Re: 三本足のからす

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Re: 三本足のからす

投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/1/18 13:31
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お話の同時代で、同じ入間の物部氏から輩出された高官 征東副使(副将軍)に上った人物が、いましたので記載します。
入間 広成(いるま の ひろなり)

入間 広成(いるま の ひろなり、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は物部直のち入間宿禰。官位は従五位下・造東大寺次官。

出自
物部氏(物部直)は出雲氏族に属する天孫系氏族。

経歴
武蔵国入間郡出身。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱において、藤原仲麻呂軍が越前国へ逃れるために愛発関に入ろうとしたところを拒みこれを退却させる(このときの官職は授刀舎人)など、乱での功労があり勲五等の叙勲を受ける。神護景雲2年(768年)広成以下一族6人が物部直から入間宿禰に改姓する(このときの位階は正六位上)。
天応元年(781年)征夷の功労により外従五位下に叙せられ、翌延暦元年(782年)陸奥介に任ぜられる。征東軍監を経て、延暦7年(788年)には蝦夷の地への赴任経験と戦場経験の豊富さを買われ、多治比浜成・紀真人・佐伯葛城とともに征東副使(副将軍)に任ぜられ蝦夷征討にあたる。延暦8年(789年)6月に鎮守府副将軍の池田真枚・安倍猨嶋墨縄とともに陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へ侵攻するために、北上川の渡河を伴う大規模な軍事作戦を実行したが、蝦夷の軍勢の挟み撃ちに逢って大敗する。広成は自らは陣営の中に留まって部下の補佐官のみを出撃させ大敗を招いたとして朝廷から批判を受け、9月には大納言・藤原継縄らから取り調べを受けて敗戦の責任を承服している。しかし、具体的な処罰は受けなかったらしく、翌延暦9年(790年)には従五位下・常陸介に叙任されている。
延暦18年(799年)造東大寺次官に任ぜられた。

官歴
『六国史』に基づく。
神護景雲2年(768年) 7月11日:物部直から入間宿禰に改姓
天応元年(781年) 9月22日:外従五位下
延暦元年(782年) 6月17日:陸奥介
延暦3年(784年) 2月:征東軍監
延暦7年(788年) 2月14日:近衛将監。3月21日:征東副使(副将軍)
延暦9年(790年) 2月26日:従五位下。3月10日:常陸介
延暦18年(799年) 3月10日:造東大寺次官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E9%96%93%E5%BA%83%E6%88%90

征夷将軍入間宿禰広成
□ 武蔵国造の姓を賜った物部連兄麻呂の子孫に物部直広成という男がいた。天 平宝字八年(764) 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱に功を挙げて、その四年後の神 護景雲二年(768) 七月、一族六人と供に入間宿禰賜姓を賜姓し、広成は正六 位上に叙され勳五等を得た。一族は入間郡司を務めた。

□ 武蔵国の物部直広成が京都の戦乱に功績を挙げたのは、他でもない。地方首 長が服属の徴として子弟を人質に差出した舎人の一人であった。広成が特別 であったのは、聖武天皇が皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇)の地位を擁護す るための親衛隊に、騎馬兵を主体とする内廷の武力装置として編成した授刀 舎人(たちはきのとねり)を設置した中にあったことである。

□ 恵美押勝と孝謙天皇体制が決裂して押勝が謀反におよんだ時、広成たちの授 刀舎人隊は孝謙女帝側にあった。一戦に敗れた押勝が近江国から越国へ逃亡 するために愛発の関を破ろうとしたのを、授刀舎人隊はかかんに防戦して押 勝一行が進退を失うという大功であった。

□ 武蔵国造物部氏改め入間宿禰氏とは、こうして天皇に親しく仕える一族であ った。この物部氏が坂東にいち早く仏寺を建立したのも、大和朝廷の政策に 沿ったものであった。しかし、朝廷の政策に沿って仏寺を建立することと、 天皇の親衛隊の一員として精勤することの間に、どのような関わりがあった のか。この段階では、未だ分からない。

□ 入間宿禰広成が中央で認められたのは、そのころ恵美押勝の率いる紫徴中台 の次官の一人に、入間郡から割いて設けられた高麗郡出身の背奈王福信がい たことによる。背奈王福信は後に高麗朝臣を賜姓して武蔵守にもなった。高 麗郡は坂東諸国から高麗人を集めて霊亀二年に(716)に建郡され、ほぼ同時 に女影寺廃寺が創建され、比企郡の寺谷廃寺と供に北武蔵における仏教布教 の一翼を担った。

□ 宝亀五年(774)以降、陸奥国は動揺していた。神護景雲元年(767)伊治郡に造 営された伊治城(宮城県栗原郡)があったが、宝亀十年(780) 同郡の大領伊治 公砦麻呂と牡鹿郡の大領道嶋大楯が諍いを起こした。伊治砦麻呂と道嶋大楯 は供に元蝦夷族長で、大和政権の陸奥経営に協力してそれぞれ大領に任じら れていた。道嶋大楯は恵美押勝の乱に大功を揚げた一門の道嶋宿禰の権威を 笠に、砦麻呂を侮蔑したことから諍いとなり、砦麻呂は大楯を血祭りに揚げ、 大楯を信任する陸奥出羽按察使紀広純を殺し、さらに南へ攻め込んで多賀城 を焼討ち、略奪をほしいままにして引き揚げるという叛乱事件が起きた。

□ 朝廷は翌年の天応元年(781) 藤原朝臣小黒麻呂を持節征東大使として、伊治 公砦麻呂を征討した。入間宿禰広成もこの征討軍に参加したらしく、同年に 従五位下に叙せられている。しかしこの征討は不調で、その後も蝦夷の動揺 が続いた。

□ 延暦元年(782) 陸奥按察使鎮守将軍大伴宿禰家持、陸奥介入間宿禰広成を任 命、翌年には家持を持節征東将軍に任命して再び蝦夷征討を企てた。入間宿 禰広成は同三年(782)に家持の下で軍監となり、続いて同七年(787)二月に近 衛将監、翌月には征討副使に任じられた。延暦四年(786) に没した大伴家持 に替わって七月に紀朝臣古佐美が征東大使に任命されると、入間宿禰広成は 副将軍になった。歴戦の勇士の目を見張るような昇進ぶりである。

□ 翌年、別将に二将を加えて三軍編成で進軍、初めて北上川を渡って蝦夷の総 師アテルイの居所に近づいて交戦、勝利を収めた。 ところが、さらに進撃したところを挟撃されて大敗北してしまった。同年六 月の勅は征討軍の作戦の失敗を指摘し、広成ともう一人の将軍は歴戦の経験 を買われて副将軍に任命されたにも関わらず、自ら戦わなかったとして名指 しで非難された。

□ それでも入間宿禰広成は許されたらしく、その後は、翌延暦九年(790)常陸 介となり、翌延暦十八年(799)には造東大寺次官に任命された。そのころ、 蝦夷征伐の征夷大将軍には彼の坂上田村麻呂が任命されていた。そして、度 重なる蝦夷征伐に駆り出された坂東の民は疲れきっていた。
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