見沼弁天 についてのコメント&レビュー投稿
昔、埼玉の下山口(しもやまぐち)に平吉という馬方が住んでいた。ある日、千住市場へ青物を運んだ帰り道、平吉が西新井宿辺りまで来ると、旅装束姿の美しい娘が疲れきった様子で前...…全文を見る

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投稿者:マルコ 投稿日時 2013/8/22 16:23
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宝船に乗った七福神。その風景を描いた絵画などを見ると、福々しい感じがします。

七福神とはインド・中国・日本の神仙を七人組み合わせて人々に福徳寿を与える神様です。

弁財天はサンスクリット語で「サラスヴァディー」といい、インド最古の聖典「リグ・ヴェーダ」に登場する川河の神様です。

これが仏教に取り入れられて弁財天となり、梵天の妃といわれるようになりました。言語、学問、芸術の神として崇拝され、また。「弁財天」とも呼ばれ、財福、知恵の徳があると信仰を集めました。

像は八臂または二臂で、白衣をまとい、琵琶を持っています。

このお話でも、沼の畔で不思議な娘が琵琶を持って現れるというところで、娘の正体が何となくわかるような気がします。

江の島、竹生島、厳島に祀られている弁才天を三弁天。それに、天の川、金華山を加えて五弁天というんだそうです。

弁才天をまつるお堂はたいてい湖畔や海辺にあるんだそうですが、それは元々河川の神様だったからなのだからとか・・・。
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投稿者:もみじ 投稿日時 2013/8/25 22:31
琵琶湖の竹生島にある弁財天は、三大弁財天の中でももっとも古いものとされています。
建設は聖武天皇で、夢のお告げにより竹生島に建立したそうな。

弁財天が水にまつわる神様であるということからなのか、
「水は汚れを落とす」ということで元々は修験者に信仰されていて
「修行を助ける」というところから
学問のみならず商売繁盛、芸の神様ともされているそうです。
何事も大成するには修行(努力)が不可欠ですからね。

不思議なことに、竹生島の近辺の湖底水深70メートルほどのところで
「湖底遺跡」が見つかっています。
しかし、それがいつの時代のものなのか、何のために、誰がどうやって作ったのかという
湖底に遺跡が存在する理由がわかってないそうです。

出土したものの時代が縄文~中世にいたるまでと、あまりに幅がありすぎるうえに
推定される出土品の時代の時には、既に湖がそこにあるのだから不思議すぎる話です。
(※琵琶湖は世界で三番目に古い古代湖なんですよ☆)

これが、本当に竜宮だったら面白いのに…なんて思ってます(・ω・)
古い井戸・池・沼・川・湖はつながっていると言われるし、一体どこへ引越しされたのやら…。

ちなみに、「琵琶湖」の名前の由来も諸説あります。
一般には「楽器の琵琶」に似てるからということですが、
ぶっちゃけ、そこまで琵琶に似てるとは思えないんですよね(´Д`;)
昔と今では埋め立てなどの影響もあって、形が違うと思うし
おおまかな形は似てると思いますが、それこそモノに例えるなら他の例えでもできたはず。

もともとは「淡海(おうみ)」や「近海」・「鳰の海(におのうみ)」
なんて呼ばれていたのに、何をどうしたのか琵琶湖なんて名称がきたのは
個人的には「弁財天が祀られていることも関係してるんじゃないか」って思ってます。(・ω・)


江戸時代より200年ほど前から「湖の形が楽器の琵琶に似てる」
なんて書いてる古い文書も存在するので
古くから湖の形が琵琶に似てるという概念はあったようなんですが
その文書もまた竹生島にあるんですよね( ̄▽ ̄;)興味深いところです。
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投稿者:マルコ 投稿日時 2013/8/26 17:12
すごく詳しいですね!!さすがは、滋賀県出身のもみじさん!!
ところで、もみじさんってなんで「もみじ」ってペンネーム使ってるんですか?
単にもみじが好きだから?それとも昔話に登場する「鬼女・紅葉」をイメージしてでしょうか?
ごめんなさい!!ちょっと気になったもので・・・。
気持ち悪いと思ったら、返信しなくても結構です・・・。
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投稿者:beniko 投稿日時 2013/8/26 19:25
もみじから連想するものが、鬼女かぁ。。。。( ゚∀゚)・∵.
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投稿者:マルコ 投稿日時 2013/8/27 22:10
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なんか可笑しかったですか?
紅葉狩りで美女に出会ったら、鬼女だって相場は決まっているっていうじゃないですか!!・・・どこでこんな情報仕入れてきたのか、自分でいうのも分からないけど・・・。(笑)
というか、紅子さんは「紅葉狩」のお話のご存じなのですね!!ォオー!!(゚д゚屮)屮
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投稿者:もみじ 投稿日時 2013/9/1 22:45
マルコさんへ
ペンネームの由来ですが、私が季節の「秋」が好きなことから来ています(・ω・)☆
滋賀には、もみじの名所もありますが、ただ季節的に秋が好きなだけですね( ´∀`)
そんな私は3月生まれですがw(・∀・)w

鬼女・紅葉のことは私も知ってますよ☆
京の都側からみた鬼女と、地元(鬼無里)から見た鬼女とでは
被害者の立場が違うのが興味深いお話ですよね。(・ω・;)


ちなみに、もみじは一般にはカエデ科の樹をそう呼びますが、
広い意味では秋に葉が色づく現象そのものをさしているので、
銀杏などのように黄色く色づく木でも「もみじ」であり、
「紅葉する」という言葉で良いそうです(・ω・)☆

また、美しく強い色合いで紅葉する木ほど、アブラムシなどの害虫被害が少ないらしく
生命力の強い木(害虫対策できる木)であることを害虫にアピールするために
紅葉するのではないかと言われているそうですよ。

9月に入ってもまだ暑いですが、早く本格的な秋になって
過ごしやすくなればいいなと思います(*´∀`*)
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投稿者:マルコ 投稿日時 2013/9/2 13:10
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ありがとうございます!!本当に失礼なことを質問してしまって申し訳ありませんでした。
゚・*:.。..。.:*・゜(*´∀`)。. .。.:*・゜゚・*ポワワワァァン
これからも、何かともみじさんにお世話になるかと思いますが、よろしくお願いします!!
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投稿者:マルコ 投稿日時 2013/12/8 7:28
千住市場は江戸時代ごろにぎわっていた青物市場です。
そのことを考えると、このお話は江戸時代頃なのではないかと思われます。

それから、「見沼」で思い当たったのですが、このお話の「見沼」は利根川の水を、武蔵の国を中心とした303ヵ村に導いた灌漑用水路の「見沼代用水」と関係あるかもしれません。

歴史に詳しい方教えてくだされ!!
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投稿者:yassan 投稿日時 2013/12/15 16:20
歴史にはあまり詳しくないのですが、元埼玉県民ということでマルコさんの質問にお答えします。

江戸時代中期まで、今の埼玉県さいたま市の東に、見沼と呼ばれる大きな沼が存在しました。この沼がどうして江戸中期に消えたかと言うと、新田開発のため干拓されてしまったからです。

時代は八代将軍徳川吉宗の世、幕府の財政を立て直すため、享保の改革で各地に新田が開墾されました。見沼の干拓もそうした事業の一つです。徳川吉宗は、紀州から治水工事の達人、井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)を呼び干拓工事の指揮を命じます。

沼を干拓して田んぼにする訳ですから、田んぼに供給する水をどこからか引かなければなりません。そこで出て来るのが、マルコさんご指摘の灌漑用水です。井沢弥惣兵衛は、干拓と並行して利根川から水を引く灌漑用水の工事に取り掛かります。こうして出来たのが見沼代用水で、工事は1728年に完了したそうです。

参考までにウィキペディアのページを貼っておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E6%B2%BC

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E6%B2%BC%E4%BB%A3%E7%94%A8%E6%B0%B4

時代背景についてですが、アニメではまだ見沼が残っているので、1728年以前ということになりますね。私も、江戸時代初期から中期あたりの話だと思います。それ以前だと、まだ江戸はそんなに栄えていません。もちろん、浅草寺の周辺などは中世から街があったようですが、やはり江戸が栄えるのは徳川家康以降なので。

以上拙い説明でしたが参考になりましたら幸いです。
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投稿者:マルコ 投稿日時 2013/12/21 17:34
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ありがとうございます。
いろいろ勉強になりました。何かわからないことがありましたら、そのときはまたよろしくお願いします。
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/12/26 13:32
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江戸時代、木曽呂村 と 下山口新田 は、
足立郡、幕府領 大竹左馬太郎支配所(1町6宿111村の内)に属していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E9%83%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E9%83%A1

木曽呂(きぞろ)は、埼玉県川口市の大字。かつては木曽呂村であった。
川口市の北部に位置し、さいたま市緑区とも接する。東京外環自動車道の川口中央インターチェンジ(道合)の北部に位置する。
河川:芝川・見沼代用水西縁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E5%91%82


下山口新田(しもやまぐちしんでん)
さいたま市緑区の東部に位置する。北部は見沼の干拓によってできた新田であり、昔から八丁堤より南部に集住していた。見沼代用水西縁と芝川に囲まれており、かつて見沼であった付近には治水のための芝川第一調節池が建設され、西側の池となる。
1728年(享保年間)に行われた見沼の干拓は、殆どが村請けで持添新田開発として実施されたが、上山口新田と下山口新田のエリアは町人請けとし、江戸の商人鯉屋藤左衛門が開発した。鯉屋の姓が山口であったことから、北部にある方を上山口新田、南部にある方を下山口新田と名付けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%96%B0%E7%94%B0
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/12/26 13:56
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千住青物市場「やっちゃ場」
(写真)昭和初期のやっちゃば
千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。千住河原町稲荷神社境内には明治39(1906)年建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。これによれば市場開設は天正4(1576)年になりますが、史料によれば、公的に市場の形をなしたのは享保20(1735)年でした。青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあったのです。
市場には現足立区域内外から多くの農産物が集められ、それらが都心部へ運ばれましたが、その際に活躍したのが投師(なげし)といわれる人たちです。大正期には130人いたという投師は、やっちゃ場から都心の神田・京橋といった市場へ転売しました。そのため、他の朝市に間に合うように運ぶ必要があり、やっちゃ場はそれよりも早い午前3時には市が開かれていたといいます。
(写真)ゴボウの競り(せり)の様子
(写真)千住青物市場創立三百三十年祭記念碑
http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-yatchaba.html
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/12/26 15:23
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新井宿と西新井宿
少し前まで陸の孤島といわれていた鳩ケ谷。そこに隣接する川口市の新井宿、西新井宿も、同じく陸の孤島でした。どの駅からも等しくそれなりの距離があり、自転車でスピードを出しても15分以上かかります。そのため鳩ケ谷を起点としたバスに交通を頼ることが多く、長い時間バスに揺られて赤羽、川口、西川口、蕨といった京浜東北線沿線や、武蔵野線方面に出ていました。今ではようやく、埼玉高速鉄道の開通により、運賃が日本一高いものの、交通の便は格段に良くなりました。新井宿駅の開通によって、この地域も変わりつつあるように見えます。
新井宿はかつての新井宿村で、現在も大字として地名に残ります。明治時代は周辺の村と合併して神根村になっており、それが現在の神根地区となります。
新井宿村だったのは江戸時代のことで、関東郡代伊奈領142石、旗本荒川領134石の相給(一つの村を複数の領主が分割知行していること)でした。
その後、元禄郷帳では新井宿が伊奈領だけとなっているため、この間に荒川領が西新井宿村として分村したとみられています。分村後、しばらく新井宿村には東を冠して、東新井宿村とよんでいた時期があったようです。その後、伊奈氏失脚により、幕府領となり幕末へと至りました。
西新井宿は、かつての西新井宿村が大字として残ったものです。南を鳩ケ谷市、西を道合、神戸、北を石神と接していて、日光御成道を境界として東側が新井宿となります。
前述のとおり、もとは新井宿村(現在の新井宿)と一村でしたが、江戸時代の元禄のころ(1688~1703、綱吉)、あるいはその少し前に分村し、西新井宿村となりました。もとは新井宿村のうち、旗本の荒川又六郎の領分134石がその後分村したものと言われています。
西新井宿村は鳩ケ谷宿の定助郷としての役割を勤めていました。助郷とは、宿場で人馬が不足するときに応援するもので、制度として決められた、いわば課役です。定とあるのは、常任というような意味かと思います。そう、鳩ヶ谷から新井宿・西新井宿にかけて今も残る日光御成街道は、将軍家の社参の道。日光社参の行列は大変な人数が必要で、助郷という“応援”が不可欠だったようです。どの程度の応援を出すかというのは、助郷高というもので決められていました。助郷高100石につき、人足2~6人、馬2~8疋をさし出すことになっていたそうです。西新井宿村は143石(元禄郷帳)なので、人足3~9人、馬3~12疋というのが目安でしょうか。ただ人と馬を出せばいいというわけではなく、15歳以下と60歳以上は不可、馬も弱い馬などは不可、など、一定の基準があったようです。
日光社参以外でも人馬の強制徴発があり、例えば家斉の時代に下総小金原で鹿狩りが行われ、その際には西新井宿から11人が割り当てられたようです。11人!大変ですね。働き盛りが取られます。無償ではないとはいえ、結構な負担だったと思います。
新井宿、西新井宿ともに紀伊徳川家の鷹場であったようです。
産物は文化年間(1804~18)は乾生姜を生産し、江戸などへ盛んに出荷、柿渋の生産もみられます。
新井宿の鎮守は子日神社。寺は真言宗多宝院。
西新井宿村は氷川神社。寺は真言宗宝蔵寺。
両村とも、明治22年、町村制施行に伴い周辺の村と合併して神根村となりましたが、
大字として地名は残りました。その後も、神根村が合併して川口市になり神根村の名が住所として消えた後にも、新井宿・西新井宿の大字は残り、今に至ります。
新井宿は台地に、西新井宿は台地と低地をまたいでいます。
この地域は遠いとお~い昔から栄えていたとみられ、前にこのブログでも書きましたが、かつて古墳が存在していたことが分かっています。古墳があったということは、単にかつて人が住んでいたというだけでなく、古墳を築けるだけの経済力・労働力を備えた社会がそこにあったということです。
また、卜伝遺跡という、西新井宿から神戸(ごうど)に広がる縄文時代の遺跡もあります。新井宿には下一斗蒔遺跡、近隣には有名な石神貝塚、赤山陣屋跡遺跡(これは江戸時代)などもあります。非常に古い時代から存続する地域のようです。
卜伝は川口ジャンクションに変わり、新井宿の下一斗蒔遺跡は駅へと変わってしまいました。国道122号、首都高、外環道と大きな道路が通り、近年まで何とか残されていた古風な景色は、今に至って大きく変貌しつつあります。10年後、20年後の風景は、いったいどうなっているのでしょうか。
http://karada-sign.cocolog-nifty.com/id/2011/08/post-f6f5.html
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投稿者:もんた 投稿日時 2020/2/1 19:55
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物凄くためになります。
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