江戸時代、木曽呂村 と 下山口新田 は、
足立郡、幕府領 大竹左馬太郎支配所(1町6宿111村の内)に属していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E9%83%A1https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E9%83%A1木曽呂(きぞろ)は、埼玉県川口市の大字。かつては木曽呂村であった。
川口市の北部に位置し、さいたま市緑区とも接する。東京外環自動車道の川口中央インターチェンジ(道合)の北部に位置する。
河川:芝川・見沼代用水西縁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E5%91%82下山口新田(しもやまぐちしんでん)
さいたま市緑区の東部に位置する。北部は見沼の干拓によってできた新田であり、昔から八丁堤より南部に集住していた。見沼代用水西縁と芝川に囲まれており、かつて見沼であった付近には治水のための芝川第一調節池が建設され、西側の池となる。
1728年(享保年間)に行われた見沼の干拓は、殆どが村請けで持添新田開発として実施されたが、上山口新田と下山口新田のエリアは町人請けとし、江戸の商人鯉屋藤左衛門が開発した。鯉屋の姓が山口であったことから、北部にある方を上山口新田、南部にある方を下山口新田と名付けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%96%B0%E7%94%B0