No.1030
ゆめじぞう
夢地蔵
高ヒット
放送回:0649-B  放送日:1988年05月14日(昭和63年05月14日)
演出:小林治  文芸:沖島勲  美術:板倉佐賀子  作画:重国勇二
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あらすじ

昔、埼玉の比企(ひき)の高坂という所に、怠け者の長太という百姓がおったそうな。

長太は毎日子供らに小博打をけしかけて遊んでおり、自分の田んぼの田植えをしようともせんかった。この辺りでは、川越の殿様の田畑見回りまでに田植えが済んでいなければ、お咎めで道普請の労働に行かなければならなかったそうじゃ。

じゃが、「あくせく働くのは嫌なこった。」と、その日も長太は田んぼの畦で怠けておった。するとそこへ、鐘を鳴らしながら一人の坊様が通りかかったそうな。早速長太は無理やり坊様にインチキ博打をけしかけた。勝負はもちろん長太が勝ち、負けた坊様に自分の田んぼの田植えやらせておいて、長太は一旦家に帰った。

しばらくして、長太が美しい妻を連れて田んぼに戻ってみると、一坪を残して田植えが済んでおり、坊様の姿は消えておった。長太が不思議に思っておると、また鐘の音が聞こえてきて、さっきの坊様が通りかかった。

長太はまた坊様に博打をけしかけたが、絶対勝つはずのインチキ勝負に長太は負けてしもうた。その上、坊様の体が次第に重くなってきて、長太は坊様の下敷きになって動けなくなった。

長太がふと目を覚ますと、長太は田んぼの畦でお地蔵様の下敷きになっておったのじゃった。なんとかお地蔵様の下から這い出し、自分の田んぼを見ると、一坪残して田植えが済んでおる。「夢の中に出てきたお地蔵様が田植えをしてくれたんじゃ!」と、喜んだ長太は家に帰って妻にそのことを話したそうな。

ところが妻はかんかんに怒っておった。実は、長太が畦で昼寝をしておる間に妻が田植えをしてくれておったのじゃった。坊様も美しい妻も全て夢だったのじゃ。残りの一坪は亭主のお前が植えろと妻に怒鳴られて、長太はしぶしぶ田植えをしたそうじゃよ。

その後長太が真面目に働くようになったかどうかは分からないが、夢の中に現れたお地蔵様は、今も高坂の田んぼの畦に立って、皆が働くのを眺めていらっしゃるということじゃ。

(投稿者: ニャコディ 投稿日時 2013-12-22 21:10 )


ナレーション市原悦子
出典埼玉県
VHS情報VHS-BOX第6集(VHS第60巻)
場所について東松山市高坂(地図は適当)
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地図:東松山市高坂(地図は適当)
追加情報
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※掲載情報は 2013/12/22 21:19 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
10件表示 (全20件)
頭方  投稿日時 2018/11/30 9:54
下唇おじさん、怠け者の百姓長太として登場。関係ないがこの話、結構好きだった。
ゲスト  投稿日時 2018/4/14 19:56
登場人物
長太→下唇叔父さん
長太の嫁→泥棒髭男
坊さん→ひょろ長痩せ男
村人→大目玉男
美人嫁→紅一点の美女
ゲスト  投稿日時 2016/1/13 17:54
(地蔵橋 の掛かる) 九十九川とその源流
全長8km程度の小さなこの川は、岩殿丘陵の「市民の森」に湧出する入山沼を主水源としている。
http://www.qryo.net/hikitenbyo006.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/13 17:44
高坂地区、旧 岩殿村 鎮守様

熊野神社
埼玉県東松山市岩殿1239
東武東上線高坂より川越観光バス鳩山ニュータウン行き、大東文化大学前下車徒歩10分 バス停より岩殿山正法寺への道標により進むと、正法寺の裏側にでる。
西法寺を抜け、参道を下っていくと左奥に鳥居が見られる。
50段弱の急な石段を登った山腹に鎮座。
御祭神:不明
由緒:岩殿山は古代、神々が依り給う磐座として祭祀が行なわれたと考えられるととともに、高坂を貫流する九十九川の水源に近いことから水上信仰にも深いかかわりがあったと想像される。この岩殿山の北に鎮座し古来、岩殿山の地主神とされてきた当社は、明治初年まで「八王子権現社」と呼ばれ、その勧請は岩殿観音堂の草創とほぼ同時期と伝えられている。
http://www.mikumano.net/zsaitama/higasimatu1.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/13 15:00
正法寺(しょうぼうじ)は、埼玉県東松山市岩殿1229にある真言宗智山派の寺院である。山号は巌殿山。坂東三十三箇所の十番札所である。一般には岩殿観音の通称で知られる。
寺伝によれば養老2年(718年)に、沙門逸海が千手観音像を刻み開山し正法庵と称し、鎌倉時代初期に源頼朝の命で比企能員が復興した。頼朝の妻北条政子の守り本尊だったと伝わっている。天正2年(1574年)に栄俊が中興開山となる。天正19年(1591年)に、徳川家康より寺領二十五石の朱印地を与えられる。
岩殿丘陵の最東端に位置し、物見山のすぐ隣にあるため、寺は急傾斜地を切り崩したような場所にあり、山寺の雰囲気を持つ。
観音堂 養老年間の創建と伝える。寛永、天明、明治と3回再建され、現在の建物は明治11年(1871年)の建立である。本尊の千手観音は、室町時代の作と伝えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E5%AF%BA_(%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%B8%82)

田村麻呂への霊験
「雪見峠」という地名があるが、その 昔、比企の山中に悪龍が住み、村人たちに害を加えていた。たまたま奥州征討に向かう坂上田村麻 呂将軍の一行が通りかかったので助けを求めた。 そこで田村麻呂はこの岩殿山の観世音に冥助を乞う祈願をこめたところ、時ならぬに大雪が降り、 そのため山頂より一カ所だけ雪の消えている所を発見した(峠の名の由来)。これぞ目指す悪龍の いる所と定め、観音さま授けの矢を射って討ちとったというのである。
田村麻呂へのこの霊験が聞こえ、延暦十五年 (七九六)宣旨があって堂宇が立派に整ったという。『岩殿山縁起』は、この伝承を重視し、多くの字数を費やしている。
http://www.bandou.gr.jp/10.htm

岩殿観音は坂東札所で、古来より信仰を集め、門前市をなしました。戦国時代には武田勢の松山城攻めの時の本陣が置かれたということです。
かつての門前市をしのばせる家並みが尽きると、目前に仁王門が迫ります。アジサイの咲き誇る石段を登りつめると、観音堂と大銀杏が目に入ります。相当古びた銅鐘と鐘楼もひっそりと佇んでいます。
  ※季節情報:正法寺の大イチョウは毎年晩秋になると黄葉します。
http://www.higashimatsuyama-kanko.com/15.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/13 14:30
高坂地区岩殿、地蔵橋 傍 旧鎌倉街道 沿の 地蔵尊
お話のお地蔵様に感じが似ています。(なお真偽は不明です)

望月の一本松地蔵
高坂並木通りから九十九川にかかる「地蔵橋」を渡りすぐ先の伊藤小児科の横を折れ少し下ると右側にこんもりとした松の木の一画がある。ここに石地蔵が祀られています。良く通る道でも、立ち寄って見ることも無かったのですが、気になっていたので足を止めて行ってきました。なお、名前が分からないので勝手に「望月の一本松地蔵」としましたが、お分かりの方がいらっしゃいましたら連絡ください。地蔵橋という名前もこの由緒ある石地蔵に由来していると考えられます。
高坂丘陵地区白山台の住宅街を臨む写真右側の木立がそうです。

お地蔵さん
 北向き地蔵尊で「普門品供養塔」(ふもんぼんくようとう)と名前がある。「宝暦四甲戌天正月吉日」とあるので今から260年近く前の江戸後期の建立。(宝暦四年は西暦1754年)結構歴史を刻んでいます。台座への補強もされているが、立派な舟形後背のお地蔵さん。  合掌。

鎌倉街道
お地蔵さんの横に「史跡 鎌倉街道跡」の石碑があります。
ここは昔々「鎌倉街道」であったとの説明が記されている。高坂丘陵地区開発で南はすぐに途絶えてしまっている。この道は単なる高坂駅方面の裏道ではなく、由緒正しい古道なのだ。それで昔、このメインストリートからの分かれ道ということでお地蔵さんが祀られたのかと勝手に想像してみるが、この先に巌殿観音の門徒で「長松寺」があったとのことだがその参道の始まりだったのかもしれない。
石碑には昭和59年4月10日と記されているので、高坂丘陵地区街開きと同じ時期に地元の人達で変わる郷土の記念碑として後世に伝えるために建立した。こうして”新住民”が30年近くして歴史の勉強に訪れたのだった。

ふせぎ
時々この近隣の田舎道の辻で目にするわら細工の得体の知れないものの名前がやっと分かった。「ふせぎ」という。集落の入口や外れで魔除け、結界をしめすもの。ここでは松の幹に縛り付けられている。たしかに昔は村外れの場所。
http://www.qryo.net/hikitenbyo007.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/13 13:22
元 高坂地区だった、高坂丘陵地区。
1984年に分譲の始まった高坂ニュータウンの開発に伴って人口が増加したことから、桜山台・白山台・旗立台・松風台を「高坂丘陵地区」として高坂地区から分離した。

高坂ニュータウン(たかさかニュータウン)は埼玉県東松山市南部にある、むさし緑園都市の地区の1つである。行政区域の名称は高坂丘陵地区。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9D%82%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3
ゲスト  投稿日時 2016/1/13 13:10
高坂地区宮鼻にありました。

宮鼻八幡神社の大ケヤキ 住所:宮鼻223-1・昭和37年3月市指定天然記念物認定
江戸時代に宮鼻地区を知行した旗本横田氏は武の神様として崇敬されている八幡神社に自らの兜の八幡座(兜の鉢の頂上)を納めたと伝えられています。
幹周り約7.8メートル、樹高約8メートルで市指定の文化財となっているこのケヤキは樹齢約700年と推定されています。
八幡神社の御神木とされてきたこのケヤキは、古くから地域の人の心の拠り所であり、農作業の合間の涼をとる憩いの場所として親しまれてきました。
http://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/kanko/shizen/meiboku/1351670866470.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/13 13:03
高坂地区、旧 宮鼻村のお地蔵様。
(web上でやっと見つけた、お地蔵様)

宮鼻の石仏群 九十九川(左岸)
 埼玉県東松山市宮鼻
 島田橋(越辺川)の左岸から600m北、八幡神社と
 八幡橋(九十九川)の間、九十九川第二揚水機場の
 脇に祀られている。手前から馬頭観音が2体、
 庚申塔(寛文十一年:1671)、地蔵(享保四年:1719)。
 庚申塔は東松山市指定文化財。奉造立庚申供養
 菩提也 武州比企郡宮鼻村とあり、主尊は
 青面金剛ではなく、阿弥陀如来。
 三猿と二鶏、10人の氏名あり。
 高さ148cm、幅58cm。
http://www.geocities.jp/fukadasoft/bangai5/sekibutu3/index6.html
ゲスト  投稿日時 2016/1/13 12:46
高坂(たかさか)は、埼玉県東松山市を構成する一地区の地名、およびその地区内の町名(大字)。行政上、歴史上の枠組とは別に高坂駅周辺を漠然と指す場合もある。
都幾川の低地から物見山に至る丘陵地へのなだらかな坂が延々と続いている事が高坂の由来と言われる。

高坂地区
明治の大合併によって1889年に旧高坂村・西本宿村・宮鼻村・田木村・岩殿村・大黒部村・正代村・早俣村が合併して高坂村となったが、さらに昭和の大合併により1954年に松山町・大岡村・唐子村・高坂村が合併して東松山市となり、旧高坂村域は高坂地区ととらえられるようになった。その後、1984年に分譲の始まった高坂ニュータウンの開発に伴って人口が増加したことから、桜山台・白山台・旗立台・松風台を「高坂丘陵地区」として高坂地区から分離し、現在の高坂地区の区域となった。

町名一覧 :
・あずま町1丁目・あずま町2丁目・あずま町3丁目・あずま町4丁目
・元宿1丁目・元宿2丁目・大字岩殿・大字大黒部・大字正代
・大字高坂1丁目・大字高坂2丁目・大字高坂3丁目・大字高坂4丁目
・大字西本宿・大字田木・大字早俣・大字宮鼻

沿革
江戸時代には、川越児玉往還(川越道)と千人同心街道(日光道)の交わる高坂宿として発達した。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、比企郡高坂村・早俣村・正代村・宮鼻村・毛塚村・田木村・西本宿村・岩殿村が合併し、高坂村が成立する。
1923年(大正12年) - 東武東上線(東上本線)高坂駅が開設される。
1954年(昭和29年) - 松山町・大岡村・唐子村・野本村と合併、東松山市となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9D%82_(%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%B8%82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9D%82%E6%9D%91_(%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C)
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