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No.0594
ゆきのなかのゆうれい
雪のなかのゆうれい
高ヒット
放送回:0373-A  放送日:1982年12月25日(昭和57年12月25日)
演出:吉良敬三  文芸:沖島勲  美術:関口良雄  作画:吉良敬三
新潟県 ) 21048hit
女の幽霊の髪を剃ってあげたお坊さんの話

昔、越後に、源教(げんきょう)という坊様がいました。源教は、冬になると村中を念仏を唱えて歩き回る事を、毎年の修行にしていました。

ある夜の事、魚野川(うおのがわ)にかかる橋で一心に念仏を唱えていると、前に溺れ死んだというお菊という名の幽霊が出てきました。幽霊は「長い黒髪があると成仏できないので髪を剃って下さい」と源教に訴えました。

翌日の晩、準備をして待っていた源教の庵にお菊の幽霊が現れました。髪を一束ずつ剃るたびに、髪の毛はスルスルと源教の手から離れ、お菊の胸元へ滑り込んでいきました。「これが女心というものか」と源教は思いながら、お菊の髪を全て剃り終えると、お菊は静かに手を合わせ消えていきました。

お菊の幽霊が去った後、ゴザの上には一束だけ髪の毛が残されていました。源教は、その髪の束を魚野川のたもとに埋めて手厚く葬ってあげました。人々はこの小さな墓を、毛塚(けづか)と呼びました。

(紅子 2011-12-4 20:52)


ナレーション市原悦子
出典西山敏夫(偕成社刊)より
出典詳細ゆうれいばなし(幼年版民話12),西山敏夫,偕成社,1973年8月,原題「雪のなかのゆうれい」
場所についてお菊が落ちたとされる五十嵐橋(南魚沼市石打)旧塩沢町
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地図:お菊が落ちたとされる五十嵐橋(南魚沼市石打)旧塩沢町
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※掲載情報は 2011/12/4 20:52 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
8件表示 (全8件)
あんず  投稿日時 2020/11/4 4:28
追記です。
移転した毛塚の在る墓所は、石打丸山スキー場のゲレンデ中腹に在るので、とても眺めが良い場所です。
眼科にはゲレンデの下部から石打の町並み、関山神社や元の毛塚が在った田んぼも、蛇行する魚野川の流れも、勿論、五十嵐橋も良く見渡せますし、五十嵐橋の対岸の、今で云う舞子高原辺りの町並みも見渡せます。
うちの伯父伯母達や、我が母も、石打が大好きで、また、その墓所からの眺めは石打の全てを見渡せるような素晴らしい景観なので、その墓に入りたいと生前から話しておりました。
きっと、お菊さんも、ゲレンデ内の墓地の毛塚から、魚野川対岸の子孫の家を眺めて喜んでいらっしゃる気がしています。
私も亡くなったら、少しのお骨を、あの墓地に、御先祖様達と埋葬して貰いたいと、従兄に頼んであります。
あんず  投稿日時 2020/11/4 4:10
40年以上前、小学生の頃、このお話の入った本を読みました。夏休みで、丁度、石打の五十嵐橋に程近い関山地域に在る母の実家に帰省している時で、従兄が学校の図書室から借りて来た本を読ませて貰ったのをよく覚えています。新発田の屯田兵の幽霊話なども入った、新潟の怖い話を集めた本だったと思います。
お話の舞台が、長い休みの度に東京から帰る「おばあちゃんち」のすぐ近所の、よく遊びに行く魚野川に架かる一番近くの橋(夏休みの夜はカブトムシやクワガタを捕まえに行った電燈が立っていた)五十嵐橋のお話だったので、とても身近に感じて、お話の隅から隅までよくよく覚えています。元の毛塚が在った墓所(近隣の人々の先祖代々の墓)には、うちの御先祖様やおじいちゃんも眠っており、田舎の家からも窓を開けたらすぐに見える場所。そうですねぇ、35年くらい前までは、その田圃の真ん中に墓所がありましたが、その後は、石打丸山のゲレンデ、観光リフトの上の辺りに全て移転致しました。私の母方の先祖代々の墓も移転。毛塚も移転し、同じゲレンデ中腹の、地元では「尼寺」と呼ばれている墓所に今でも在ります。寺と言っても小さな庵で、住職などは最初から住んでいません。
お菊さんは髪の毛が長く邪魔で、当時は丸太の橋だった五十嵐橋は冬になると雪が降り積もり、髪の毛が邪魔で滑って、どうにも子供達が待つ家に帰る事が叶わない。居合わせた優しい和尚さんにお願いして髪を剃って貰いました。和尚さんも幽霊がやって来るのは1人では心細いので、村人の友人を鏡は後ろ側の仏壇の裏に居させて、本当に幽霊がやって来たという事の証拠ともしたそうです。髪を剃る時は剃っても剃ってもなかなか剃れず、最後にやっと剃れたら、全ての髪がスルスルっと一遍に消えたそうです。そしてすこしだけの髪を残して、お菊さんは成仏し、きっと、子供達が待つ橋の向こう側に在る家に向かったのだろうと。
子供の頃に読んだ話ですので、うろ覚えではありますが、今でも母の実家に寄る度に、五十嵐橋へ行く度に、ゲレンデ中腹の墓地へ参る度に(早くに亡くなった私の母のお骨もこちらに少しだけ分骨してあります。)、この切ないお話を思い出します。私には生まれ育った東京よりも大好きな大切な故郷の、大切なお話です。
華煌  投稿日時 2020/2/6 13:38
Youtubeにこのお坊さんが載っていました。
白い衣ではなく青衣でした。(すみません。間違っておりました)
ニュースでちらっと拝見しただけでしたが、
いつまでも心に残っていました。
ようやく詳しく知ることができました。
蛇足ですがURLを載せておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=i40d189b-us
華煌  投稿日時 2020/2/6 12:01
源教坊様の姿に、
東日本大震災の後、激しく雪の降る中、白い衣に草鞋履きで
亡くなった方々の供養行脚をされている若いお坊さまの姿と重なりました。
流れていたTVニュースの中で、ひときわ目を引き釘付けになりました。
現在も尊いお坊さまがいらっしゃることをありがたく思います。
華煌  投稿日時 2020/2/4 23:25
投稿日時 2015/10/5 18:05 ゲストさんがおっしゃる通りですね。
幽明相隔てる者同士でも、心があれば通じ合える。
役に立つことができる。
源教坊様の慈悲の心に深い感動を覚えます。
また、このような人たちの供養を毎年地道に続けているお坊さまに頭が下がります。
自分の無力を感じつつも、温かい気持ちになれました。
ゲスト  投稿日時 2015/10/5 18:05
いい話ですね。
きっと死んだ時の苦しみも寒さも寂しさも、御仏に癒されて極楽浄土で夫とお子さんに会っているのでしょう。話しに出てくるお坊様の優しさに時代を超えて感動するものがあります。また、雪国の語り部たちの心の優しさを感じます。
そんな優しさに触れると、今生きている私たちも癒されていきますね。
beniko  投稿日時 2012/1/12 23:44 | 最終変更
さっそく地図にマッピングしました。教えてもらってありがとうございました。やっぱり地元の方は詳細の場所をご存知ですね。場所がわかるとより現実味を感じられます、ありがとうございました。
※追記:新潟はたくさんのお話がアニメで採用されております、地元の方からの情報は助かります。by熊本から
雪国のクマ  投稿日時 2012/1/12 22:40
初めて書き込みします。

このお話は南魚沼市(旧塩沢町)石打の話です。
出典の本は未読ですが、江戸時代の書物『北越雪譜』にも「雪中の幽霊」「関山の毛塚」として掲載されています。

お菊が落ちたとされる五十嵐橋 http://g.co/maps/bvhcf
(地図に明記されていませんがこの橋です。)

この橋の左側から上の関山神社のある辺りまでの一帯が、かつて関山村(現在は南魚沼市石打の関山地区)と呼ばれたところで源教坊さまの庵と毛塚があった村にあたります。
五十嵐橋は昔は吊橋で、旧道の位置と川幅の関係から現在より少し下流(地図上では上方向)の場所にあったようです。
毛塚と呼ばれる塚も存在していましたが、25年程前に塚の上にあった石塔が関山地区の左側、石打丸山スキー場中腹にある大儀寺前の墓地に移されて今は畑になっているそうです。

・参考文献
「江戸のベストセラー 北越雪譜」(鈴木牧之記念館編集,塩沢町文化、スポーツ事業振興公社,2006)
「伝説のふるさと」(新潟日報社編,とき選書,1998)

新潟の話だったとはこちらのサイトであらすじを読むまで気がつきませんでした。お菊のそった髪がするすると胸元にすべりこんでいくシーンはおぼろげながら記憶に残っています。

子供の頃まんが日本昔ばなし大好きでした。その影響で地元の民話や伝説に興味をもったように思います。
ずっと昔ばなしの中で地元の話がどれだけあるのか知りたいと思っていたので、こちらのサイトを見つけた時は本当にうれしかったです。
今、他の話もどの場所の話か少し調べています。地元(県内)中心になりますがどうぞよろしくお願いします。
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