二十原の椿 についてのコメント&レビュー投稿
病の為、二十歳で死んでしまった若い娘(分限者の娘? 権力者の娘だったのは覚えています)が「自分が死んだら(自分が好きだった)椿の根元に埋めて下さい。そこに咲いた花で難病...…全文を見る

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投稿者:mitsuzakura 投稿日時 2011/11/2 21:07
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「二十原の椿」は「岡義重(未来社刊)より」と出典クレジットされています。

「出雲の民話 日本の民話12」(石塚尊俊, 岡義重, 小汀松之進/共編, 未来社, 1958)

島根県安来市広瀬町の伝説です。広瀬町の月山富田城でのお話。
小那姫(こなひめ)は富田城主・堀尾吉晴の娘ですが病に冒されています。

二十原(はたちばら)は地図で確認できませんが、ネットで調べると広瀬町菅原の廿原堤神社が劇中で「二十原さん」と呼ばれる神社のようです。ちなみに後に堀尾氏は富田城から松江城へ移ります。

病に絶望し命を自ら断った小那姫(kona_princess)
http://homepage2.nifty.com/matsue-jo/contents2sub9.html

富田城跡は  緯度: 35.360829 経度: 133.185067
廿原堤神社は 緯度: 35.353916 経度: 133.16494

偕成社「島根県の民話」にも「小那姫ツバキ」のタイトルで収録されています。
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投稿者:mitsuzakura 投稿日時 2011/12/10 19:18
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実際に行ってないのですが、車で訪問する際は、地図上でちょっと北になりますが、道の駅広瀬富田城もしくは歴史資料館を目印にするとよいかと。月山入口が近くにあります。

月山富田城は山陰の有名な山城です。元々は尼子氏の居城でしたが、毛利氏と争って滅ぼされました。その後、関ヶ原の戦いで毛利氏は領地を減らされます。そこに入って来たのが堀尾氏です。

月山富田城では統治に不便なので堀尾氏は新たに松江城を築きます。なので、堀尾氏が富田城に居た期間は限られます。大体いつ頃のお話なのか特定できます。

余談。
いいお話なので訪ねてみたいのですが、同じ島根でも100キロ以上離れているので実現できていません。

月山富田城の3キロほど北に足立美術館があります。日本庭園で有名な美術館でお勧めです。
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投稿者:Perenna 投稿日時 2019/2/2 23:18
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この昔話の舞台となった「二十原堤神社」については、昭和9年に出版された「誇り」(能義郡刊行会)という郷土誌にも掲載されています。(コマ番号64/126)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1035412/64

「富田城主堀尾吉晴公の二女小那姫の霊を祀るところ婦人の守護神として神徳四海に遍し。
此の神社の縁起によれば小那姫久しく病みてその癒へざるをなげき齢二十にして今の社境附近にある溜池に身を投じて歿すとあり而して姫の遺言に曰く『我が塚に誓をかくる者は腰下の病を免れしめん』と云へりと宝暦十年初めて此處に祠を建てゝ姫の霊を祀つたものである、仝社は広瀬町外富田川の上流にあり境内は風光極めてよく四時参拝者の絶ゆることなし。」

もう半月ほど前になりますが、毎年成人の日になると、振袖を着飾った二十歳の若い娘さんを町中で見かけることがあります。
そんな娘さんたちを見て、あでやかで美しいと思う反面、なかには成人前に不幸にして病気や事故で亡くなったり、小那姫のように病気で外に出歩くことも不自由な方もいるのではないかと、ふと思ったりもしました・・・
人の運命や境遇や生き方というものは、人それぞれ異なっているものです。
まして、病気や事故や災害というものは予測など不可能なものです。
成人式で美しい振袖を着ていた若い娘さんたちには、小那姫のぶんまで健康ですこやかに生きていってほしいなと、陰ながら祈りたくなりました。
投票数:34 平均点:10.00

投稿者:Perenna 投稿日時 2019/2/5 23:11
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「島根県口碑伝説集」(昭和2年)という本にも、小那姫の伝説が掲載されています。(コマ番号63/199)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1465126/58?tocOpened=1

「痛ましい小那姫
能義郡広瀬町南端、大渡橋より五六丁下、田原と称する地に、二十原堤神社を祭る。祭神小那姫は、富田荘月山に居城せる出雲守護職、帯刀吉晴の次女であつた。天資聡明で美しく、父の寵愛非常に深かつたが十六歳の時俄に赤瘡といふ病気に罹つた。乳母山崎きん(今の社掌山崎操氏の先祖と云ふ)といふもの、日夜姫の側を離れず、看護して居たが病は益重るばかりであつた。姫は花の盛りも漸く終る、二十歳となつた。ある初夏の夜「五年の長い間一日として美しく暮したこともなく、病は益重るばかり、いつそ死んでしまいたい」と乳母に語つた。斯して或暴風雨の夜、乳母と共に居間を抜け出でゝ、大堤に身を投じた其時堤上の椿樹の枝を手折り「此枝が再び芽を出したら女の病は必ず治してやる」と云つた。果して椿の枝は発芽して今尚社側に茂つて居る。そして年々花を咲き、実を結ぶが、決して花々が落ちない、其実は決して割れ無いのは不思議とされて居る。村人死を悼んで小祠を建て之を祭る。年々参詣の男女頗る多い乳母の子孫、此地に留まり、祭祀を怠らず、姫が投身の堤は、今は田畑となり、奥の院の堤は、後に村人が灌漑のために作つたものであると。」

小那姫を祭る廿原堤神社は、現在の島根県安来市広瀬町菅原2017番地にあるそうです。
現在でも乳母の子孫の方が神社を守っていらっしゃるのでしょうか?
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