トップページ >  お話データベース >  関東地方 >  群馬県 >  赤城と日光の戦い
No.1302
あかぎとにっこうのたたかい
赤城と日光の戦い
高ヒット
放送回:0822-B  放送日:1991年11月23日(平成03年11月23日)
演出:玉井司  文芸:沖島勲  美術:玉井司  作画:大西治子
群馬県 ) 140798hit
あらすじ

昔々のずっと昔、赤城の神さまと日光の神さまは絶えず争っていた。戦(いくさ)の原因は、日光の中禅寺湖が満々と水をたたえているのに対し、赤城の山は岩だらけで、水が無かったからであった。

ある夜、赤城の神は、赤城の仁王に中禅寺湖の水を盗んでくるように命じる。赤城の仁王が中禅寺湖に着くと、そこには水を取られまいとする日光の仁王が待ち構えており、二人は取っ組み合いになった。赤城の仁王は、組み合いながら中禅寺湖の水を右手ですくい、素早く赤城山の方に投げた。日光の仁王が慌てて赤城の仁王の右手を押さえると、今度は左手で水をすくい赤城の方に投げた。こうして、赤城の仁王が右手で投げた水が大沼に、左手で投げた水が小沼になったと言われている。

日光の神は、取られた水を取り返すべく、白蛇の大群を赤城山に向かわせた。ところが、赤城山の岩かげからはムカデの大群が現れ、白蛇の大群を返り討ちにしてしまった。勢いにのった赤城勢は、中禅寺湖まで攻め込み、中禅寺湖を自分達のものにしようとしていた。そして劣勢に立たされた日光の神は、誰か自分に加勢してくれる味方を探さねばならなかった。

そのころ、奥州の厚樫山(あつかしやま)の辺りに猿麻呂(さるまろ)という若者がいた。ある日、猿麻呂が昼寝をしていると、一匹の立派な白鹿が猿麻呂の前を駆けていった。猿麻呂は、得意の弓で白鹿をしとめようと後を追った。すると白鹿は岩の上に立ち、自分は日光の神であると猿麻呂に告げた。

日光の神は、赤城の軍勢を迎え撃つため猿麻呂に加勢を頼みに来たのだと言う。そして、猿麻呂は奥州に残してきた自分子孫であり、もし、赤城の軍勢を撃退したなら、ここ男体山を猿麻呂に狩場として与えると言う。猿麻呂も日光の神とは親戚同士なので、加勢しないわけにはいかなかった。

翌朝、猿麻呂が中禅寺湖の西に立つと、地響きとともにムカデの大群が赤城の方から攻め寄せてきた。そして、日光方からは白蛇の大群がこれを迎え撃った。ところが、時間が経つにつれて蛇の大群はムカデの大群に押されて後退し始めた。

その時、白蛇の中から金色のうろこを持った大蛇が鎌首をもたげた。この大蛇こそが、日光の神であった。すると、赤城方からはムカデの大群の中から一匹の大ムカデが現れ、大蛇の首に巻きついた。あまりのすさまじい戦いに息をのむ猿麻呂であったが、日光の神との約束を思い出し、大ムカデに向かって矢を放った。猿麻呂の放った矢は、見事大ムカデの左目に命中した。さすがの大ムカデも急所を射られてはどうしようもなく、すごすごと赤城の山中へ退却していった。

そして、赤城の神は片品川(かたしながわ)のほとりで目に刺さった矢を抜くと、矢で岩をつつき温泉を出して傷ついた左目を癒した。これが今の老神温泉(おいがみおんせん)で、ムカデと蛇が戦った跡が戦場ヶ原だと言われている。

(投稿者: やっさん 投稿日時 2011-7-23 11:15)


ナレーション市原悦子
出典群馬県
場所について中禅寺湖
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • このページを印刷
地図:中禅寺湖
追加情報
このお話の評価8.0882 8.09 (投票数 34) ⇒投票する
※掲載情報は 2011/7/24 1:50 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
お話の移動 ( 21  件):   <前  1 ..  15  16  17  18  19  20  21  次>  
コメント一覧
10件表示 (全15件)
ゲスト  投稿日時 2021/5/18 2:24
赤城の赤は丹生から水銀技術が開発されるまで朱色は作れなかった。
それは渡来人の先端技術だったから。
だからそれまでは赤は明るい意味で表現され、白い光のようなものがアカきものとされた。
つまり畏れる対象として神なるものを指していた。
結局 赤→白どちらもアカい、赤城→白城
白城→新羅
新羅の王族は北九州から入っており、古賀古墳に新羅との関係を裏付ける装飾馬具が出土しており、彼らは東国を制覇した。
律令国家の始まりとなる7世紀は渡来の支配者によって統制された。
その覇権の及ぶ東国の最大勢力こそ群馬の古墳群が示しているものであり、そこには1400年前の原三国である百済、高句麗、新羅の三つ巴の争いが繰り広げられていたのであった。
アツいぜ日本史!
日光原人  投稿日時 2019/6/17 19:20 | 最終変更
これは縄文人と渡来人の話ではないのか。
昔話は「作り話」ではなく、史実ではないのか?
「時間(というもの)は無い」。
即ち、今も昔も同じなのではないか?
昔の人が現代人より劣っていたということはない。
むしろ、古代人の方がリコウだったかもしれない。
当時の歴史を今の時代に伝える術を知っていたのではないか。
マルコ  投稿日時 2014/2/24 11:09
マルコもしってビックリしたのですが、まんが日本昔ばなしの作画や演出、美術を数多く担当されていた玉井司先生が子供たちや大人たちに絵画を教えて下さる塾があるみたいです。

玉井司先生は群馬のまん日(栃木県民のマルコは栃木のまん日だと思っているのですが、タイトルのところに「群馬」となっているので「群馬」なんでしょう)の「赤城と日光の戦い」の美術と演出をなさった方なのでマルコには

なじみがあります。

いいですね、まん日のアニメの絵を担当されていた方に絵を習うことができるなんて・・・絵が上手くなりそうですね。

なんとなく、玉井先生は鳥取とか島根とかあっちの方と関係しているっていうのは知っていました。

なぜかと言うと、アニメ「鷹の爪」の吉田君が島根の民話を紹介する映像を見たことがあって、その島根の民話?神話?のアニメの絵を描かれていたのが、おそらく、作風から見て玉井先生だと思っていたからです。実際にあっちの方にお住まいなんですね。

実際にお会いして、まん日時代のお話を聞かせていただくことはできないんでしょうかね?ときどき、地域の交流イベントで絵本について、昔ばなし時代の話などしているそうですよ。

アトリエKu・たまいつかさ自由画教室
住所 鳥取県米子市上福原659-70
電話   0859-34-0057

http://atorie-ku.net/kyoushitu.html

http://www.tsk-tv.com/?p=6881

玉井 詞(たまいつかさ) 絵本作家/画家

1951年米子市生まれ。
子どものころはおとなしく、話が苦手な子どもでした。高校時代に絵の道に進むことを決め、京都精華短大(現・京都精華大学)に進学。そこでいまの僕の原点となる、モノクロ・ペン画作品が生まれました。絵を描いて個展をひらいたり、絵本をつくったり、TBSテレビ「まんが日本昔ばなし」の仕事や、NHK教育テレビ「てれび絵本」の仕事なんかもしています。いまは子どもたちや、いろいろな人に絵の楽しさを教える仕事が増えてきて、そこでたくさんパワーをもらっています

主な受賞歴

イタリア・ボローニャ国際絵本原画展入選、大谷美術館賞、米子市文化奨励賞


主な指導歴

社会福祉法人「もみの木園」アートティーチャー、川崎医療福祉大学環境デザイン学科非常勤講師、アートとっとり実行委員、2005年より「たまいつかさ自由画教室」主宰

教室のかんがえかた
なにを描いてもいいんです。どんな描き方をしてもいいんです。 白い画用紙におもいっきり、カタチや色を表現して ココロをワクワクさせる場所。それが「たまいつかさ自由画教室」です。テクニックや手法にとらわれず、ただシンプルに 「絵を描くことが楽しい」と感じてもらいたい。 空想したり、夢を描いたり、言葉であらわせない思いを伝えたり。自由に、描きたいままに、ソウゾウの世界を広げながら、 ココロ豊かな絵に出会うことを楽しみにしています。

クラス紹介
ちびっこクラス(幼児~小学2年生)

定員8名×3クラス 75分×月4回

こどもたち一人ひとりの想像力を伸ばし、表現する力を育てます。絵本を読んだり、絵を描くことが楽しいと思う、やわらかなココロを育みます。


こどもクラス(小学生~中学生)
定員8名×6クラス 75分×月4回

ちびっこクラスから少しレベルを上げ、作品に取り組みます。こどもたちの個性と描きたいものを見つけ、一人ひとりの個性を生かせる表現の方法をいっしょに探していきます。

土曜フリークラス(幼児~中学生)
定員8名×3クラス  75分×月4回

平日に時間の都合がつかない人のために、土曜クラスをフリーに開放しています。ちびっこクラス、こどもクラス合同のクラスです。

大人クラス(高校生~一般)
定員8名×2クラス 90分×月4回

イラストから作品制作、絵本づくりまで個別に指導します。自由に描きたいものに取り組みながら、創作の楽しさを深め、趣味の世界を広げます。         
マルコ  投稿日時 2013/8/22 16:34
「群馬県史」資料27 民俗3 という本の勢多郡東村沢入で収録したお話が出典かもしれません。
マルコ  投稿日時 2013/8/5 15:21
赤城と日光の戦いの老神温泉について。

歴史
開湯伝説によれば、赤城山の神である大蛇と、日光の二荒山の神である大ムカデが争った際、赤城山の神がこの地に出来た温泉で傷を癒して二荒山の神を追い払ったとされる。この時、神を追い払ったという事で「追神」温泉と命名され、後に転じて「老神」温泉となった。

古くは片品川を挟んで老神温泉、穴原温泉と名称が分かれていたが、現在は両方を併せて老神温泉と呼んでいる。

開湯伝説・神域
その昔、赤城山を根城にしてその近辺を統治していた大蛇の神と、日光を統治しているムカデの神が聖域・神域をかけて争っていた。その戦は長期にわたり激しい争いが続いた。そして、日光にある戦場ヶ原という場所で繰り広げられた戦いで、日光のムカデ神の軍勢が放った矢に大蛇神が大きな傷を負ってしまう。しかたなく、大蛇神は戦場ヶ原を撤退し、後の老神温泉付近まで逃げてきた。そこで大蛇神がムカデ神より放たれ、今まで体に刺さっていた矢を地面へと突き刺した。するとそこから温かい湯が湧き出で、あっという間に湯の泉を作った。その湯に大蛇神は浸ると立ち所に傷が癒え力が漲ってきた。そして、ムカデの神を見事に日光へと追い返したという。

この伝説には上述の他に諸説あり、以下の様な説が挙げられる。
赤城山の神がムカデ・二荒山の神が大蛇という説実はムカデが勝利したという説。
最後にムカデ神を追い返した時に大蛇神には助太刀がいたという説(この助太刀は、野山に住む神獣・白猿・白雉・白鹿・白蛇その他といわれている)。
大蛇神が傷を負ったのは眼で、追い払うときにムカデ神の眼に矢を射った。
この伝説はこの地方の貴族や豪族、有力者の争いを神権化したものという説。
大蛇神は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の子孫・眷属・同神族であるという説。

赤城山の山中には大蛇塚(または蛇頭塚・蛇神塚)なるものがあり、その場所は地元や老神温泉の中でも一部の者が知っている聖域・神域とされている。一方でこの大蛇神を奉った塚や社が、老神温泉から望める大楊山やその奥山加えて近辺の山にも相当数存在していると言われている。その一部は洞窟や石社になっており、御(護)神刀や短刀、弓矢等の武器・宝物・宝刀に加えて大蛇が描かれた水墨画・山水画・日本画も奉納されている。

これらの場所は文化財の盗難や破壊を防ぐために詳細を示さないが、奉納されている神器は時価にして相当額に上るものもあるとのことで、それぞれ貴重な品々であると言えよう。
マルコ  投稿日時 2013/8/5 15:19
それからのち、今でも日光の二荒山神社では2月4日の祭りのときには、赤城山の方へ向かって矢を放ち。また、赤城の利根村の神社でも、日光のほうを向いて刀を抜いて切る祭りをするということです。

とナレーションの市原さんが言っていたお祭りについて紹介します!!

栃木県日光市 日光二荒山神社の武射祭
二荒山神と群馬県の赤城山神が争ったという伝説に由来する祭りです。毎年1月4日に中宮祠上神橋で行われます。厳寒の中、神官とかみしも姿の射手が赤城山に向かって矢を放ち、射手も参列者もいっせいに「ヤアー」という鬨(とき)の声を張り上げます。この伝説では、両神がお互いの間に横たわる土地などを巡って戦いを繰り広げ、二荒山神の勝利で終わったとされます。厳寒のなかでおこなわれる勇壮な神事です!!放たれた矢を拾って札所へ出すと災難除けのお守りを無料でつけてもらえます。甘酒や切漬けが振る舞われるほか、名物のさんしょう餅つきも行われます。

群馬の利根村の祭りの方は今でもやっているのかどうかはわかりませんでした・・・。
ゲスト  投稿日時 2013/4/6 20:13
日光観光ホームページより引用

戦場ガ原は、標高1400メートルの高地に広がる400ヘクタールの湿原である。周囲は東の男体山をはじめ、太郎山-たろうさん-、山王帽子山-さんのうぼうしやま-、三岳-みつだけ-などに囲まれ、中禅寺湖のほうから湯元へ抜ける国道120号が貫通している。
2万年前の戦場ガ原は、日光火山群の噴火でせき止められた湖だったといわれる。しかし、乾燥化や土砂の流入、さらには男体山の噴火による軽石流が流れ込んで、いまの湿原の姿に変わっていったという。

戦場ガ原の湿原は、オオアゼスゲ、ヌマガヤ、ワタスゲなどが生育する中間湿原がほとんどで、中央部の糠塚-ぬかずか-あたりにヒメミズゴケが多い高層湿原がわずかに分布している。そして湿原を囲むように、湯川と国道120号沿いには、カラマツ、ミズナラ、ハルニレ、ズミ、シラカンバなどの樹木が茂っている。
 春の遅い戦場ガ原で高山植物の花を楽しめるのは、だいたい6~8月。クロミノウグイスカグラから始まって、ワタスゲ、ズミ、レ ンゲツツジ、イブキトラノオ、カラマツソウ、ノハナショウブ、ホザキシモツケと続く。
 戦場ガ原は、野鳥の種類が多いのでも有名である。「戦場ガ原自然研究路」を歩いているだけでも、ズミなどの林でキビタキやホオジロ、湿原のなかにはノビタキやホオアカ、また湯川沿いではキセキレイやカワガラス、そして森林地帯ではアカゲラ、シジュウカラ、ウグイスなどが見られる。いずれも、戦場ガ原で5~7月ごろに繁殖する野鳥たちである。
 こうした自然の姿とともに、戦場ガ原は開拓地としての側面も持っている。昭和21(1946)年に入植が始まり、現在、国道120号の東側約80ヘクタールが開墾され、ダイコンや高原野菜栽培、イチゴや花などの育苗で農業が営まれている。冬は氷点下20度を下回る日もある戦場ガ原で、生活している人々がいることも記憶しておきたい。




マルコ  投稿日時 2013/3/27 9:12
赤城山の神と二荒山の神が争って、赤城山の神が勝ち、二荒山の神が流した血で山が赤くなった。逆に、二荒山の神が勝ち、赤城山の神が流した地で山が赤くなった。そうして赤き山→赤城山と呼ばれるようになった、という伝説が各地に伝わっています。

ある時、赤城山の神様は、日光中禅寺湖の領有を主張し、それを認めない日光二荒山の神様との戦いが始まった。赤城山の神様は大ムカデ、日光二荒山の神様は大蛇に化身し、日光の戦場ヶ原で戦った。
初めのうちは、足尾の細尾が加勢し、二荒山の神様は苦戦し、下毛野国に押し返されてしまった。そこで日光の神は、鹿島の神の紹介を受け弓の名人の猿麻呂の助太刀を得た。猿麻呂が駆けつけると、たくさんのムカデとこれまたたくさんの蛇が戦っている。猿麻呂は、無数のムカデのうち、すぐれて大きな百足が赤城の神だと、矢をムカデの左目に当てた。すると、ムカデはたまらず逃げていってしまった。傷ついたムカデが赤城山に帰り、その血で山が真っ赤に染まり、以来「赤き山⇒赤城山」と呼ばれるようになった。(栃木県の伝説)

 上毛新聞刊「なるほど 赤城学」(東京福祉大学・大学院教授 栗原久先生)によれば、ほかにも、二荒山の神の流した血で山が染まる伝説(桐生市新里町)、赤城山の神は大蛇に二荒山の神はムカデに化身して赤城山の神が二荒山の神を打ち負かし追い返す伝説(老神温泉)、二荒山の主の大蛇が赤城山の主の大ムカデに苦しめられて坂上田村麻呂に助けを求め、敗走する大ムカデの足跡が菅沼・丸沼になる伝説(片品村)、日光二荒山の神が赤城の沼の領有を主張して戦になる伝説(栃木県)などが伝わっています。
 大和朝廷の支配下で毛野国が渡良瀬川を境に上毛国と下毛国に分割され、その後激しい領地争いの戦いがあったようで、これが赤城山と二荒山の神々の争いとして伝承されている、と指摘なされています。

赤城の神様が戦いの傷を癒したという老神温泉の伝説

老神温泉に伝わる赤城と日光の神様同士の神戦伝説では、日光二荒山の神様がムカデ、赤城の神様が蛇に化身し、戦いを繰り広げます。そのことにちなんで、老神温泉では、毎年五月七日・八日には“大蛇祭り”が行われています。

領地をめぐって争いを起した赤城山の神と二荒山の神は、何度も話し合ったが決着がつかず、ついに合戦となった。蛇に化身した赤城山の神と、ムカデに化身した二荒山の神は、戦場ヶ原で戦いを繰り広げた。赤城山の神は、流れ矢にあたり負傷してしまい、なんとか赤城山の麓まで逃れてきた。そこで矢を抜き、その矢を地に突き刺すと不思議なことにこんこんと温泉が湧き出してきた。負い傷を湯に浸してみると、これまた不思議なことに傷はたちどころに治ってしまう。
傷の治った赤城の神は反撃を開始するが、勢いづいている二荒山の神に苦戦を強いられる。赤城山の神は必死の防戦を繰り広げ、ついに地形を利用して深手を与え、二荒山の軍勢を見事追い返した。
その後、この土地は赤城山の神が二荒山の神を追い返したことから「追い神」と呼ばれるようになり、赤城山の神は温泉で老いるまで過ごしたので「老神」といわれた。(沼田市利根町の伝説)
老神(おいがみ)温泉という名称の由来には、「赤城の神様が追われて来たため」という説と「傷ついた神が敵を追い返す力の基となった温泉と言うことで“追神⇒老神”と呼ぶようになった」という異なった二つの伝説が残っています。
マルコ  投稿日時 2012/12/15 15:44
このお話の舞台である日光の『戦場ヶ原』に行ってきました。
登山好きの父マルオと一緒に車に乗って、赤沼茶屋の近くまで行き、そこから徒歩で戦場ヶ原をハイキングしました。なんでも、赤城の神様の化身である大百足が敗れてその血溜まりが出来たところが赤沼だそうです。現在は、昔の大嵐で沼が土砂で埋まってしまって「赤沼」はありませんが「赤沼」と思われる場所の近くを流れている川は赤かったです。

気が一本も無く、視界が開けていて、神々が戦うにはふさわしい場所という感じです。
ただ・・・草原といっても湿地帯です。戦った時、泥濘に足をとられて、さぞや、苦戦したでしょうね・・・。
秋の頃に戦場ヶ原を訪れましたが・・・とても綺麗でした。金色の草原が広がっていて、
色んな樹木の葉が赤や黄色になっていました。
この日はとても天気が良くて、雲ひとつ無い青空と黄金の草原との対比が見事でしたね・・・。戦場ヶ原の奥にある『湯滝』が『赤沼』の方からはっきりと見えました。

それから、赤沼にある日光の自然についての案内所?で色々と戦場ヶ原について勉強してきました!!
近年、鹿が増殖して日光の貴重な植物を食い荒らすので、戦場ヶ原ではこんな対策がとられているようです。
 昭和60(1985)年代以降の奥日光におけるシカの生息数増加に伴い、戦場ヶ原を中心として湿原群へのシカの侵入とそれによる湿原植生の破壊が危惧されたことから、戦場ヶ原の湿原を中心に、これを取り巻く森林植生等を含めた一帯を一体的に保全するために環境省がシカ侵入防止柵の設置を行いました。
 柵は、シカによる湿原の破壊を回避するための緊急避難処置として設けられ、景観とシカ以外の動物の移動を阻害しない様に配慮された簡易な構造としています。
 柵設置後は、柵設置の効果検証のためのシカの生息状況調査の他、柵設置による自然環境への影響把握のための植生や鳥類相の調査を平行して行っています。

確かに、戦場ヶ原は鹿が多かったです。私がハイキングしていた時、鹿に出会いましたし、鹿よけの策などが設置されていました。

それから、私が戦場ヶ原を訪れた直後、戦場ヶ原で事件が起きました・・・。

<毎日新聞 2012年10月20日 地方版より>

19日午前7時半ごろ、日光市中宮祠のハイキングコースで、茨城県筑西市の男性会社員(53)が熊に襲われ、額などに大けがをした。命に別条はないという。

 日光署によると、男性が1人で歩いていたところ、横から突然飛びかかってきたという。熊は体長約1・2メートル。付近は紅葉の見ごろで多くの観光客やハイカーが訪れていたという。

 現場は奥日光・戦場ケ原自然研究路の木道上。戦場ケ原南端の赤沼の入り口から約200メートル入ったところ。熊は逃げたが、署員が付近をパトロールするとともに注意を呼びかけ、熊よけの鈴を付けるようになどと注意書きしたチラシを配っていた。

事務所によりロープが張られ、22日まで立ち入り禁止に。夏に来たときも熊を目撃したという男性ハイカーは「ここは熊の生息地。単独で来たのでクマよけの鈴を2個持っているし、笛も持ち込んでいる」と、自衛策が必要だと訴えている。

危なかったです・・・熊に襲われなくて良かったです。
マルコビッチ  投稿日時 2012/2/4 17:54
このお話に関係している場所を調べてみました!!

日光と赤城の神様が戦った場所が「戦場ヶ原」と言うのはご存知の事ですが・・・

傷ついた赤城の神様の血が滴り落ちたところが「赤沼」(戦場ヶ原にある赤沼茶屋の近くにあったそうですが今はありません)
でもその周辺の土は赤いんですよ!!
以前 家族でハイキングに行ったことがあるので実際に見ました!!

戦いの勝負が決まった場所が中禅寺湖の「菖蒲が浜」と言うんですが・・・。
ここにキャンプ場があって・・・マルコビッチが小学生の頃
夏休みになると家族でキャンプをしに行ったもんですよ・・・。
夜になると中善寺湖の上に天の川が見えて・・・
その天の川を見ながらホットミルクを飲んだ・・・思い出があります・・・(笑)

戦いに勝った猿麻呂と日光の神様が
祝勝の宴を開き、歌い踊った場所が歌ノ浜、今の歌ガ浜だそうです。

投稿ツリー
10件表示 (全15件)
現地関連情報
出典本調査 facebook
Twitter

オンライン状況

42 人のユーザが現在オンラインです。 (31 人のユーザが お話データベース を参照しています。)

新着コメント(コメント24件)