Re: 三本足のからす

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ある年の夏、武蔵の国ではひどい暑さと日照りが続き、田畑の作物はみんな枯れてしまった。それもそのはず、どうした訳かこの年に限って空には太陽が2つも輝いていたのだ。焼けるよ...…全文を見る

Re: 三本足のからす

投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/8 15:13
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阿豆佐味天神社 あづさみてんじんしゃ
【延喜式神名帳】阿豆佐味天神社 武蔵国 多摩郡鎮座
【現社名】阿豆佐味天神社
【住所】東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷1008
【祭神】少彦名命 素戔嗚命 大己貴命 『神名帳考証』豊宇気姫命
【例祭】3月4日 例祭
【社格】旧郷社
【由緒】寛平4年(892)上総介高望王の創建という
    文明14年(1482)領主村山土佐守造営
    天正12年(1584年)造営
    慶長3年(1598年)造営
    明治6年郷社
【鎮座地】当初より此の地に鎮座
【祭祀対象】本来は湧水
【祭祀】江戸時代は「阿須味明神」「阿津佐味天神社」と称していた
【社殿】本殿流造・拝殿・水舎・神樂殿
【境内社】奥宮・神明宮・八幡社・熊野社・雷神社
     正一位稲荷神社・厳島社・須賀神社・甲子社

狭山丘陵南麓に鎮座する。瑞穂町殿ヶ谷は中世期に村上郷と称せられ武蔵7党の村上党の本拠地であり、村上党の祖である村上貫主は当地に根拠をかまえていたという。当社は「論社」もなく、社名も古来維持されており、鎮座地の変遷も無かったと考えられる。

古来より自然崇拝的に地元の住民から尊崇をうけた当社も時代を経るに従って武蔵国へ進出してきた出雲系の豪族や一門が自分たちの神である現祭神の少彦名命を祀ったり、奈良地方の一族が天孫族の祖神・アマツカミを合祀しアマツカミのヤシロ(天神社)としたり、だんだんと形を整えて現在の「阿豆佐味天神社」の原型が作られたものと推定されております。
社伝によりますと寛平4年(892年)に人皇第50代桓武天皇の曽孫である常陸大嫁上総介高望王(平の姓を賜う、武家平氏の始祖)の創建とされておりますが今まで述べた傍証によりましても、その時期より一層さかのぼる歴史を有していると考えられます。
やがて鎌倉時代に入ってからは武州村山郷の総鎮守社として拝められ武蔵七党の勇・村山党の武士団よりも厚く尊崇されました。村山党の本拠地は当社より西へしばらく行ったところにあり発祥地の居館跡が今に伝承され「殿ケ谷」の地名の起源とされております。
http://www.geocities.jp/engisiki/musashi/bun/mus170305-01.html

大和朝廷に敗れ、入間から逃延びた出雲系の一族は、狭山丘陵を超えて 村山郷の阿豆佐味天神社(892年 高望王 創建)の殿ヶ谷に 本拠地を移したと思われます。(村山郷は入間郡と多摩郡に掛かる狭山丘陵一帯を指すとのことです。)
村山郷 殿ヶ谷 から村山党の関東武士団が大きな勢力として育っていきます。
この昔話は 類推の域は脱しませんが、出雲系の人々の敗退とその後の子孫達の勢力復興の歴史を今に伝えている大切な昔話だと思います。

なお、太陽とは君主を指した象徴ではないかとも類推しています。
ですから 大和朝廷から見て、関東に太陽のような統治者がいたものとも思われます。
入間郡には大規模な古墳群等の遺跡があることからも、大和朝廷から見て脅威になるような存在だったとも考えられます。
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