昔、信州木曽の薮原(やぶはら)あたりは、山に囲まれて田んぼもなく、周りの峠道も危険だったため米を運び入れることも出来なかった。そこで村人たちは、山の段々畑でそば、キビ、いも、豆などを作って細々と暮らしていた。
さて、薮原からさらに山の奥に入った神谷(かみや)という所に、力持ち権兵衛という木こりが住んでいた。この権兵衛という男、そば2升をたいらげ、その力は10人力とも12人力とも言われ、木曽では名の知れた男だった。
ちょうどその頃、薮原では有名なそば食いの大坊主が来ていて、自分こそは信州一のそば食いだと豪語していた。負けん気が強い権兵衛は、この噂を聞いてじっとしていられず、そば食い坊主に勝負を挑んだ。権兵衛と大坊主のそば食い比べは、見物人を大勢集めて始まった。2人はすごい勢いでそばをたいらげるが、99杯目になったとき大坊主はその場に倒れこみ、腹が裂けて死んでしまった。
これを見た権兵衛は、自分のせいで取り返しのつかないことをしてしまったと後悔した。その後、権兵衛は心を入れ替え、自分を罪を償おうとした。そして考えたあげく、権兵衛は木こりをやめて、馬方になることにした。米の飯が食べられない薮原の村人のために、鍋掛峠(なべかけとうげ)を通って伊那から米を運ぼうというのだ。
そんなある日、権兵衛が険しい峠道を馬を引きながら歩いていると、突然崖崩れが起きて権兵衛の頭の上から大岩がたくさん降ってきた。権兵衛は、持ち前の大力で落ちてきた大岩を両手で受け止めてしまうが、後ろからついてきた馬は落石で谷底に落とされて死んでしまった。
大坊主に続き、心ならずとも馬まで死なせてしまった権兵衛は、人々が安心して峠を越えられるように、危険な峠道を広げて作り変えようと決心した。こうして、権兵衛はたった1人で険しい峠道を広げる工事に取りかかった。そんな権兵衛の話を聞いた薮原と伊那の人々も、次第に権兵衛の手助けをするため工事に加わるようになった。
こうして何年もの歳月が過ぎ、宮ノ越から鍋掛峠と越えて、伊那、高遠(たかとう)に通じる峠道は完成した。今まで米の飯がめったに食べられなかった薮原にも、伊那から米が運ばれて来るようになった。
そしてその後、鍋掛峠は権兵衛にちなんで権兵衛峠と呼ばれるようになったそうだ。
(投稿者: やっさん 投稿日時 2011-11-12 10:36)
ナレーション | 市原悦子 |
出典 | 瀬川拓男(未来社刊)より |
出典詳細 | 信濃の民話(日本の民話01),信濃の民話編集委員会,未来社,1957年06月30日,原題「力もち権兵衛の話」,話「西筑摩郡木曽福島町の生駒勘七」,再話「瀬川拓男」 |
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場所について | 信州木曽の薮原周辺(地図は適当) |
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