには別所は存在していたということですね?

篠崎、そうです。

篠崎、『地獄めぐり』は日光の釘抜き念仏が原作になっていると思われます。詳しいことは私もわからないので、歴史科の先生に(今は出払っているので後で)質問しておきます。

寂光寺がなくなったことについては、マルコさんの考える『廃仏毀釈』の影響もあるかもしれませんね。

Q寂光寺も中世の日光絵図に描かれているので、(およそ鎌倉時代から安土桃山時代まで)の時代には寂光寺は存在していたのですね?

篠崎、そうですね。

篠崎、『イモ正月』の風習は今でも鹿沼の草久で行われていますが、ここの地区だけの珍しい風習ではありません。草久は山に挟まれた狭い土地なので作物があまり多く収穫することができませんでした。その時のイモを食べざる終えなかった貧しい生活ことを忘れないようにと、芋の入った雑煮、汁物を正月に食べるようになったそうです。汁物ではなくて、串に刺して焼いたり、『いもかん』にしてたべるそうです。

今では、農業技術が発達して、作物がよく取れるようになったので、正月に芋の入った雑煮を食べる風習はなくなってきているみたいです。

篠崎、『千駄塚』については古墳時代からあった千駄塚古墳に後から昔話ができたのではないでしょうか?

とのこと・・・篠崎先生本当にありがとうございました。
マルコ  投稿日時 2014/1/8 16:20
年が明けてから「そうめん地蔵」様の所へ行って新年の挨拶をしてきました。

マルコがお堂を覗くと赤い布に金の刺繍糸で模様を書いたよだれかけして、頭巾をかぶったそうめん地蔵様がいらっしゃいました。きっと誰かが作ってくれたんですね。

以前、そうめん地蔵に来た時に話を聞かせていただいた、そうめん地蔵隣のおばさんの家。いつの間にか無くなって真新しい倉庫になってました。吉田さん?という方だったのですが、とても親切な方でした。マルコが話を聞かせていただこうと思って立ち寄ったとき、具合が悪かったようなのに、わざわざ出てこられてマルコに一生懸命お話を聞かせてくださいました。そうめん地蔵の話だけではなくて、自分の身の上話や何で具合が悪くなってしまったのかいろいろと話してくれました。

痛々しい手術の後を見せてくれた時には、マルコはびっくりしましたけど。だって、わたしだったら見ず知らずの人にそんなことをしないですもん。たぶん、おばさんはうれしかったのだろうと思いました。訪れる人も無い家にお客さんが来てくれたのでおばさんうれしかったのでしょう。マルコも、ニコニコしながら一生懸命お話を聞かせてくれるおばさんを見ていてうれしくなっちゃいました。

あの時の帰り際「またおいで」って言いながら、缶ジュースをくれました。約束、果たせませんでしたね・・・・。

おばさんの優しさをマルコは忘れません。

まんが日本昔ばなしの旅。アニメと実際の場所が今現在どういう風になっているのか?昔ばなしが地域とどのような関係を持っているのか?マルコはそういったことを調べるのが好きです。でも、昔ばなしの旅をしていて出会える、人間の優しさに触れるっていうのはもっと好きです。
マルコ  投稿日時 2013/11/16 20:32
そうめん地蔵様が食べたそうめんが西の谷の川を流れていて、その谷を「そうめん谷」というようになったという話を、色々と調べていたマルコなんですが。
もしかしたら、そうめん谷は滝尾別所のあった山内から西のほうにある荒沢かもしれません。

理由はというと、ある古い書籍に「荒沢には、荒沢の谷川を見下ろすようにそうめん地蔵があった」と書いてあった事。滝尾別所から西のほうにある谷川というと、上流に地獄めぐりの若子神社のある田母沢か荒沢以外に考えられなかったからです。

紅子さんはどう思いますか?・・・答えにくいなら返事なしでも大丈夫です。
マルコ  投稿日時 2013/8/10 14:52
そうめん地蔵のあるお堂の境内に、大きな銀杏木があるんです。それについて解説します!!

【堂原の公孫樹】 天然記念物(昭和61年11月28日指定)

 堂原の将軍地蔵(そうめん地蔵)境内にあるイチョウ科の落葉高木で、雌雄異株。原産は中国。樹皮が厚く、耐火力にすぐれ、薬用にもなったので、日本では古い由緒をもつ神社仏閣に医療・火防の霊樹として植えられた。このイチョウは今宮神社のイチョウ(町指定天然記念物)と推定樹齢が同じく約六百年とされている。

 今宮イチョウが雄、このイチョウは雌で、併せて「夫婦イチョウ」と呼ばれている。樹幹や枝から気根がたれ下がり、乳房の様に見え、樹液がしたたるので、古来より、乳不足の母親はこのイチョウに願いをかけると効きめがあったといわわれている。晩秋には沢山の銀杏が落ち、賞味されている。当地方の名木であり、まれにみる巨木である。

  樹齢(推定)  約六百年

  樹    高  二八・二メートル

  目 通 周 囲  四・九メートル

     氏家町教育委員会
まるこ  投稿日時 2013/5/30 19:48
日光輪王寺の伝統行事強飯式について詳しく説明します!!

日 時 毎年4月2日開催
場 所 大護摩堂
※本堂(三仏堂)修復工事に伴い、数年間は大護摩堂にて強飯式を執り行います。
祈祷料 3、000円
授与物 福杓子祈祷札・福米

縁喜がらまき
各座の最後に縁喜がらまきがあります。 子供席も用意してありますので、ご家族皆様でお詣り下さい。

日光山と強飯式
強飯式は、全国でも日光山だけに古くから伝わる独特な儀式です。 江戸期には、徳川将軍家の名代や全国の名だたる大名たちも「わが藩の名誉」として強飯式頂戴人に名を連ねました。というのも日光山といえば天皇の皇子を「輪王寺の宮」として迎えた鎮護国家の道場として天下に知られ、大名といえども、おいそれとはこの儀式に参加できなかったからです。

七難即滅・七福即生
強飯頂戴人(ちょうだいにん)として儀式に参加したり、御札を授かると、多くの御利益が得られると云われます。
それは「三天合行共」と「採灯大護摩供」という当山伝統の秘法が、儀式に先立ちとり行われるからです。昔から「この秘法を受けた者は、 七難即滅・七福即生の現世利益疑いなし」と語り継がれ、
今日に至っています。

福杓子祈祷札と福米
強飯式は、文字どおりメシを強(し)いる儀式ですから、ご祈祷を申し込まれた方には、御札と福米をお授けいたします。 御札は、シャモジ型です。たくさんの福を家庭に盛り上げる意味があり、五色の帯は、健康運・家庭運・財産運・事業運・除災運の五つを表します。福米は、食事の際ご家族みなさんで食して下さい。
御札は、仏壇や神棚など、高い処に一年間お飾り下さい。

※御祈祷をお申込の方は、当日 大護摩堂内の儀式に参列できます

「強飯式」の儀式全体は、
『三天合行供・採灯大護摩供』
『強飯頂戴の儀』
『がらまき』
という、おおよそ3つの部分から成っています。

三天合行供 ・ 採灯大護摩供
~日光山伝統秘法による特別祈祷~
儀式はまず、僧侶・山伏・頂戴人、約20名の行列が、法螺貝の響き渡る中、三仏堂に入堂します。

強飯頂戴の儀
二つの秘法が修し終わると、堂内が明るくなり、 頂戴人の方々が壇上にならび、いよいよ『強飯頂戴の儀』が始まります。入堂が終わると、お堂の全ての扉が閉じられ、照明も全て消され、明かりは、壇上に灯された1本のロウソクのみとなります。やがて、堂奥から『三天合行供』の読経の声が立ちのぼり、壇上には『採灯大護摩供』の赤々とした炎が上がります。堂内は、神秘的な祈りの雰囲気で満たされます。

が ら ま き
【参加自由】
強飯頂戴の儀を無事済ませた頂戴人たちが、儀式で授かった福徳を『自分だけのものとせず、他の人にも分けてあげる』という仏教の教えにのっとり、信徒の方々が奉納した縁起物や玩具の品々を本堂回廊から堂外の一般参拝者へ向けて一斉に撒く、強飯式の総仕上げです。これでめでたく強飯式は結びとなります。

お問合せ
日光山輪王寺 教化部
栃木県日光市山内2300
TEL:0288-54-0531
マルコ  投稿日時 2013/5/30 19:38 | 最終変更
今から1000年近く前の1062年(康平5年)に、奥州で安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)の兄弟が反乱をおこしました。
 それを鎮めるために、軍隊を引き連れた八幡太郎義貞(はちまんたろうよしさだ)は天台座主という、とても偉いお坊さんの宗円も伴って都を出発し、北に向かっていました。
 白沢や下ケ橋(現宇都宮市)を経て、軍は鬼怒川を渡ろうとしました。しかし、河原にはたくさんの妖怪たちが雲を巻き、雨を降らせて川を氾濫させ、軍隊の渡河を邪魔しました。
 そこで、八幡太郎義家は宗円に命じ、川の氾濫を抑える祈祷呪術をさせました。すると、河原の中に忽然と将軍地蔵が現れ、瞬く間に妖怪を退散させてしまいました。元の静かな川に戻ったので、軍は無事鬼怒川を渡って勝山の陣場にたどり着くことができました。義家は、この出来事から堂原に地蔵堂を建てて将軍地蔵を祀りました。この時祈祷した宗円は、後に宇都宮氏となって、下野中央部を治めました。

【うんちく】
 将軍地蔵は「そうめん地蔵」とも呼ばれており、「そうめん地蔵伝説」も伝わっています。
 また、地蔵のある堂原地蔵堂境内は、市指定史跡になっています。
マルコ  投稿日時 2012/12/23 6:32
源義家(八幡太郎義家)が奥州に進軍した時のお話です。鬼怒川の釜ヶ淵の悪蛇が邪魔をして進めません。宇都宮氏初代当主の宗円法師の祈りによって将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、勝山城を守護する寺院として堂っ原に将軍地蔵万願寺を建てました。
室町時代のころ、ここから日光山へ修行に行ったお坊さんがいじわる山伏にそうめんを無理やり食べさせられて気絶しました。すると、別のお坊さんがやってきて、日光中のそうめんを食べつくしたので山伏は降参しました。そこで、お坊さんは将軍地蔵の姿を現し、お坊さんを連れて勝山に帰りました。
これから「そうめん地蔵」の伝説が生まれ、日光の責め・強飯式が起こったといわれています。
戦国時代に北方の那須勢(扇の的のお話で有名な弓の名人・那須与一が出た家)が攻めてきて焼き討ちをしたので万願寺は焼けてしまいました。
江戸時代には再建されて堂ッ原地蔵堂となり奥州街道をゆく人人の安全にご利益があるというので有名となり、遠くは秋田、会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されています。
投稿ツリー
10件表示 (全24件)
現地関連情報
出典本調査 facebook
Twitter

オンライン状況

20 人のユーザが現在オンラインです。 (13 人のユーザが お話データベース を参照しています。)

新着コメント(コメント24件)