Re: ひねくれ婆と明神様

ひねくれ婆と明神様 についてのコメント&レビュー投稿
昔、石城(いわき)の見沼の里のある、合戸(ごうど)という所に、一人のひねくれ者の婆がいました。いつもこの婆は、明神さまへのお供え物を盗んで家に持って帰っていました。 そ...…全文を見る

Re: ひねくれ婆と明神様

投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/6/29 17:36
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合戸村周辺の歴史
三和地区 歴史
下市萱の竹之内遺跡は縄文時代早期(紀元前 6000 年頃)の竪穴式住居跡で、この地に集落があった ことが証明される。 嘉吉 2 年~寛正 7 年(1442~1466)頃は、いわき地方の国人領主が白川(結城)氏、石川氏等の周辺 国人を巻き込んだ争いの時期で、岩城氏が惣領主(=郡主)の地位を確立した。この争いの講和を推 進した白川氏は、宝徳 3 年(1451)好間(岩城)隆衡から長井村を譲られている。 天正年間(1573~1592)三阪氏が三倉城を、平山氏が中寺館にて統治。 寛永 11 年(1634)菊田郡泉藩領となるが、元禄 15 年(1702)泉藩は 2 万石から1万 5 千石となり、 減石された 5 千石は合戸村・渡戸村・三坂村・市ヶ谷村(市萱村)・中寺村で、この地は幕府代官所 の直轄支配となった。 寛延 2 年 (1749)常陸国笠間藩の領地(渡戸・中寺・下市萱・上市萱・上三坂・中三坂・下三坂・ 差塩)となるが、上永井、下永井は小名浜代官所の支配に置かれる。 明治 12 年(1879)戸長役場を中寺地内、差塩村地内に設置。 明治 22 年(1889)三阪村と沢渡村を組合村、永戸村と箕輪村を組合村として、事務所をそれぞれ下 市萱と合戸に置いた。 昭和 30 年(1955)永戸村は、沢渡・三阪組合村と合併し、三和村として発足した。
(参考文献:「いわき市史」、「新しいいわきの歴史」)
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