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No.0965
さんぼんあしのからす
三本足のからす

放送回:0608-A  放送日:1987年07月18日(昭和62年07月18日)
演出:又野龍也  文芸:沖島勲  美術:長尾仁  作画:又野龍也
埼玉県 ) 15882hit
あらすじ

ある年の夏、武蔵の国ではひどい暑さと日照りが続き、田畑の作物はみんな枯れてしまった。それもそのはず、どうした訳かこの年に限って空には太陽が2つも輝いていたのだ。焼けるような暑さはそのためだった。

この話を聞いた都の天子さまも大層ご心配になり、誰か弓の名人を連れてくるように命じられた。2つの太陽のうち、どちらか1つがさしずめ魔物であろうから、これを射落とそうと言うことであった。すると、家来の1人が天をつくような大男を連れてきた。この男は、飛ぶ鳥であろうが、どんな獲物も1本の矢で射止めてしまうという弓の名人であった。男は、大きな弓とこれまた大きな1本の矢を持つと、京の都を後にして武蔵の国へ向かった。

何日もかけて武蔵の国にたどり着いた男であったが、じりじりと焼けるような暑さと強い陽射しが男を襲った。男が歩いていると髪の毛に火がつき、またさらに歩いて行くと、今度は着ている服が焼かれるというような凄まじい陽射しであった。このため、男はとうとう暑さのために倒れてしまった。ところがちょうどその時、日が西の空に沈み始め、男は命びろいした。

男が目を覚ますと、それはちょうど夜が明けて、東の空から太陽が上がってくるところだった。そして今日も地平線から太陽は2つ昇ってきた。男は高い岡の上に立つと、どちらが本当の太陽か見極めようとした。すると、1つの太陽がその正体を現すかのように、男の方に迫って来た。

男は弓をひき、迫ってくる太陽に向かって矢を放った。すると、「ギャーー!!」という悲鳴とともに、太陽は落ちていった。太陽が落ちた先を村人が見に行くと、そこには山ほどもある大カラスが心臓を射貫かれ、死んでいた。そして、この大カラスには足が3本もあったのだった。

それからこの地を、魔物を射たことから射る魔と呼ぶようになり、これが入間という地名の由来だそうだ。

(投稿者: やっさん 投稿日時 2011-8-20 9:15 )


ナレーション市原悦子
出典埼玉のむかし話(日本標準刊)より
出典詳細埼玉のむかし話(各県のむかし話),埼玉県国語教育研究会,日本標準,1973年12月10日,原題「三本足のからす」,採録地「狭山」
場所について埼玉県入間市(地図は適当)
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地図:埼玉県入間市(地図は適当)
追加情報
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※掲載情報は 2011/8/20 14:48 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
10件表示 (全14件)
ゲスト  投稿日時 2017/6/28 11:57
この話に出てくる、矢を射た場所は入間市じゃあなくて、隣の狭山市にあると言う。
(狭山市の公民館付近)
ゲスト  投稿日時 2017/3/31 16:29
弓持ってる奴に不用意に近づくとは、さてはこのカラスアホだな?
ゲスト  投稿日時 2016/1/18 13:31
お話の同時代で、同じ入間の物部氏から輩出された高官 征東副使(副将軍)に上った人物が、いましたので記載します。
入間 広成(いるま の ひろなり)

入間 広成(いるま の ひろなり、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は物部直のち入間宿禰。官位は従五位下・造東大寺次官。

出自
物部氏(物部直)は出雲氏族に属する天孫系氏族。

経歴
武蔵国入間郡出身。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱において、藤原仲麻呂軍が越前国へ逃れるために愛発関に入ろうとしたところを拒みこれを退却させる(このときの官職は授刀舎人)など、乱での功労があり勲五等の叙勲を受ける。神護景雲2年(768年)広成以下一族6人が物部直から入間宿禰に改姓する(このときの位階は正六位上)。
天応元年(781年)征夷の功労により外従五位下に叙せられ、翌延暦元年(782年)陸奥介に任ぜられる。征東軍監を経て、延暦7年(788年)には蝦夷の地への赴任経験と戦場経験の豊富さを買われ、多治比浜成・紀真人・佐伯葛城とともに征東副使(副将軍)に任ぜられ蝦夷征討にあたる。延暦8年(789年)6月に鎮守府副将軍の池田真枚・安倍猨嶋墨縄とともに陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へ侵攻するために、北上川の渡河を伴う大規模な軍事作戦を実行したが、蝦夷の軍勢の挟み撃ちに逢って大敗する。広成は自らは陣営の中に留まって部下の補佐官のみを出撃させ大敗を招いたとして朝廷から批判を受け、9月には大納言・藤原継縄らから取り調べを受けて敗戦の責任を承服している。しかし、具体的な処罰は受けなかったらしく、翌延暦9年(790年)には従五位下・常陸介に叙任されている。
延暦18年(799年)造東大寺次官に任ぜられた。

官歴
『六国史』に基づく。
神護景雲2年(768年) 7月11日:物部直から入間宿禰に改姓
天応元年(781年) 9月22日:外従五位下
延暦元年(782年) 6月17日:陸奥介
延暦3年(784年) 2月:征東軍監
延暦7年(788年) 2月14日:近衛将監。3月21日:征東副使(副将軍)
延暦9年(790年) 2月26日:従五位下。3月10日:常陸介
延暦18年(799年) 3月10日:造東大寺次官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E9%96%93%E5%BA%83%E6%88%90

征夷将軍入間宿禰広成
□ 武蔵国造の姓を賜った物部連兄麻呂の子孫に物部直広成という男がいた。天 平宝字八年(764) 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱に功を挙げて、その四年後の神 護景雲二年(768) 七月、一族六人と供に入間宿禰賜姓を賜姓し、広成は正六 位上に叙され勳五等を得た。一族は入間郡司を務めた。

□ 武蔵国の物部直広成が京都の戦乱に功績を挙げたのは、他でもない。地方首 長が服属の徴として子弟を人質に差出した舎人の一人であった。広成が特別 であったのは、聖武天皇が皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇)の地位を擁護す るための親衛隊に、騎馬兵を主体とする内廷の武力装置として編成した授刀 舎人(たちはきのとねり)を設置した中にあったことである。

□ 恵美押勝と孝謙天皇体制が決裂して押勝が謀反におよんだ時、広成たちの授 刀舎人隊は孝謙女帝側にあった。一戦に敗れた押勝が近江国から越国へ逃亡 するために愛発の関を破ろうとしたのを、授刀舎人隊はかかんに防戦して押 勝一行が進退を失うという大功であった。

□ 武蔵国造物部氏改め入間宿禰氏とは、こうして天皇に親しく仕える一族であ った。この物部氏が坂東にいち早く仏寺を建立したのも、大和朝廷の政策に 沿ったものであった。しかし、朝廷の政策に沿って仏寺を建立することと、 天皇の親衛隊の一員として精勤することの間に、どのような関わりがあった のか。この段階では、未だ分からない。

□ 入間宿禰広成が中央で認められたのは、そのころ恵美押勝の率いる紫徴中台 の次官の一人に、入間郡から割いて設けられた高麗郡出身の背奈王福信がい たことによる。背奈王福信は後に高麗朝臣を賜姓して武蔵守にもなった。高 麗郡は坂東諸国から高麗人を集めて霊亀二年に(716)に建郡され、ほぼ同時 に女影寺廃寺が創建され、比企郡の寺谷廃寺と供に北武蔵における仏教布教 の一翼を担った。

□ 宝亀五年(774)以降、陸奥国は動揺していた。神護景雲元年(767)伊治郡に造 営された伊治城(宮城県栗原郡)があったが、宝亀十年(780) 同郡の大領伊治 公砦麻呂と牡鹿郡の大領道嶋大楯が諍いを起こした。伊治砦麻呂と道嶋大楯 は供に元蝦夷族長で、大和政権の陸奥経営に協力してそれぞれ大領に任じら れていた。道嶋大楯は恵美押勝の乱に大功を揚げた一門の道嶋宿禰の権威を 笠に、砦麻呂を侮蔑したことから諍いとなり、砦麻呂は大楯を血祭りに揚げ、 大楯を信任する陸奥出羽按察使紀広純を殺し、さらに南へ攻め込んで多賀城 を焼討ち、略奪をほしいままにして引き揚げるという叛乱事件が起きた。

□ 朝廷は翌年の天応元年(781) 藤原朝臣小黒麻呂を持節征東大使として、伊治 公砦麻呂を征討した。入間宿禰広成もこの征討軍に参加したらしく、同年に 従五位下に叙せられている。しかしこの征討は不調で、その後も蝦夷の動揺 が続いた。

□ 延暦元年(782) 陸奥按察使鎮守将軍大伴宿禰家持、陸奥介入間宿禰広成を任 命、翌年には家持を持節征東将軍に任命して再び蝦夷征討を企てた。入間宿 禰広成は同三年(782)に家持の下で軍監となり、続いて同七年(787)二月に近 衛将監、翌月には征討副使に任じられた。延暦四年(786) に没した大伴家持 に替わって七月に紀朝臣古佐美が征東大使に任命されると、入間宿禰広成は 副将軍になった。歴戦の勇士の目を見張るような昇進ぶりである。

□ 翌年、別将に二将を加えて三軍編成で進軍、初めて北上川を渡って蝦夷の総 師アテルイの居所に近づいて交戦、勝利を収めた。 ところが、さらに進撃したところを挟撃されて大敗北してしまった。同年六 月の勅は征討軍の作戦の失敗を指摘し、広成ともう一人の将軍は歴戦の経験 を買われて副将軍に任命されたにも関わらず、自ら戦わなかったとして名指 しで非難された。

□ それでも入間宿禰広成は許されたらしく、その後は、翌延暦九年(790)常陸 介となり、翌延暦十八年(799)には造東大寺次官に任命された。そのころ、 蝦夷征伐の征夷大将軍には彼の坂上田村麻呂が任命されていた。そして、度 重なる蝦夷征伐に駆り出された坂東の民は疲れきっていた。
http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/band/ban-201.htm#2
ゲスト  投稿日時 2016/1/8 15:13
阿豆佐味天神社 あづさみてんじんしゃ
【延喜式神名帳】阿豆佐味天神社 武蔵国 多摩郡鎮座
【現社名】阿豆佐味天神社
【住所】東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷1008
【祭神】少彦名命 素戔嗚命 大己貴命 『神名帳考証』豊宇気姫命
【例祭】3月4日 例祭
【社格】旧郷社
【由緒】寛平4年(892)上総介高望王の創建という
    文明14年(1482)領主村山土佐守造営
    天正12年(1584年)造営
    慶長3年(1598年)造営
    明治6年郷社
【鎮座地】当初より此の地に鎮座
【祭祀対象】本来は湧水
【祭祀】江戸時代は「阿須味明神」「阿津佐味天神社」と称していた
【社殿】本殿流造・拝殿・水舎・神樂殿
【境内社】奥宮・神明宮・八幡社・熊野社・雷神社
     正一位稲荷神社・厳島社・須賀神社・甲子社

狭山丘陵南麓に鎮座する。瑞穂町殿ヶ谷は中世期に村上郷と称せられ武蔵7党の村上党の本拠地であり、村上党の祖である村上貫主は当地に根拠をかまえていたという。当社は「論社」もなく、社名も古来維持されており、鎮座地の変遷も無かったと考えられる。

古来より自然崇拝的に地元の住民から尊崇をうけた当社も時代を経るに従って武蔵国へ進出してきた出雲系の豪族や一門が自分たちの神である現祭神の少彦名命を祀ったり、奈良地方の一族が天孫族の祖神・アマツカミを合祀しアマツカミのヤシロ(天神社)としたり、だんだんと形を整えて現在の「阿豆佐味天神社」の原型が作られたものと推定されております。
社伝によりますと寛平4年(892年)に人皇第50代桓武天皇の曽孫である常陸大嫁上総介高望王(平の姓を賜う、武家平氏の始祖)の創建とされておりますが今まで述べた傍証によりましても、その時期より一層さかのぼる歴史を有していると考えられます。
やがて鎌倉時代に入ってからは武州村山郷の総鎮守社として拝められ武蔵七党の勇・村山党の武士団よりも厚く尊崇されました。村山党の本拠地は当社より西へしばらく行ったところにあり発祥地の居館跡が今に伝承され「殿ケ谷」の地名の起源とされております。
http://www.geocities.jp/engisiki/musashi/bun/mus170305-01.html

大和朝廷に敗れ、入間から逃延びた出雲系の一族は、狭山丘陵を超えて 村山郷の阿豆佐味天神社(892年 高望王 創建)の殿ヶ谷に 本拠地を移したと思われます。(村山郷は入間郡と多摩郡に掛かる狭山丘陵一帯を指すとのことです。)
村山郷 殿ヶ谷 から村山党の関東武士団が大きな勢力として育っていきます。
この昔話は 類推の域は脱しませんが、出雲系の人々の敗退とその後の子孫達の勢力復興の歴史を今に伝えている大切な昔話だと思います。

なお、太陽とは君主を指した象徴ではないかとも類推しています。
ですから 大和朝廷から見て、関東に太陽のような統治者がいたものとも思われます。
入間郡には大規模な古墳群等の遺跡があることからも、大和朝廷から見て脅威になるような存在だったとも考えられます。
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 16:16
【延喜式神名帳】出雲伊波比神社 武蔵国 入間郡鎮座
【現社名】出雲伊波比神社
【住所】埼玉県入間郡毛呂山町前久保 967
【祭神】大名牟遲神 天穗日命
毛呂小学校北接、臥龍山の頂に鎮座する。
古くは出雲臣(いずもおみ)が祭祀する社であったという。景行天皇53年に倭建命が東征凱旋の際に、景行天皇から賜った「比々羅木鉾(ひひらぎのほこ)」を神体として侍臣である武日命(タケヒ命=大伴武日)に命じて社殿を創建し、東北に向けて鎮座させたという。今も本殿内で鉾の先を東北にむけているという。
 当社は宝亀3年(772)12月の太政官府に朝廷の奉幣が絶えたのを怒り雷神を率いて入間郡の正倉を焼いたとされている。
本殿建築は流造一間社で屋根は桧皮葺形式、大永8年(享禄元年=1528年)9月15日に毛呂三河守藤原朝臣顕重が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財である。
 中世期には茂呂(毛呂)明神、飛来明神、八幡宮とも称されていた。ちなみに八幡宮は源頼義父子が当社を参詣後に凱旋し、八幡宮を相殿にまつったことに始まり、明治期まで二社併立していた。明治4年に八幡宮その他を合祀し明治6年に郷社列格。
http://www.geocities.jp/engisiki02/musashi/bun/mus170601-01.html

古式ゆかしい「やぶさめ」で有名な神社。毛呂山町のほぼ中央、小高い独立丘陵である臥龍山の上に位置しています。
神社に伝わる「臥龍山宮伝記」によると、景行天皇の53年に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征を成し遂げ、がい旋した際、この地に立ち寄り、天皇から賜ったヒイラギの鉾をおさめ神宝とし、出雲の大己貴命(オオナムチノミコト)をまつったとされ、また、成務天皇の御代に武蔵国造兄多毛比命(エタモヒノミコト)が、出雲の天穂日命(アメノホヒノミコト)をまつり、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされています。
奈良時代の宝亀3年(772)の大政官符によると天平勝宝7年(755)に朝廷から幣帛(ヘイハク・神前に供えるもの)を受けたという記載があり、出雲伊波比神社が官弊社であったことが明らかにされました。
平安時代には、醍醐天皇の勅命で編さんされた延喜式神明帳のなかで武蔵国入間郡五座の筆頭にあげられており、古来より格式の高い神社であったことが解ります。鎌倉時代以降、武士の信仰も集め、源頼朝が畠山重忠に造営を命じ、また、大永7年(1527)の焼失後、翌亨祿元年(1528)には、毛呂顕繁が再建しました。
現在の本殿はこの再建時のもので一間社流造、県内最古の神社建築であり、棟札二面と併せて国の重要文化財に指定されています。
http://www.town.moroyama.saitama.jp/www/contents/1285113266909/

出雲伊波比神社 と言えば、毛呂山の方が有名なようです。       
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 16:04
【延喜式神名帳】出雲伊波比神社 武蔵国 入間郡鎮座
【現社名】出雲祝神社
【住所】埼玉県入間市宮寺 1
【祭神】天穗日命 天夷鳥命 兄多毛比命       
由緒
人皇第12代・景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地においでになり、天稲日命、天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬せられた社で、今からおよそ2000年も前に建てられた神社です。
醍醐天皇の延喜5年(905)に編纂された延喜式第九巻・神名帳に入間五座の筆頭として記された式内社です。社名の「祝」の文字は、小田原城主・北条氏康公からの朱印状、弘治3年(1557)に賜り、それ以前は現存する大宝2年(702)の棟札をはじめすべて「伊波比」が使用されています。宮寺郷十八ケ村(現在の所沢市から東京都瑞穂町に至る)の総鎮守として、また江戸時代には、徳川家康公を始め、代々の将軍より十石の社領を賜り当時から隆盛な社でありました。
なお、出雲大社とは所縁が深く、社紋も同じ亀甲剣花菱であり、いずれも結びの神、生産の神として信仰の厚いものがあります。当社の森を「寄木の森」と称しますが、出雲国の杵築湾に漂う古木を以て造られたのが寄木の造営(出雲大社)であり、天穂日命の子孫が東国に下ったときに樹種を携えてきて蒔種したのが当社の森「寄木の森」であります。明治初年には、出雲大社大宮司・千家尊福氏も参拝され、大きな額を奉納されています。
http://www.geocities.jp/engisiki02/musashi/bun/mus170601-02.html

三本足のカラスを祭った神社。火事も起こしたようです。
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 15:58
入間郡正倉神火事件(しょうそうしんか)

神様が怒って、政府の倉庫を焼いてしまった そんな馬鹿なことが!!いささか眉唾ですが、奈良時代=8世紀の中頃 武蔵国で起こった、奇妙で、当時の様子を絶妙にあぶり出す事件があります。神様が怒った背景は・・・? 入間地方の豪族は、なかなかのやり手でした。

事件のあらまし
 二枚の太政官符が残されていて、次のように内容を語ります。
 正倉が火事になった 769(神護景雲3)年《あるいは、772(宝亀3)年》9月のこと。入間郡(埼玉県)で、国家の正倉4軒が火事になり、備蓄していた糒穀(米)が10、513石焼けた。その上、百姓10人が重病に臥し、2人が頓死した。
 神の祟りだった 原因を占ってみると、それは神の祟りで、郡家(=郡衙)西北角の出雲伊波比(いずもいわひ)神が云うには、朝廷からいつも幣帛(へいはく)を受けているのに、このところ滞っている。そのため、郡家内外の雷神を引き連れて、火災を発生させた。ということである。
 そこで、祝(ほうり=神職)の長谷部広麿(外大初位下小)を呼んで訊ねると、出雲伊波比神は常に朝廷が幣帛を奉る神であるが、最近は給わっていない。と云う。
 関係文書を調べると、武蔵国で、幣帛を受ける社は、多摩郡・小野社、加美郡・今城青八尺稲実(いまきのあおやさかいなみ)社、横見郡・高負比古乃(たけふひこの)社、入間郡・出雲伊波比社である。それが最近、幣帛を奉ることが漏れ落ちている。
 よって、前例によってこれを実施せよ。(宝亀3年12月19日太政官符)
 郡司が処罰された もう一枚の太政官符は、事件の内容はほぼ同じで、「郡司を処罰する。しかし、郡司の譜第を絶つことなかれ」と郡司職について言及するものです。(宝亀4年2月14日太政官符)
 ◎幣帛というのは神にたてまつるものすべてを云うらしく、玉串が思い浮かびますが、延喜式では、制(あしぎぬ=粗製の絹布)、五色薄制(いついろのうすぎぬ)、木綿、麻、庸布、刀、楯、戈(ほこ)、弓、鹿角(しかのつの)、鍬(すき)、酒、アワビ、堅魚(かつお)、干物、海藻、塩、・・・など多数を挙げています。
 ◎769(神護景雲3)年《あるいは、772(宝亀3)》と3年の差がある年号は、二つの太政官符の間に神火が発生した年の記載に違いがあるためです。その解釈を巡って、学者の間では議論が交わされています。私は解決するすべを持ちませんので、併記します。詳細は次の文献に記載されています。
 土田直鎮 古代の武蔵を読む 吉川弘文館
 森田悌   古代の武蔵    吉川弘文館
http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasinorekisi/syousousinnkajikenn/syousoujikenn1/syousousinnkajikenn.htm

769年ごろに争いが続いた入間郡。
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 15:26
入間郡 歴史 古代
7世紀ごろに武蔵国の郡として成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが、古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている(所沢市・坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある。またこれらの遺跡は古代の駅家跡であると見る意見もある)。716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移し高麗郡を設置。この際に入間郡域の西側の一部を高麗郡域に当てたものと見られる。高麗郡は律令制下では小郡に分類され、二郷のみであったものの、中世以降高麗郡域が東側に拡大し、江戸時代には入間川が入間郡と高麗郡の境界となっていた。また758年、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。その場所が後に新羅郡、更に新座郡となる。同郡の郡域は入間郡の東辺の一部を割いて設けたものと見られ、郡内は志木郷と余戸のみの小郡であった。833年、多摩郡との境に悲田処が設けられた。中世以降、「入間路」は鎌倉街道上道の本道となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E9%96%93%E9%83%A1

このお話からの類推
入間郡には、大和朝廷に反する勢力があったようです。推察すると鎮圧後の処分として、716年以降、入間郡は分割されることになり郡域が縮小されています。
古代入間の人々の反乱鎮圧の歴史が感じられるお話です。
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 15:10

瑞鳥から魔鳥になったカラス


 入間で射られた魔鳥は、白くて三本足で1丈5尺の巨大なカラスだという。世が世なら、その発見者は多大な恩賞を受け、発見した場所では税金が免除されるほどの喜びごとなのだが、結局魔鳥ということで退治されてしまった。
 世が世ならという時代、延喜式は、醍醐天皇8年の延喜5年(905)に着手し醍醐天皇30年の延長5年(927)に上梓され冷泉天皇の康和4年(967)に施行された格式である。格と式は、律令の細則であって、全50巻3300条になる政府官僚の運用マニュアルである。
 その第21巻治部省は、祥瑞から始まる。大瑞59 上瑞38 中瑞33 下瑞15が並べられる。唐の「開元7年令(玄宗皇帝719)」の丸写しだとか。その中から、青カラス(南海より輸す)赤カラス、三足烏(日の精也)これら上瑞。白カラス(太陽の精也)蒼カラス(烏にして蒼色。江海、洪波を揚げずして東海より輸す)、これら中瑞となっている。入間のカラスは、上瑞にしてかつ中瑞の、世の中善政、天人満足の瑞徴のはずなのだ。その瑞兆たるカラスの献上記録が「古事類苑」にまとめられている。延喜式を遡る300年前から始まる。
 別表の最初にあるのは、天武天皇6年(607)11月に筑紫の大宰(つくしのおおおみこともち)が赤いカラスを献上した。この時の恩賞は、太宰府で働いている人に禄物が配られ、カラスを捕まえた人は冠位五級を賜い、カラスの出た土地の郡司も爵位を増やし、その郡内の1年分の課役は免除され、さらに全国で大赦が行われた。中瑞の赤烏一羽でこの大喜びだったのに、入間の三足にして日の精、太陽の精たる白烏は哀れな最後を遂げたのであった。古事類苑のまとめでは、日本書紀から始まった六国史の最後の三代実録「清和、陽成、光孝」の887年までの記録である。
 江戸中期天明期(1781~1788)八代将軍吉宗の頃の話を、随筆集「甲子夜話」から一文。「天明の末か、京師の近鄙より白烏を獲て朝廷に献じたることあり。みな人祥瑞と言いける。然るに翌年、京都大火し、禁闕も炎上す。その後松平信濃守に会して聞きたるは、いわく 豊後高田の実家では、白烏を見ることあらば軽卒を使ってこれを逐い索め鳥銃を以て撃ち殺す。その故は、白烏は城枯らす(しろからす)の兆しとてその名を忌みてなり。野俗の習わしなりと言いて笑いたりしか。」
 「甲子夜話(かっしやわ)」は幕末文化天保の間肥前平戸隠居の殿様松浦静山による。
 いずれにしてもカラスをして崇鳥拜日のシンボルにした時代は終わったようである。
http://www.raifuku.net/dic/way/kurou/ku_121104.html
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 15:03
3)更に、韮塚一三郎「埼玉の伝説」
(『埼玉県伝説集成(中)』韮塚一三郎編著 北辰図書出版昭和48刊)
 『昔、二つの太陽が天に出て昼夜の別なく照らした為地上の草木は枯れ果ててしまった。時に聖天子、天に二日あるべからず。一日は魔物なり、勅命して京都の武士に退治申し付ける。一説にこの武人は、橘諸兄の次男・諸方であるという。御下賜の弓矢を以って武蔵国で太陽の真ん中を射抜いた。すると忽ち、太陽は光を失い、黒雲とともに3本足の白鳥と化して岡の上に落ちてきた。この魔物を射た所を 日討(にっとう)、これを祭ったところを日祭(にっさい)、矢を射たところを矢颪(やおろし)、落ちたときに天が逆さになったので天倒山(てんとうざん)、鳥の血が滴った川が「汁たれ」、その川が反対に流れたので逆川(さかさがわ)になった。魔物を祭った神社が、毛呂山の出雲伊波比神社。かつて日落射(ひおとしい)大明神といった。また、飯能市矢颪には、征矢(そや)明神があり、狭山市入間川東小学校(旧入間川中学校)の中庭が天道山だという。汁たれ川は、いつも白く濁っており、母乳不足の母親が橋の上に豆腐を供えると霊験が有った。この橋は、太陽の神の宿るところと云って、昔から特別崇敬されたものだという。』

4)今坂柳二「むさし野の伝説 狭山篇」㈱ネットワーク・平成元年刊
「射留魔のテント山」
 『昔、二つの太陽が天に出て昼夜の別なく照らした為地上の草木は枯れ果ててしまった。時に聖天子、天に二日あるべからず。一日は魔物なり、勅命して京都の武士に退治申し付ける。』すごい弓の名人「タチバナのモロカタ」に頼みに行く。モロカタさんは引き受けて太い竹を切って弓を作り、天皇様は白い羽の矢をくださった。とうとう狭山のど真ん中にある「テンノウ山」まできてしまった。テンノウ山の神にお伺いをたて、「一段低い丘で陸稲畑を焼いているのが幻魔の化けたニセテントウだ」と教えられ、その太陽の真ん中を射抜いた。すると忽ち、太陽は光を失い雷がなり天と地が、森も岡もひっくり返った。が、それもいっとき。たちまち晴れ上がった東方の岡に 白い、大きな、三本足のカラスが落ちてきた。ヤマトの国の空には本物の太陽がひとつだけきらきら輝いておったんですって。都からはるばる幻魔テントウを追っかけて退治したので、都では「射留魔の里」と呼ぶようになった。

「シルタレ川とサカサ川」
 モロカタさんが射落とした幻魔テントウの正体は、3本足の大きな白いカラスだった。白カラスは血の色も白く、流れた川は白濁していた。モロカタさんによると、「ムサシ中の雨雲を吸い取っていたのでそれが流れだしたのだ。ムサシの国に田んぼがあるかぎり流れ続けるだろう。川の名前は魔神の血が滴り落ちたので、シタタレ川としよう」これがいつの間にか「シルタレ川」になった。又、川の流れが東に向かわないで西に向かったので「サカサ川」という。遠山豆腐店の西側を流れていたサカサ川には石橋の逆川橋が掛かっており、その橋の上に、母乳の出ない母親が豆腐を供えていたそうだ。

「カラスの声が悪くなったわけ」
 テント山には、親分のお化けガラスが住んでいた。その、大ガラスは白くて三本足で変幻自在。あるとき、お天道様に化けたもんで、弓の名人に射落とされて死んでしまった。それで落着したわけではない。親分ガラスが殺されたのを聞きつけた子分のカラスは、国中からテント山に集まったその数は、空を覆い尽くす何万羽。空にはひとつのオテント様で実りはよくなったが、子分カラスの大群が田畑荒らしをはじめた。近在の名主ドンが集まって評定の結果、山伏に頼んで伏霊祈祷。親分ガラスの悪霊退散、子分ガラスの故郷への安穏帰参。命がけの護摩焚き祈祷。生木百束、百人の大団扇、護摩木のケブをテント山に送り込んだ。その護摩の煙を吸い込んだので、カラスの声があんなに悪くなったというわけさ。

 入間が射留魔だという伝承口碑は、大体のこの4点にさかのぼって引用されているようだが、あの、井沢蟠龍先生の「俗説」とはまだ少し違う。しかし、おおむね、太陽を標榜してカラスといわれる人たちが、ヤマトに征伐され、征伐された後も、お乳が出るように霊験か怨霊が働いていた地域だったのは確かなようだ。武蔵国入間郡とヤマトとの関係から、入間のカラスを炙り出せないか。歴史のなぞに絡まった。
http://www.raifuku.net/dic/way/kurou/ku_121001.html
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