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No.0978
とんぼのやどりぎ
とんぼのやどり木
高ヒット
放送回:0617-A  放送日:1987年09月26日(昭和62年09月26日)
演出:芝山努  文芸:沖島勲  美術:亀谷三良  作画:内田けいこ
埼玉県 ) 21721hit
あらすじ

昔々、埼玉のある所に家来に無理難題ばかりを申し付ける殿様がいた。

家来の顔が怖いから取り替えて来いと言い、それが出来ないと知ると、今度は家来の眉毛を剃り落とし、顔に落書きをするという調子だった。

ある日殿様は、空に浮かぶ雲を取ると言い出し、4人の家来を連れて北秋津の日月神社(じつげつじんじゃ)の境内の近くにやって来た。そこで、空に浮かぶ雲を矢で射落とすよう家来に命じた。そんなことは出来ようはずもなく、家来の1人が、「とんぼが邪魔をして矢を射れません。」と言い訳をして、何とか殿様の機嫌を損ねないようにした。

すると殿様は、今度はとんぼを自分の歳と同じ数だけ捕まえて来いと家来に命じた。家来たちは、とんぼを取る道具も無ければ虫かごも持ってないので、悪戦苦闘する。しかし家来の1人が、ちょうど境内の裏で鳥もちでとんぼを取っている子供を見つけ、虫かごに入ったとんぼを譲ってもらった。ところが、とんぼの数は殿様の歳には1つ足りない。

家来の苦労をよそに昼寝をしている殿様を起こすと、家来たちは、とんぼを捕まえたものの、殿様の年齢の数には1つ足りない旨を伝えて土下座して謝った。しかし殿様の怒りは治まらず、とんぼが入った虫かごと手に取ると、こう言った。

「これ日月大明神よ、もしお前に神としての力があるなら、これからワシが投げ入れるとんぼを、別の木にしてご神木から生やして見せろ。それが出来ないのなら、この祠は取り壊してしまうぞ。しかし、もしそれが出来たら、ワシは二度と家来に無理難題は言わない。」

そう言うと、殿様はとんぼの入った虫かごを、ご神木の空ろ(うつろ)の中へ投げ入れてしまった。

すると、なんと不思議なことに、ご神木の空ろの中から榎木(えのき)が生えてきた。そしてそれ以降、殿様は口が聞けなくなり、本当に家来に無理難題が言えなくなってしまった。

今では、日月神社のご神木のケヤキは枯れてしまい、その枯れ木の空ろの中から生えた榎木だけが大きく育っているそうだ。

(投稿者: やっさん 投稿日時 2011-10-15 17:36 )


参考URL(1)
http://8397.at.webry.info/201103/article_13.html
ナレーション市原悦子
出典埼玉県
場所について日月神社(じつげつじんじゃ)
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地図:日月神社(じつげつじんじゃ)
追加情報
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※掲載情報は 2011/10/15 18:23 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
10件表示 (全10件)
ゲスト  投稿日時 2016/2/19 19:34
声を失った殿様は、その後どうしたのでしょうか。
手話が無かった時代、筆談でやり取りするか
息子がいたら、その子に家督を譲るしかないでしょうね。
ゲスト  投稿日時 2016/1/17 19:25
殿様の候補者
大石 信重(おおいし のぶしげ)

大石 信重(おおいし のぶしげ)は、南北朝時代の武将。大石氏中興の祖とされる。兄家村同様に足利氏に属して活躍した。
木曾氏当主・木曾家教の三男。縁戚関係にある大石為重の婿養子となる。関東管領・上杉憲顕に仕え、武蔵国比企郡津下郷三百貫文を与えられた。
観応2年(1351年)、挙兵した南朝方の新田義宗と敵対し、笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。延文元年(1356年)5月、その戦功として武蔵国入間・多摩両郡に13郷を得て同年8月に多摩に移住し、二宮(現在のあきる野市)に館を構えた。また、武蔵国目代職、武蔵国守護代、伊豆国守護代を歴任した。
至徳元年(1384年)、浄福寺城(現在の八王子市下恩方町)を築城した。応永31年(1424年)、89歳(または91歳)で死去。
墓所は信重が開基した曹洞宗大龍山青松院永源寺(所沢市久米)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E4%BF%A1%E9%87%8D


北秋津城(きたあきつじょう)は、埼玉県所沢市北秋津にあった日本の城。歴史的な背景が殆ど伝わっていない城であり、『柳瀬川流域の歴史と文化』の著者の栗原仲道は大石遠江守信重の館とし、所沢市史では鎌倉時代以降の豪族(一説には久米郷が近い事から村山党の久米氏)の館と推測している。また、滝山、八王子領の交通網や滝の城との繋がりを考慮すると後北条氏が何らかの拠点として使用していた可能性も考えられる。付近にある日月神社の案内板に書かれている民間伝承によると『この土地の殿様がいつも領民に無理難題ばかりを吹きかけて困らせており、ある時に無理な願いを叶えた代わりに神罰によって声を失った』 と伝わっているが、この殿様が北秋津城主の事だと言われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%A7%8B%E6%B4%A5%E5%9F%8E

永源寺 (所沢市久米1342 ) =柳瀬川防衛線上で秋津城西方向にある城を兼ねた寺=
曹洞宗寺院の永源寺は、大龍山と号します。永源寺は、大石信重が南北朝時代に創建、由木城主大石定久の叔父で由木永林寺を開山した一種長純大和尚(永禄8年1565年寂)が開山したといいます。
*永源寺の縁起
永源寺は、大石信重が南北朝時代に創建、由木城主大石定久の叔父で由木永林寺を開山した一種長純大和尚(永禄8年1565年寂)が開山したといいます。
*新編武蔵風土記稿による永源寺の縁起
(久米村)永源寺
大龍山と號す、龍ヶ谷村龍穏寺末に属して、洞家の古禅刹なり、開山は一種長純和尚永禄八年二月廿七日寂す、されど是は今の派に改めし開祖にて、寺の起立は由木永林寺と開山の僧同じと云、今按に當寺応永年中の鐘などあるを以て察するに、猶古き開闢なるべし。本尊釋迦開基大石氏の位牌を安ず、正面に開基英嵓道俊大居士とあるは、瀧山の城主大石遠江守定久が法名なり、左右に秀岳宗闕大居士直山道守座主とあるは、共に大石氏の法名にて宗闢は陸奥守氏照なり、道守は遠江戸守信重なり、客殿に鐘をかく、刻して口、
武州入東郡久米郷、大龍山永源禅寺
住持雪心叟融立本願、檀那大石遠江入道
應永廿九年壬寅九月初吉日 直山 道守
衆寮。白山社、山王社。熊野社。(新編武蔵風土記稿より)
http://www.tesshow.jp/saitama/tokorozawa/temple_kme_eigen.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/15 16:15
江戸道(所沢街道)
現在、所沢街道と呼ばれている街道の所沢市内の旧道部分である。
所沢街道は東京都西東京市の北原交差点で青梅街道から分岐し、
東村山市を抜けて所沢に至る道である。
志木街道と交差する「秋津町3丁目」の交差点の脇に旧道の入口がある。
「秋津」という地名は所沢市と東村山市の両方にある。
およそ、柳瀬川をはさんで北側が北秋津村(所沢市)、
南側が南秋津村(東村山市)である。
北秋津村の江戸道については以下のような記述がある。

『「新編武蔵風土記稿」
巻之百五十七 入間郡之二
北秋津村
南秋津村は多摩郡に属せり、…
東は上安松村、南は則南秋津村にて柳瀬川を界とす、
西は久米村にて、北は所澤村なり、
皆畑の地村内に一條の道あり、南秋津村より入所澤村へ達す、
是江戸より秩父への往還の路なり、』

地図では江戸道(赤線)が日月神社を避けるように左に屈曲し、
緑色※の道と共通する部分。

※=鎌倉街道羽根倉道分岐点
長久寺山門付近が分岐点としておおよその位置になるのではないだろうか。
地図上では、長久寺から東へ延びる緑色の道がそれにあたる。
所沢市史地誌付図の<久米道>であり<引又道>である。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~tenbou/OldLoad/edomiti.htm


鎌倉街道(羽根倉道)
所沢市は鎌倉街道の上道が市域を南北に縦貫している。
この上道と、東北方面を目指す中道とを結ぶ道がある。
所沢-志木-与野-大宮-上尾-蓮田を経て加須市方面へ向かう道である。
荒川を渡る場所は羽禰蔵(はねくら)になる。

以下は、「所沢市史上巻」からの引用である。
「久米付近で鎌倉街道上道の本道から東北へ分かれて、柳瀬川に沿って北岸を
北秋津から上安松の石地蔵を経て城に至る街道」

江戸道をわたり、北秋津から東に入ると柳瀬川北岸の段丘面が近づいてくる。
ここから柳瀬の城地区にいたるまで、柳瀬川が段丘面を削り
時には淵をつくり、時には崖を作りながら東に流れていく。
「新編武蔵風土記稿」の北秋津村の項には、曼荼羅淵(河童の伝説がある)の
記述があり、段丘と川との関係がから推し測られる。
道はこの川と段丘との間を続いていく。

『「新編武蔵風土記稿」
巻之百五十七 入間郡之二
北秋津村 柳瀬川
多摩郡の界を流、川の中央を郡界とす、久米村の方より来り、
流末は安松村の方に至る、幅十間許、砂利川なり、
この川持明地院境内曼荼羅堂の背後の淵、至て深し

巻之百五十七 入間郡之二
持明院 阿弥陀堂
或は曼荼羅堂と号す、弥陀は立像にて長三尺余、弘法大師の作なりと云う、
當寺の前に當れる崖下を柳瀬川流る、その淵至てふかし、』

http://www5c.biglobe.ne.jp/~tenbou/OldLoad/hongou.htm


北秋津日月神社前を、二本の古道が通っていたことがわかる。
ゲスト  投稿日時 2016/1/15 14:05
『久米氏 埼玉苗字辞典より引用
久米 クメ 出雲風土記に意宇郡久米社を久末(くま)と註す。姓氏録・河内諸蕃に「佐良々連、百済国の人・久末都彦(一本に久米都彦)より出づる也」と。久米族は熊族(久末)と同じなり。古事記に「天降りの後、天孫は二人の部下(大伴連、久米直の祖先)を連れて、『此地は韓国に向ひ、甚吉き地』」と見ゆ。久米族は神代の時代に韓国の熊ノ国より渡来す。熊条参照。また、久米は久味(くみ)とも称す。伊予国久米郡は古代の久味国にて、国造本紀に「久味国造。応神朝、神魂尊十三世の孫伊予主命を国造と定め給ふ」とあり。神魂尊は朝鮮の神なり。入間郡久米村(所沢市)あり、三ヶ島村は久米庄を唱える。嘉元三年長井文書に武蔵国久米郷と見ゆ。久米村永源寺応永二十九年鐘銘に入東郡久米郷大龍山永源禅寺とあり。茨城県那珂郡那珂町九戸、東茨城郡小川町十三戸、美野里町九戸、行方郡北浦町九戸、石岡市二十戸、秋田県仙北郡仙南村六十戸、横手市六十五戸、鳥取県東伯郡東伯町八戸あり。

村山党久米氏 入間郡久米村より起る。寛永十六年三上文書に武州多摩郡山口領所沢村と見え、所沢村及び久米村付近は多摩郡とも称す。武蔵七党系図(冑山本)に「久米氏、多摩郡。山口六郎家俊―七郎家高―久米左近将監家時―三太郎泰家―孫太郎家盛(弟に家俊、成家、家清)」と見ゆ。承久記卷四に「久目のさこん」。典籍古文書に「建治元年五月、武蔵国・久米七郎跡六貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」と見ゆ。山口村誌に「山口壚、山口郷の住人粂但馬守等山口党と云い伝う。粂郷に粂但馬守邸の旧地あり」と見ゆ。

粂原 クメハラ 原は春に同じで、ハラ、ハルは古代朝鮮語の都・城の意味なり。非農民の職業集団久米族の居住地を粂原と称す。此氏は武蔵国のみに存す。
埼玉苗字辞典より引用』

ウィキペディアによれば「粂」は「久米」であり、日本神話における軍事氏族の一つで、『新選姓氏録』によれば高御魂命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族だ。
 また『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて邇邇芸命を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。
 このように日本書紀における久米氏は大伴氏と共に邇邇芸命と共に天下り、後に神武東征で久米氏は神武天皇に付き添って、軍事を司どる役目を持つ。大和国久米(現奈良県橿原市久米町)は久米部の氏寺とされる久米寺があり、久米氏の本拠地であるという。
 地方においては大和国久米氏と同族なのか武蔵国に武家の久米氏があり、武蔵国入東郡久米郷(現所沢市久米)発祥。武蔵七党村山党の一族という。その他の地では常陸国の久米氏は久慈郡久米(現茨城県常陸太田市久米)発祥で桓武平氏大掾氏族。阿波国の久米氏は伊予国発祥というように久米氏は日本全国に分布しているが、特に阿波国(現徳島県)に集中しているという。
http://kagura.wa-syo-ku.com/%E5%AE%AE%E4%BB%A3%E7%94%BA%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE/%E8%A5%BF%E7%B2%82%E5%8E%9F%E9%B7%B2%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE
ゲスト  投稿日時 2016/1/15 13:46
お殿様は久米氏か?

武蔵国の久米氏
久米氏(武蔵国久米氏)
本姓:桓武平氏村山支流
種別:武家
出身地:武蔵国入間郡久米庄
主な根拠地:武蔵国入間郡久米庄
武蔵国入間郡久米庄より起こる。本姓を桓武平氏とする村山氏の流れという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E6%B0%8F
ゲスト  投稿日時 2016/1/15 13:38
八雲神社 埼玉県所沢市北秋津702
北秋津八雲神社は、所沢市北秋津にある神社で、日月神社の飛び地境内社です。北秋津八雲神社は、天保六年比企郡中沢村の牛頭天王を分祀して創建、明治2年八雲神社に改称したといいます。

北秋津八雲神社の由緒
北秋津八雲神社は、天保六年比企郡中沢村の牛頭天王を分祀して創建、明治2年八雲神社に改称したといいます。

新編武蔵風土記稿による北秋津八雲神社の由緒
(北秋津村)記載なし(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による北秋津八雲神社の由緒
飛び地境内社の八雲神社は、「明細帳」によると天保六年比企郡中沢村の牛頭天王を分祀したもので、明治二年に八雲神社と改称したというが、比企郡中に同村名はないため、上記の中沢村は、現日高町中沢のことかと思われる。祭りは七月一五日(古くは六月一五日)であり、天王様と呼ばれている。(「埼玉の神社:所沢市日月神社項」より)
http://www.tesshow.jp/saitama/tokorozawa/shrine_akitsu_yakmo.html

北秋津の天王様は毎年7月15日に近い土・日曜日に行われる。八雲神社での神事の後、神輿が町内を廻る。神輿の火渡りは最大の特徴で、厄除けの意味があるといわれている。
http://www.tokoro-kankou.jp/blog/072.html

八雲神社:西武新宿線または西武池袋線の所沢駅下車。所沢駅東口信号を出て、北秋津小学校入口方向に行きます。北秋津信号の所に鎮座しています。さらに200mほど歩くと日月神社があります。以前は八雲神社は日月神社の末社だったようで、毎年7月中旬「天王様の祭り」を今でも共同で行っているとのこと。当日の御神輿の火渡り儀式が有名です。その様子はユーチューブというインターネット動画サイトでも見られます。八雲神社の境内には「蛇弁天の石像」があり、この地が「蛇信仰」の地であったことも分かります。
http://blog.goo.ne.jp/gozutennou/e/eb068edc8f95d82a3ab27d4c913557ed
ゲスト  投稿日時 2016/1/15 12:54
日月神社(じつげつじんじゃ)
日月神社は、所沢市北秋津にある神社です。日月神社の創建年代等は不詳ながら、秋津村の鎮守社として創建したとも、東方の大堀山館の鎮守として創建したともいいます。秋津村が南北に分村してより北秋津村の鎮守社となっていたといいます。

社号:日月神社
祭神:大日孁貴尊、月読尊
境内社:御嶽社、愛宕社、稲荷社
住所:埼玉県所沢市北秋津367

日月神社の由緒:日月神社の創建年代等は不詳ながら、秋津村の鎮守社として創建したとも、東方の大堀山館の鎮守として創建したともいいます。秋津村が南北に分村してより北秋津村の鎮守社となっていたといいます。

新編武蔵風土記稿による日月神社の由緒
(北秋津村)日月社 村の鎮守なり、持明院の持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による日月神社の由緒
日月神社<所沢市北秋津三六七(北秋津字峰際)>
柳瀬川を挟んで、秋津の地はあったが、明治期、川を境にして南北に分け、北秋津が埼玉県に、南秋津が東京都に属した。
当社は秋津の鎮守として創建されたと伝えられるが、後に南秋津が氷川社を鎮守として祀ったため、当社は北秋津の鎮守となった。社殿は古くは境内にある槻の根元に奉斎されていたが、後に境内へ盛り土を行い石段を設け、社殿を新たにした。
この槻は「蜻蛉の宿生木」として知られ、伝えによればこの地に住む殿様が無理ばかりいう人で、家来に「蜻蛉を自分の年齢だけ捕えてまいれ」と命じたが捕えた蜻蛉の数が一匹足りず、これを怒った殿様は家来を斬り、蜻蛉を一固まりに握りつぶして日月大明神の神木へ投げつけ「祠の主、神としての力があるならば、蜻蛉の固まりをこの木の宿生木としろ、できなければ祠を取り壊す」というとたちまち御神木から宿生木が生え、同時に殿様は啞となり二度と無理が言えなくなったという。また、この殿様は社の東方の大堀山館と呼ばれる所に住んでいて、当社は館の鎮守として祀られたともいわれる。
祭神は大日孁貴尊と月読尊である。境内末社に御嶽社・稲荷社・愛宕社があり、飛び地境内社として東原井に八雲神社がある。
江戸期にあっては真言宗持明院持であったが、明治に入ってからは鳩峰八幡社社家の嶺家が代々祀職を務め、現在嶺崇が奉仕している。(「埼玉の神社」より)
http://www.tesshow.jp/saitama/tokorozawa/shrine_akitsu_jitsugetsu.html

秋津
日月神社のある地域の名称であるが、古来、蜻蛉のことを秋津と呼んでおり、おそらく上記の伝説に唐突に登場する蜻蛉の存在と大きく関係していると考えられる。
http://www.japanmystery.com/saitama/tonbo.html

日月(じつげつ)神社には枯れてしまったが変わった槻(ケヤキ)があった。地上6mのところから榎が生えており、江戸時代半ばに書かれた武蔵野話には挿絵入りで紹介されている有名な木であった。幹周は2丈7尺(8.1m)。……大久根茂著「埼玉巨樹紀行」による。 
現在は枯れてしまって僅かに樹皮の部分が残るのみだが、新しい生えたケヤキに支えられて残っている。石段を上がってすぐ右にある。昔あった榎はその後も見えない。
http://members2.jcom.home.ne.jp/y-tadashi-jp/tokorozawa/Jitugetujinjya/jitugetujinjya.htm

日月神社:じつげつじんじゃ
ご祭神 :・大日孁貴尊(おおひるめのみこと) ・月讀尊(つきよみのみこと)
鎮座地 :所沢市北秋津367
<由緒>
柳瀬川を挟んで、秋津の地はあったが、明治初期、川を境にして南北に分け、北秋津が埼玉県に、南秋津が東京都に属した。当社は秋津の鎮守として創建されたと伝えられるが、のちに南秋津が氷川社を鎮守として祀ったため、当社は北秋津の鎮守となった。
社殿は古くは境内にある槻の根元に奉祭されていたが、後に境内へ盛り土を行い石段を設け石段を設け、社殿を新たにした。 
古くは日月大明神と呼ばれ、太陽と月を祀るため昼夜にわたって氏子を守ってくれる神といわれ、殊に農耕の神として崇敬されている。
「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より

石段を登った、小高い所に鎮座する神社だった。境内に残る、槻の神木は無残に枯れてしまっていたが、昔は見事な大木であったと思われる。
http://kamimeguri.web.fc2.com/tokorozawanitigetujinjya.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/15 12:34
北秋津城
別  名 大堀山館
所 在 地 埼玉県所沢市北秋津
築城年代 鎌倉時代
 北秋津城の歴史はまったくわかっていない。北秋津城から西へ1キロ進むと所沢市久米であり、このあたりは村山党久米氏の本拠地であった。久米氏の居館が置かれた場所は詳らかではなく北秋津城が久米氏の居館であったと考える歴史家もいるようだが、僕の考えでは鎌倉街道が通う久米集落のどこかに久米氏の館は存在していたものと思う。柳瀬川沿いには滝の城や山口城といった城館が存在しているが、北秋津城も同様で柳瀬川に臨む高台に築かれている。
 北秋津城は所沢市によって発掘調査も行なわれており、その研究結果も小冊子として発行されているが城主を特定するまでには至っていないようだ。後北条氏の手が加わっているという説があり、山口城や根古屋城から滝の城への連絡用の城として利用していたのかもしれないが所沢市史では鎌倉時代以降の豪族の館と推測している。
 所沢駅の南東方向に位置する城で台地先端部を利用して築かれている。所沢駅からバスが出ているが徒歩でも15分程度である。城址とその周辺は民家であり真冬でも木立ちに遮られており旧所沢街道が城址を分断するように通っているが、当時は日月神社裏手の高台までを含む一帯が城域だったようだ。
 城址には土塁が残っているが民家に阻まれて近づくことができない。県道から眺めるのが唯一と言っていい撮影スポットだ。県道に面した小さな駐車場から土塁を見ることはできるが、遠くからの撮影ではただの雑木林であり近くからだと大きすぎて撮影できない。城址に面したマンションはシャトーという名前であり唯一城跡らしさを伝えるものとなっている。
 隣接する日月神社の案内板には『この土地の殿様がいつも領民に無理難題ばかりを吹きかけて困らせており、ある時に無理な願いを叶えた代わりに神罰によって声を失った』という民話が記されているが、その困った殿様が北秋津城の城主だったのかもしれない。また娘が通う小学校の校歌に『土のふるさと所沢 花のお城の窓あけて』という一節があるが、これは北秋津城のことを指しているのであろうか。自宅から自転車で5分足らずの場所で、よく利用する食料品店への途中にあることから、いちばん目にする機会の多い城址だが、遺構をはっきり目にすることができないのが残念だ。
 初めて訪れた日から随分と経つが、その当時はまだ東京都の住人だった僕が、北秋津城の近くで暮らし我が子が城跡の目と鼻の先にある学校に通うことになるとは夢にも思わなかった。
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/002saitama/002kitaakitsu/kitaakitsu.html

北秋津城の南西に位置する日月神社
境内にある御神木
この案内板にある殿様って北秋津城の殿様の事?
http://blogs.yahoo.co.jp/lunatic_rosier/61385167.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/15 11:55
昔々、トンボのことを「あきづ」または「あきつ」といっていました。学区の南側を流れる柳瀬川には毎年秋になるとたくさんのトンボが水を求めて飛んできました。そこで昔の人はトンボがいる所なので「あきつ」というようになり、その北のほうだから「きたあきつ(北秋津)」というようになったのだという説があります。北秋津小にあるトンボルームやトンボタイム、駅近くのトンボ通り商店街というようにトンボにかかわりがあるのはそのためです。
http://www.tokorozawa-stm.ed.jp/kitaakitu-eh/chishiki.htm
ゲスト  投稿日時 2015/9/27 22:32
無理難題を言ってるという自覚はあったのかwつまりいじめっ子だったんだな
まあ、神様も国のトップがこんなんじゃ家来や民が可哀想だと思ったんだろうね
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