Re: とんぼのやどり木

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昔々、埼玉のある所に家来に無理難題ばかりを申し付ける殿様がいた。 家来の顔が怖いから取り替えて来いと言い、それが出来ないと知ると、今度は家来の眉毛を剃り落とし、顔に落書...…全文を見る

Re: とんぼのやどり木

投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/17 19:25
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殿様の候補者
大石 信重(おおいし のぶしげ)

大石 信重(おおいし のぶしげ)は、南北朝時代の武将。大石氏中興の祖とされる。兄家村同様に足利氏に属して活躍した。
木曾氏当主・木曾家教の三男。縁戚関係にある大石為重の婿養子となる。関東管領・上杉憲顕に仕え、武蔵国比企郡津下郷三百貫文を与えられた。
観応2年(1351年)、挙兵した南朝方の新田義宗と敵対し、笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。延文元年(1356年)5月、その戦功として武蔵国入間・多摩両郡に13郷を得て同年8月に多摩に移住し、二宮(現在のあきる野市)に館を構えた。また、武蔵国目代職、武蔵国守護代、伊豆国守護代を歴任した。
至徳元年(1384年)、浄福寺城(現在の八王子市下恩方町)を築城した。応永31年(1424年)、89歳(または91歳)で死去。
墓所は信重が開基した曹洞宗大龍山青松院永源寺(所沢市久米)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E4%BF%A1%E9%87%8D


北秋津城(きたあきつじょう)は、埼玉県所沢市北秋津にあった日本の城。歴史的な背景が殆ど伝わっていない城であり、『柳瀬川流域の歴史と文化』の著者の栗原仲道は大石遠江守信重の館とし、所沢市史では鎌倉時代以降の豪族(一説には久米郷が近い事から村山党の久米氏)の館と推測している。また、滝山、八王子領の交通網や滝の城との繋がりを考慮すると後北条氏が何らかの拠点として使用していた可能性も考えられる。付近にある日月神社の案内板に書かれている民間伝承によると『この土地の殿様がいつも領民に無理難題ばかりを吹きかけて困らせており、ある時に無理な願いを叶えた代わりに神罰によって声を失った』 と伝わっているが、この殿様が北秋津城主の事だと言われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%A7%8B%E6%B4%A5%E5%9F%8E

永源寺 (所沢市久米1342 ) =柳瀬川防衛線上で秋津城西方向にある城を兼ねた寺=
曹洞宗寺院の永源寺は、大龍山と号します。永源寺は、大石信重が南北朝時代に創建、由木城主大石定久の叔父で由木永林寺を開山した一種長純大和尚(永禄8年1565年寂)が開山したといいます。
*永源寺の縁起
永源寺は、大石信重が南北朝時代に創建、由木城主大石定久の叔父で由木永林寺を開山した一種長純大和尚(永禄8年1565年寂)が開山したといいます。
*新編武蔵風土記稿による永源寺の縁起
(久米村)永源寺
大龍山と號す、龍ヶ谷村龍穏寺末に属して、洞家の古禅刹なり、開山は一種長純和尚永禄八年二月廿七日寂す、されど是は今の派に改めし開祖にて、寺の起立は由木永林寺と開山の僧同じと云、今按に當寺応永年中の鐘などあるを以て察するに、猶古き開闢なるべし。本尊釋迦開基大石氏の位牌を安ず、正面に開基英嵓道俊大居士とあるは、瀧山の城主大石遠江守定久が法名なり、左右に秀岳宗闕大居士直山道守座主とあるは、共に大石氏の法名にて宗闢は陸奥守氏照なり、道守は遠江戸守信重なり、客殿に鐘をかく、刻して口、
武州入東郡久米郷、大龍山永源禅寺
住持雪心叟融立本願、檀那大石遠江入道
應永廿九年壬寅九月初吉日 直山 道守
衆寮。白山社、山王社。熊野社。(新編武蔵風土記稿より)
http://www.tesshow.jp/saitama/tokorozawa/temple_kme_eigen.html
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