新井宿と西新井宿
少し前まで陸の孤島といわれていた鳩ケ谷。そこに隣接する川口市の新井宿、西新井宿も、同じく陸の孤島でした。どの駅からも等しくそれなりの距離があり、自転車でスピードを出しても15分以上かかります。そのため鳩ケ谷を起点としたバスに交通を頼ることが多く、長い時間バスに揺られて赤羽、川口、西川口、蕨といった京浜東北線沿線や、武蔵野線方面に出ていました。今ではようやく、埼玉高速鉄道の開通により、運賃が日本一高いものの、交通の便は格段に良くなりました。新井宿駅の開通によって、この地域も変わりつつあるように見えます。
新井宿はかつての新井宿村で、現在も大字として地名に残ります。明治時代は周辺の村と合併して神根村になっており、それが現在の神根地区となります。
新井宿村だったのは江戸時代のことで、関東郡代伊奈領142石、旗本荒川領134石の相給(一つの村を複数の領主が分割知行していること)でした。
その後、元禄郷帳では新井宿が伊奈領だけとなっているため、この間に荒川領が西新井宿村として分村したとみられています。分村後、しばらく新井宿村には東を冠して、東新井宿村とよんでいた時期があったようです。その後、伊奈氏失脚により、幕府領となり幕末へと至りました。
西新井宿は、かつての西新井宿村が大字として残ったものです。南を鳩ケ谷市、西を道合、神戸、北を石神と接していて、日光御成道を境界として東側が新井宿となります。
前述のとおり、もとは新井宿村(現在の新井宿)と一村でしたが、江戸時代の元禄のころ(1688~1703、綱吉)、あるいはその少し前に分村し、西新井宿村となりました。もとは新井宿村のうち、旗本の荒川又六郎の領分134石がその後分村したものと言われています。
西新井宿村は鳩ケ谷宿の定助郷としての役割を勤めていました。助郷とは、宿場で人馬が不足するときに応援するもので、制度として決められた、いわば課役です。定とあるのは、常任というような意味かと思います。そう、鳩ヶ谷から新井宿・西新井宿にかけて今も残る日光御成街道は、将軍家の社参の道。日光社参の行列は大変な人数が必要で、助郷という“応援”が不可欠だったようです。どの程度の応援を出すかというのは、助郷高というもので決められていました。助郷高100石につき、人足2~6人、馬2~8疋をさし出すことになっていたそうです。西新井宿村は143石(元禄郷帳)なので、人足3~9人、馬3~12疋というのが目安でしょうか。ただ人と馬を出せばいいというわけではなく、15歳以下と60歳以上は不可、馬も弱い馬などは不可、など、一定の基準があったようです。
日光社参以外でも人馬の強制徴発があり、例えば家斉の時代に下総小金原で鹿狩りが行われ、その際には西新井宿から11人が割り当てられたようです。11人!大変ですね。働き盛りが取られます。無償ではないとはいえ、結構な負担だったと思います。
新井宿、西新井宿ともに紀伊徳川家の鷹場であったようです。
産物は文化年間(1804~18)は乾生姜を生産し、江戸などへ盛んに出荷、柿渋の生産もみられます。
新井宿の鎮守は子日神社。寺は真言宗多宝院。
西新井宿村は氷川神社。寺は真言宗宝蔵寺。
両村とも、明治22年、町村制施行に伴い周辺の村と合併して神根村となりましたが、
大字として地名は残りました。その後も、神根村が合併して川口市になり神根村の名が住所として消えた後にも、新井宿・西新井宿の大字は残り、今に至ります。
新井宿は台地に、西新井宿は台地と低地をまたいでいます。
この地域は遠いとお~い昔から栄えていたとみられ、前にこのブログでも書きましたが、かつて古墳が存在していたことが分かっています。古墳があったということは、単にかつて人が住んでいたというだけでなく、古墳を築けるだけの経済力・労働力を備えた社会がそこにあったということです。
また、卜伝遺跡という、西新井宿から神戸(ごうど)に広がる縄文時代の遺跡もあります。新井宿には下一斗蒔遺跡、近隣には有名な石神貝塚、赤山陣屋跡遺跡(これは江戸時代)などもあります。非常に古い時代から存続する地域のようです。
卜伝は川口ジャンクションに変わり、新井宿の下一斗蒔遺跡は駅へと変わってしまいました。国道122号、首都高、外環道と大きな道路が通り、近年まで何とか残されていた古風な景色は、今に至って大きく変貌しつつあります。10年後、20年後の風景は、いったいどうなっているのでしょうか。
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