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No.0544
だいこくさましろねずみ
大黒さま白ねずみ
高ヒット
放送回:0340-A  放送日:1982年05月08日(昭和57年05月08日)
演出:若林常夫  文芸:境のぶひろ  美術:西村邦子  作画:若林常夫
栃木県 ) 35640hit
日光市足尾の地名の由来

昔々、下野(しもつけ)の国のある所に、それは仲の良い爺さまと婆さまが住んでいた。2人はたいそう信心深く、朝な夕なに必ず畑の側の大黒さまに手を合わせていた。

ところが、もうそろそろ稲が実を付けはじめる頃。ひどい嵐が吹いて、大黒さまの祠を吹き飛ばしてしまった。爺さまと婆さまは、畑の中に倒れた大黒さまをひとまず家に持ち帰り、大黒さまのために新しい祠を作ることにした。2人は嵐が吹いても吹き飛ばされない所がいいと考え、山の中腹の硬い岩盤をくり抜いて、その中に大黒さまを安置することにした。

爺さまはノミで硬い岩を削り、婆さまはモッコで石くずを運んだ。2人は昼も夜も休まず働き、その年の秋も終わろうという頃、とうとう祠は完成した。ところが、無理がたたったのか、爺さまと婆さまは腰を痛めてそれ以降寝込んでしまった。もう冬が近いというのに、2人の田んぼはまだ刈り入れを済ませておらず、村の中で1枚だけ稲穂をつけたままポツンと残っていた。

大黒様のお使いの白ねずみは、この様子を見ると2人の田んぼから稲穂を1本くわえ、どこやら山の中へ走って行った。白ねずみが向かった先は、その頃日光の山々に道を開き、仏の道を広めていた1人の坊さまの所だった。坊さまは稲穂を持って来た白ねずみを不思議に思い、なにやら伝えたいことがあると見て、ねずみの足に目印の赤いひもを付けてその後をついていくことにした。

そして坊さまは、白ねずみに導かれて爺さまと婆さまの家にやって来た。坊さまは、早速2人のために薬を作り、さらに茎が固くなった稲をガリガリと刈り、あっという間に刈り入れを済ませてしまった。

白ねずみの案内で爺さまと婆さまを助けたこの坊さまは、日光開山の祖と言われる勝道上人(しょうどうしょうにん)だったそうな。そして、上人が白ねずみにひも(緒)をつけたことにちなんで、この地は足緒(足尾)と呼ばれるようになったという。

 

(投稿者: やっさん 投稿日時 12-17-2011 10:30)


参考URL(1)
http://www.geocities.jp/pd_assist/wind_wat/asio/watarasegawa1.html
参考URL(2)
http://www2.dokidoki.ne.jp/tomura/ashioCu07.htm
ナレーション市原悦子
出典栃木県
DVD情報DVD-BOX第5集(DVD第25巻)
場所についてわたらせ渓谷鉄道、大黒橋わきの波之利大黒天
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地図:わたらせ渓谷鉄道、大黒橋わきの波之利大黒天
追加情報
本の情報講談社テレビ名作えほん第043巻(発刊日:1981年3月)
講談社の300より書籍によると「栃木県のお話」
このお話の評価8.3636 8.36 (投票数 11) ⇒投票する
※掲載情報は 2011/12/17 10:30 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
10件表示 (全10件)
猫  投稿日時 2021/12/29 17:59
素晴らしいお話です。このお話のお爺さんとお婆さんのように、いつでも信心を忘れず神様を大切にしていれば、いつか良いことがあるのですね。先日、千葉県船橋市のバーの店先に置かれていた大黒様が投げられるという事件をニュースで見ました。本当に罰当たりだと思います。まんが日本昔ばなしは、そういう人に是非見ていただきたい番組だと思います。
ゲスト  投稿日時 2016/2/26 19:56
勝道上人の農業力が半端ない件
マルコ  投稿日時 2014/1/2 20:06
栃木県の昔ばなしの「大黒さま白ねずみ」の足尾を舞台にしたNHK土曜ドラマ『足尾から来た女』というドラマが始まるみたいです。栃木県民としては気になるドラマです。
「ふるさと再生 日本の昔ばなし」声優として出演している柄本明さんが田中正造役として出ています。

【放送】2014年1月18日(土)・25日(土) 午後9時~10時13分[総合・各73分]

【出演】尾野真千子
鈴木保奈美、北村有起哉、渡辺大、岡田義徳、尾上寛之、玄覺悠子、金井勇太
/ 松重豊 原沙知絵 / 國村隼 / 藤村志保 柄本明 ほかの皆さん

【脚本】池端俊策(オリジナル作品)

【音楽】千住明

【演出】田中正(NHKドラマ番組部)

【制作統括】高橋練(NHKドラマ番組部)


100年前の日本で
"国によって故郷を奪われた人々"がいた―
激動の時代の中、たくましく生き抜いた一人の女の物語

明治末。栃木県谷中村は足尾銅山の鉱毒で田畑を汚染された。田中正造の闘いもむなしく、村は16戸にまで激減。国は住人に村を捨てるように命じ、残った家の強制執行に踏み切った。

この谷中村の娘が田中正造の仲介で社会運動家・福田英子宅に家政婦として派遣された史実をもとに、一人の女性が見知らぬ東京の地で石川三四郎や幸徳秋水ら社会主義者たち、さらに石川啄木や与謝野晶子など多彩な人物と交わる中で成長する姿を描く。

故郷を失う苦しみを味わいつつ人間としての尊厳を守り、たくましく生き抜くヒロインを、NHKドラマでは連続テレビ小説「カーネーション」以来の単独主演となる尾野真千子が演じる。
ストーリー谷中村に住む貧しい農家の娘・新田サチ(尾野真千子)は、兄の信吉(岡田義徳)の仲介で「東京に出て雑誌『世界婦人』を主宰する福田英子(鈴木保奈美)の家政婦をしてくれないか」と正造先生(柄本明)に頼まれる。時は明治39年、政府は足尾銅山の操業を守るため、渡良瀬川下流の谷中村を池にし、鉱毒をそこに沈殿させようとしていた。東京に向かうサチには、国の監視役・日下部錠太郎(松重豊)が同行し、正造と福田家に集まる知識人をスパイさせようと言葉巧みに命じる。

住み込み先の福田家には、美貌の女主人・福田英子と年下の恋人・石川三四郎(北村有起哉)を中心に、幸徳秋水、大杉栄など時代を代表する社会主義者たちが出入りしていた。明治40年2月。足尾銅山の賃上げ闘争を支援する社会主義者達の言論活動は警察の弾圧に繋がり、石川三四郎も投獄されてしまう。三四郎の逮捕に罪の意識を感じたサチは福田家を飛び出すが、戻り着いた故郷で目にしたのは国の強制執行で打ち壊される自分の家だった。しかも強制破壊の中心にいたのは、兄の信吉だった・・。


http://www.nhk.or.jp/dodra/ashio/index.htmlより引用。
マルコ  投稿日時 2013/12/23 16:50
このお話はおそらく、奈良時代ごろのお話だと思います。

このお話に登場する勝道上人は
735年(天平7年)4月21日 - 817年(弘仁8年)3月1日 生まれ
幼名 藤糸丸
名 俗名:若田
尊称 勝道上人
生地 下野国南高岡(現・栃木県真岡市)
没地 栃木県日光市
寺院 紫雲立寺(四本龍寺)
師 如意僧都
弟子 尊鎮法師
っていう方らしいですから。

エピソード

 勝道上人は俗姓若田(わかた)氏、下野国(しもつけのくに)(栃木県)に生まれ、幼名藤糸丸(ふじいとまる)を名乗りました。上人の両親は長く子に恵まれず出流(いずる)の千手観音に祈願したころ、結願(けちがん)の夜、夢の中で白蛇がくわえた金鉢の中に藤糸で十文字に巻かれた白玉を授かり、上人が誕生しました。藤糸丸の名の由来です。

 上人は幼少の頃より仏堂・石塔を造って遊ぶなど他の子供と異なる様子から「やがて世のため人に尽くす僧となろう」という周囲の期待通り、7歳の時、明星天使(みょうじょうてんし)のお告げを受けてより一心に仏道に励みます。

 20歳には一人岩窟で3年の修行をおこない、その後大剱峰(おおつるぎがみね)に3年を過ごし、27歳で鑑真和上(がんじんわじょう)の弟子、如宝僧都(にょほうそうづ)のもとで沙弥(しゃみ=僧)となります。共に沙弥となった従兄弟の道珍(どうちん)、教旻(きょうびん)と共に大剱峰北麓に「宿(しゅく)」を結んで修行を重ね、五色の雲が誘(いざな)うとおりに険峻を経ると日光山麓の一大河大谷川(だいやがわ)にたどり着きます。上人32歳のことです。

 天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)明星天使の導きで山菅(やますげ)の蛇橋(現在の神橋(しんきょう))をもって大谷の激流を渡り、北岸に草庵を結んだ上人が、東方に紫雲が立ち登るをみてその地に仏堂を建てたのが四本龍寺であり、日光山の開創です。

 その後33歳で二荒山(男体山)の山頂を極めようと欲し、女峰権現(にょほうごんげん)を勧請(かんじょう)、太郎山頂に慈眼太郎明神(じげんたろうみょうじん)を奉祀(ほうし)しますが、厳しい自然に阻(はば)まれ登頂は果たせませんでした。

 天応2年(782)14年来の望みであった男体山登頂をようやく達成、真言宗祖である弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)に「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑(しゃもんしょうどうさんすいをへげんじゅをみがくのひ)」(『生霊集(しょうりょうしゅう)』所収)として賞賛されます。

 男体山頂を極めた上人は、中腹の湖畔(中禅寺湖(ちゅうぜんじこ))に時を過ごし伽藍(がらん)を建立、自然の立木のまま千手観音(中禅寺立木観音(たちきかんのん))を手刻して安置しました。(もとは湖北岸二荒山神社(ふたらさんじんしゃ)中宮祠(ちゅうぐうし)の側に在った中禅寺は、明治35年(1902)の暴風雨に伴う山崩れで崩壊し、現在の位置に移動しました。)

 その後上人は82歳で中禅寺に至り、男体山頂に男体山三社大権現(さんしゃだいごんげん)(日光三社大権現(にっこうさんじゃだいごんげん)の起源)を勧請して、翌年3月1日に入滅(にゅうめつ)されました。開山堂背後の墓塔が上人の離怖畏所(りふいしょ)であり、その他中禅寺湖上の上野島(こうずけじま)に首骨を納め、湖畔菖蒲浜(しょうぶがはま)近く瑠璃壺(るりがつぼ)にご遺骨を納めると伝えられています。
マルコ  投稿日時 2013/10/6 1:16
「大黒さま白ねずみ 」の足尾と田中正造と公害と熊本つながりってことで!!
すごいこじ付けのような気がするんですけど・・・許してください!!

□ 水俣病の地、熊本で

 田中正造と直接のつながりはない熊本市で7月中旬、正造の没後100年を記念した講演会が開かれた。会場には100人以上が詰め掛け、ほぼ満席の盛況ぶりだった。

 公害病「水俣病」の発生地、熊本県でも正造が再び注目されている。「足尾鉱毒事件の教訓を生かせば、ミナマタの被害拡大を食い止められたはず」。同じ「過ち」が指摘される東京電力福島第1原発事故の発生を契機に、そんな声が高まっているのだという。

 講演会を主催したのは、熊本県民でつくる田中正造研究会。現在代表を務める小松裕熊本大教授(日本近代思想史)が正造研究の第一人者であったことから、1991年に発足した。現在の会員は約10人。毎月1回例会を開き、関連文献の輪読や活動報告などを行う。

 創始メンバーである山野幸司事務局長(66)は「水俣病事件が起きた熊本だからこそ、正造の思想を学ぶ必要がある」と強調する。

 ■ ■

 「海はよみがえりつつあるけど、完全に戻ることなんてあるのだろうか」

 かつて、原因企業「チッソ」が有機水銀を含む工場排水を垂れ流した八代(不知火)海。元チッソ社員の山下善寛さん(73)は、水俣市の高台から海面を眺め、そうつぶやいた。

 末端の研究員だった山下さん。水俣病の原因が排水にあることは、公になる以前から把握していた。だが、「漏らせばクビになるので、口外できなかった」。それから5年以上も排水は続き、被害拡大に加担したのではないかとの後悔が頭をよぎる。

 転換は68年。労働組合が「何もしなかったことを恥とし、水俣病と闘う」と宣言した。後押しされるかのように、山下さんらは患者の支援に奔走した。退職後も活動を続け、患者の収入増や生きがいづくりを目指して、せっけん工場を作った。

 ■ ■    

 足尾と水俣。いずれも原因企業は「国策」を盾に責任を逃れ、御用学者は被害を過小評価した。弱者は切り捨てられた。

 そのような反省に立ち、水俣病研究の第一人者で医師、故原田正純さんが提唱したのが「水俣学」だ。被害現場や患者に学ぶことが特徴。熊本学園大に水俣学研究センターが設置されている。

 モデルとなったのは、正造の唱えた「谷中学」。正造は遊水池化に伴い強制廃村となる谷中村に移り住み、村民の指導や教育をしようとする。

 だが、同じ境遇に身を置き、苦悩をともにするうち、教育されていたのは自分だと気づく。村民の真の姿を知り、「我以外みな我が師」との境地に達するのだ。

 同センターの客員研究員でもある山下さんは、力説する。「不屈の精神で弱者の側に立ち続けた正造は手本。思想を受け継ぎ、水俣で生かしていかなければならない。それが加害者である私の使命なんです」。

 生誕の地・佐野市から千キロ以上も離れた熊本で、正造の思想は確かに生き続けている。
マルコ  投稿日時 2013/10/6 1:09
「語り部」徹し被害地案内 文明見つめ直す機会提供 誕生地から 田中正造大学 より引用。

「大黒さま白ねずみ」の足尾と田中正造つながりってことで・・・。

 「100年以上たった今でも、煙害の爪痕は残ったままです」

第14回足尾グリーンフォーラムの一環で行われた日光市の松木渓谷をめぐるフィールドワーク。ガイド役の坂原辰男さん(61)=佐野市小中町=は、緑のまばらな山肌を見渡して語気を強めた。

佐野市を拠点とする団体「田中正造大学」の創設者の1人であり、現事務局長。正造ゆかりの地や足尾鉱毒事件被害地のガイドをライフワークにしており、自宅から遠く離れた足尾地区や渡良瀬遊水地などにも頻繁に足を運ぶ。正造研究に関わる人の中でも屈指の行動派だ。

「正造の思想と行動をもっと広く知ってほしい。生誕の地である佐野の人間が率先して発信していかないと」。没後100年の節目の年。「語り部」を自負する言葉の端々から強い使命感がにじむ。

 ■ ■

東京電力福島第1原発事故を一つの契機に、正造の思想は時を超えて注目されている。

さかのぼること四半世紀。1986年2月、同じく思想に共感する市民の手で同団体は発足した。活動内容は定期ニュース発行のほか、正造の言葉をメーンにしたカレンダーの制作販売、研究者らによる講演会など。「歴史的事実を学ぶだけでなく、現代の社会問題と正造をいかに結び付けるか」。今日的視点に立って県内外に問い掛けを続けている。

谷中村で最後まで闘った正造に倣い、現地で「行動」することも重視している。鉱毒事件のガイド役を積極的に引き受けるのも、そうした考えの表れだ。

「鉱毒被害の苦悩を肌で感じるためにも、現地を訪れることが大切」と強調する坂原さん。鉱毒事件と同じく、住民を古里から遠ざけた原発事故には憤りをあらわにする。「経済優先の国策の弊害で民衆が犠牲になる。鉱毒事件と変わらない構造に今度こそメスを入れないといけない」

現場の住民に寄り添おうとする団体の性格は、正造だけでなく、発足のきっかけをつくり著書で「キミよ歩いて考えろ」と唱えた環境学者の故宇井純氏の影響が色濃い。事務局員の神谷光信さん(65)=群馬県邑楽町=も、自戒を込める。「住民目線で行動できなくなった時、正造大学は終わりを迎える」

 ■ ■ 

死の直前、正造は「此処も敵地だ」と嘆いた。病状の心配ばかりで、己の闘争の行く末を案じない周囲に失望して発したとされる。

正造の事業を継承する-。同団体が結成当時から掲げるテーマだ。事務局員の石川栄介さん(63)=小山市小宅=は、没後100年を好機と捉え、各団体の連携強化を訴える。

足尾の植林やサケの放流事業、非戦を唱える護憲団体。渡良瀬川流域で正造の影響を受ける組織は少なくない。「運動の渦が広がれば、もっと大きな力が生まれるはず」と石川さん。「生誕地で活動する正造大学がそのきっかけをつくりたい」とあらためて意欲をにじませた。
マルコ  投稿日時 2013/10/6 1:01
田中正造の最愛の弟子 嶋田宗三が集めた文書展示 佐野


【佐野】晩年の田中正造の手足となって行動し、最期をみとった谷中村残留民嶋田宗三(1889~1980年)が収集した資料による企画展「田中正造と共に~嶋田宗三家文書からたどる」が5日、大橋町の市郷土博物館で始まる。

 正造の葬儀における大隈重信らの弔辞文のほか、最晩年の日記、書簡、新たに見つかった支援者の日記など約50点を展示。正造をより深く知ることができる貴重な資料が並ぶ。

 宗三は正造の没後、支援者らが持っていた膨大な日記や書簡を精力的に書き写したり収集して資料の散逸を防いだ。それらは「田中正造全集」(岩波書店)に収められ、現在の正造研究の礎を築いた。

 同展は、正造ゆかりの博物館として関連資料約1万点を所蔵する同館の開館30周年を記念して開かれる。宗三の子孫の故嶋田早苗さんが同館の初代館長を務め、嶋田家の資料の多くは同館に寄贈された。

 正造の没後100年にちなみ、数万人が訪れたという本葬での弔辞文を多く飾った。

 11月24日まで。月曜休館。入館料は一般210円。問い合わせは同館電話0283・22・5111。
マルコ  投稿日時 2013/10/6 0:56
下野新聞の記事より引用します!!

「大黒さま白ねずみ」 の足尾の治山「伝えるべき事業」に選定

林野庁は3日、治山事業を実施し100年が経過したことを機に「後世に伝えるべき治山~よみがえる緑~」と銘打ち、全国60カ所の治山事業地を初めて選定したと発表した。県内では国や県などが手掛けてきた日光市の男体山と足尾の2治山事業が選ばれた。県森林整備課は「地元の皆さまや携わった関係者に感謝している。地域環境の保全に資する治山施設を後世に伝えていくため、関係市町と連携し、PRに努めたい」と説明している。

 男体山治山事業は「自然景観に配慮しつつ長大な崩壊地を復旧してきた」点が評価された。主な工期は1958~2010年。

 山頂より四方にV字形の侵食谷が形成され、岩が崩落を繰り返す急勾配の崩壊地を、谷止め工事などで復旧した。下部の中宮祠地区を保全するだけでなく、登山者の安全も守っているという。

 足尾治山事業は「足尾荒廃地の緑の復元」が認められた。主な工期は1897~2010年。足尾銅山周辺の荒廃地は山火事や銅の精錬に伴う森林の伐採、亜硫酸ガスの被害により、1956年には約1万3千ヘクタールとなった。

 これまでに緑化工事や土留め工事などで民有林と国有林計1488ヘクタールの緑が回復した。明治から大正にかけて多数発生した土砂流出は見られなくなった。近年では環境学習の場としてボランティアが植樹活動をしている。

足尾って「足尾銅山鉱毒事件」の影響がいまだに残っているみたいで、山がものすごく荒廃しているんです。「足尾鉱毒事件」と「田中正造」さんは歴史の教科書に載っているくらい有名ですね。

知らない人のために、足尾鉱毒事件とは?

足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山の公害事件。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。

銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。


足尾銅山は今は廃業していますが、観光名所として有名です!!

以下、足尾観光協会パンフレットより引用。

足尾銅山観光は“日本一の鉱都”とよばれた足尾銅山の再現をはかって始められた国内最大の坑内観光です。この坑内観光を見学すると、足尾銅山の歴史や内容ばかりでなく鉱山のもつしくみをよく知ることができます。 現在、銅山観光では、もっともっとくわしく銅山の様子を知っていただくため、さらに内容を拡充させようと、新しい坑内観光の施設づくりにとりかかっています。どうぞご期待ください。

足尾銅山観光がオープンしたのは、1980年(昭和55年)4月。400年続いた銅山の閉山を機に、その内部を開放し、そこで働いた人々の姿をとおして、銅山の歴史や仕組みを知ることができます。

薄暗い坑内は人形を使って、年代ごとに紹介されており、奥へ進むにつれ、それは人形とは思えないほどの迫力を感じるから不思議。

鉱石の採掘を再現した縦坑道の演出や、鉱石から銅になるまでをジオラマや模型を用い分かりやすく説明した資料館です。実際に使われていた電気機関車や銅インゴットなどに触れてみては!

1741年(寛保元年)から5年間に4万貫(約150t)の寛永通宝(1文銭)が足尾でつくられました。寛永通宝は、江戸末期まで各地でつくられていた一般的なお金で、足尾でつくられたものは裏に「足」の字があるところから「足字銭」と呼ばれています。


【個人】

区分 入坑料
大人 800円
小・中学生 400円

【団体】

区分 入坑料
大 人(15人~) 700円
高校生(学校団体のみ)(15人~) 500円
小・中学生(15人~) 300円

【お問い合わせ先】


足尾銅山観光管理事務所

〒321-1514 栃木県日光市足尾町通洞 9-2
TEL:0288-93-3240
FAX:0288-93-3401

マルコ  投稿日時 2013/2/9 6:50
足尾の名前の由来になった波之利大黒天とは・・・?

 
 日光を開山した勝道上人が、男体山を極めようと難行苦行していたところ、中禅寺湖の波の上に大黒天が現れ、上人を励ましたと言われる頃、白ネズミが穂をくわえて来るので、ネズミの足にひも(緒)を結び後を追うと、この洞穴(現在の祠と大黒天は、昭和31年に大黒橋架替の時造られたもので、古来の祠は向かって右やや下の場所)に入った。 そこで上人は、ここを修験の場とし、洞穴に大黒天と白ネズミの像を祀り、この郷を「足緒」(足尾)と命名したと伝えられている。
yassan  投稿日時 2011/12/17 10:38
お話は勝道上人と足尾という名の由来ですが、以下のサイトによれば大黒様は、わたらせ渓谷鉄道の藤間駅の近く、大黒橋のわきにあるようです。

http://www2.dokidoki.ne.jp/tomura/ashioCu07.htm
http://www.geocities.jp/pd_assist/wind_wat/asio/watarasegawa1.html
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