No.0516
あやめづか
あやめ塚

放送回:0323-A  放送日:1982年01月09日(昭和57年01月09日)
演出:こはなわためお  文芸:境のぶひろ  美術:西村邦子  作画:小堤一明
三重県 ) 8813hit
あらすじ

昔、三重の菰野の辺りにおかしな夫婦がいた。亭主は、一日中あやめの花ばかり眺めて、まるで女みたいな性格、一方の女房は力持ちで男勝りな性格だった。ある日、亭主はあまりにも女みたいだから、歌舞伎一座の女形になろうと、京の都へ旅立っていった。

さて、亭主が京に出てから数年経ち、またあやめ花が咲く季節になった。そんなある日、亭主の家に旅姿の美しい娘が訪ねて来た。娘は家に入ると、「こちらのご亭主に縁のある者です」と女房に挨拶した。

娘を亭主の愛人だと思った女房は、カンカンになって怒り、さんざん娘を引っ掻いて家から追い出してしまった。

 実はこの娘、女形に扮した亭主だったのだ。家から追い出された亭主は、女房までも自分の芸で騙す(だます)ことが出来たと、内心喜んでいた。亭主は村はずれで着替え、化粧を落とすと、あらためて我が家に戻った。

しかし 愛人を作った亭主を女房が許すはずもなく、亭主はまたも女房にさんざんひっぱたかれてしまう。「待て待て、あれはワシが化けておったのじゃよ。」と亭主は言うが、女房は「いくらなんでもあそこまで上手く化けられる訳がない!この大嘘つきめ!」と言って聞く耳をもたない。亭主はまたも家から叩き出されてしまった。

しかしいくら亭主の芸が上手くても、女房が亭主の顔を見忘れるものではない。実は女房、娘が亭主の変装であることを見抜いていたのだ。それでもわざと騙されたふりをして、亭主に自信を持たせようとしたのだ。

このことがあってから、亭主の芸には一層磨きがかかり、名も芳澤あやめと改め、押しも押されぬ立女形(たておやま)として一世を風靡(ふうび)したといことだ。

 (投稿者: マニアック 投稿日時 2011-10-22 20:32 )


参考URL(1)
http://blog.goo.ne.jp/y-terumi10032002/e/08541bf2e613a48022d6df1bd4c6c717
ナレーション市原悦子
出典三重県
場所について菰野町吉沢 (あやめ塚は源正寺の南にある)
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地図:菰野町吉沢 (あやめ塚は源正寺の南にある)
追加情報
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※掲載情報は 2011/10/23 23:35 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
9件表示 (全9件)
yassan  投稿日時 2016/3/19 18:15
がらん様

ありがとうございました。あやめ塚の位置を訂正しました。
がらん  投稿日時 2016/3/19 1:51
こんばんは、はじめまして、
あやめ塚をぐぐってこちらのDBへたどり着きました。今度ゆっくり拝見します。
あやめ塚の画像と位置を「碑像マップ」という所に貼り付けましたのでご参照まで。
http://hizou.30maps.com/map/131367
ゲスト  投稿日時 2015/10/9 19:24
菰野藩(こものはん)は、伊勢国三重郡(現在の三重県三重郡菰野町菰野)に存在した藩。
藩史
藩祖は土方雄久の長男・土方雄氏である。雄氏は織田信雄、豊臣氏に仕えて伊勢菰野に1万石を領していたが、慶長4年(1599年)に徳川家康と本多正信の主従が画策した「幻の家康暗殺事件」の嫌疑をかけられて所領を没収され、常陸国太田に追放となった。しかし関ヶ原の戦い直前にその罪を許され、雄氏は伊勢・近江国内に1万2000石の所領を与えられて菰野に陣屋を構え、ここに菰野藩を立藩した。第2代藩主・土方雄高は陣屋と城下町を建設し、商工業者を招いて新たに東町・河原町を新設する。また、藩の体制を整備して藩政の基礎を固めた。
しかし以後の藩主が財政において放漫だった結果、菰野藩の財政は逼迫する。このような状況を見た第7代藩主・土方雄年は保守的な家臣団を処罰して緩んだ綱紀の引き締めを図ったが、大坂や駿府の加番勤務、藩内における凶作などの天災から、藩財政は悪化の一途をたどった。第9代藩主・土方義苗は「臨時準備積立法」を制定して年間225俵の米を一割二分の利で13年間も積み立てた。さらに質素倹約や経費節減、灌漑工事などを積極的に行なって財政再建を見事に成し遂げ、文化的には藩校・麗沢館を創設するなどした菰野藩中興の名君であった。第10代藩主・土方雄興のとき、佐々木惣吉が稲の品質改良に務め、種関取米の栽培に見事成功した。また、紅屋善左衛門が現れて菰野茶として売出しをはじめ、嘉永年間には大谷九左衛門が第11代藩主・土方雄嘉の許可を得て、茶園を建設した。
明治4年(1871年)、廃藩置県により廃藩となって菰野県、安濃津県となり、翌年に三重県に編入された。
年貢の取立てが比較的緩やかだったため、明治維新まで一揆がなかった珍しい藩である。
幕末の領地
伊勢国 三重郡のうち - 16村
水沢村、小山村、黒田村、西菰野村、中菰野村、東菰野村、福村、宿野村、神田村、森村、上鵜川原村、諏訪村、池底村、吉沢村、潤田村
山田村(幕府領・菰野藩)
近江国 栗太郡のうち - 3村
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B0%E9%87%8E%E8%97%A9
ゲスト  投稿日時 2015/10/9 18:56
鵜川原村(うがわらむら)は三重県三重郡にあった村。現在の菰野町中心部の東北東、概ね三滝川の左岸にあたる。
地理
河川 : 三滝川、竹谷川、海蔵川
歴史
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、吉沢村・下鵜川原村・川北村・大強原村・池底村の区域をもって発足。
1956年(昭和31年)9月30日 - 菰野町・竹永村と合併し、改めて菰野町が発足。同日鵜川原村廃止。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E6%9D%91
ゲスト  投稿日時 2015/10/9 18:35
初代 芳澤あやめ(しょだい よしざわ あやめ、1673年(延宝元年) - 1729年8月9日(享保14年7月15日))は元禄から享保にかけて大坂で活躍した女形の歌舞伎役者。屋号は橘屋。俳名に春水。本姓は斎藤。通名を橘屋 權七(たちばなや ごんしち)といった。

紀伊国の中津村(和歌山県日高川町)の生まれ。5歳の時に父を亡くし、その後道頓堀の芝居小屋で色子として抱えられ、吉澤綾之助を名乗った。はじめ三味線を仕込まれたが、丹波亀山の筋目正しい郷士で有徳の人として知られた橘屋五郎左衛門が贔屓となると、その強い勧めで女形としての修行を重ねた。後年女形として大成したあやめは、この橘屋五郎左衛門の恩を一生忘れず、屋号の「橘屋」も彼にあやかって用いるようになったという。のち口上の名手・水島四郎兵衛方に身を置き、初代嵐三右衛門の取り立てで、若衆方として舞台を踏む。

元禄5年(1692年)に京に上り、同8年に太夫の号を取得して芳澤菊之丞と改名。同11年 (1698) には『傾城浅間嶽』での傾城三浦役が演じ人気を博す。正徳3年 (1713) 11月江戸に下り、翌年11月に帰京。その2年後には役者評判記『三ヶ津惣芸頭』で高い評価を受ける。享保6年(1721年)には立役に転じて芳澤權七を名乗るが不評で女形に戻る。この前後に「吉澤あやめ」を名乗ったといわれているが、詳細は不明。

享保13年 (1728年) 隠居、翌年死去した。

初代あやめは、舞台だけでなく日常生活でも常に「女性」を意識していなければならないと門人に教えていた[3]。たとえば、食事をするときはみなから離れて一人で食べなくてはいけない。食べている時に男になってしまったら相方の役者がどう思うか、そこまで考えなくてはいけない、という徹底したものだった。初代のこうした「芸談」は、それを直に見聞きしたという狂言作者の福岡彌五四郎が晩年に口述、この他にも数人の役者の芸談を加て『役者論語』という一冊の本にまとめられた。同書の「あやめ草」の章を参照されたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E6%BE%A4%E3%81%82%E3%82%84%E3%82%81_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)
マルコ  投稿日時 2013/12/8 7:17
京都大阪地方を江戸と対比してなんというか。 上方。
俳諧から小説に転じ、享楽的現世を背景に、自らの才能で生き抜く人々の姿を描き、民衆文化に新しい世界を開いたのはだれか。 井原西鶴。
井原西鶴を作家とする、元禄時代の小説は何か。浮世草子。
井原西鶴の代表作の一つは何か。世間胸算用。
人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書いた代表作家はだれか。近松門左衛門。
近松門左衛門の作品を上演して名声を博した、大阪の浄瑠璃太夫はだれか。竹本義太夫。
松尾芭蕉が確立した排風を何というか。松風俳諧。
元禄二年春に江戸をたち、東北、北陸から美濃大垣に至る芭蕉の俳諧紀行文とは。奥の細道。

元禄時代って芭蕉さんが奥の細道の旅をした時代なんですね。

立ち回りを主とする荒事で好評を得た、江戸の歌舞伎役者はだれか。市川團十郎。
恋愛を主とする和事の名人と言われた、上方の歌舞伎役者はだれか。坂田藤十郎。
元禄時代の女形、特に遊女役を得意とした俳優とはだれか。芳沢あやめ。

歴史の教科書問題にあやめさんの名前がありました。
マルコ  投稿日時 2013/11/6 18:27
芳沢あやめさんは元禄時代に活躍した上方歌舞伎の女形です。

元禄文化というと、京都・大阪と中心とした上方の文化。担い手は、大名や上方の豪商・町人。
豪華な文化・人間性の追及、浮世を表現したといわれる文化です。

初代市川團十郎さん、和事を得意とした坂田藤十郎さん、近松門左衛門や竹本義太夫さんが活躍していた時代です。豪華なスターたちが勢ぞろいしていたんですねぇ~。

なんでも、あやめさんは女をどのようにして演じるのかに大変苦心した人だそうです。
あやめさんの書かれた女形の極意の本?は歌舞伎で女形とやる人たちの聖典として、読まれているという話を聞いたことがあります。
マルコ  投稿日時 2013/8/7 14:02
http://blog.goo.ne.jp/y-terumi10032002/e/08541bf2e613a48022d6df1bd4c6c717
に現在のあやめ塚の写真が載っていました。
秋か冬頃の写真のようなので、あやめは咲いていませんけど・・・。

マルコの投稿を修正してくださったのは、紅子さんでしょうか?
ありがとうございます!!
マルコ  投稿日時 2013/8/6 14:55 | 最終変更
あやめ塚は、吉沢集落、源正寺の南、黒田みちの道路のすぐ北側に あります。塚のそばには小川が流れ、周りには四季色とりどりの草花が咲きますが、今は草もみじの中にひっそりと小さな碑が立ち、石には「あや め塚」と刻まれています。このあやめ塚については、吉沢集落に、次のような面白い伝説が語りつがれています。昔、吉沢あやめは、妻を吉沢において単身京へ役者の修業に出た。
あやめは、修業のかいがあって上方女形(おやま)、俳優の第一人者になることができた。ある時あやめは得意の妙齢の美しい女形の姿 に身をやつし、郷里の吉沢へ帰り、妻のもとへ日中にたずねた。ところが、妻は、夫のあやめの姿とはつゆ知らず、非常にしっとし て応待し、すげなくあしらったので、あやめは心の中でほほえみ、そしていったん別れをつげ、その日の夕方、真のあやめの姿でふたたび 妻のところへ帰った。すると、昼間尋ねて来た女の人のことで夫婦ゲンカとなった」。 あやめは、白昼自分の妻でさえ真の夫と見分けのつかない程、女形名人であったと伝えられています。

以上が吉沢集落に昔から伝わる話ですが、この話について、吉沢集 落の旧家、野呂雄三氏の家に残されている古文書には、およそ次のようにしるされています。 「本村の中心より己(南々東)の方向に当る所に、広さ一坪の一基の石碑が建っている。これは本村の久保幸助という者が建てたものこれ は昔、あやめと名のる歌舞伎俳優の塚なり。本村で死亡し、ここにほおむる。この話は、古老の言い伝えによるものなり」とあり、碑を建 てたという吉沢の久保幸助は吉沢の村役人もつとめたことがあり、当時、寺小屋を開き書も上手な人でした。

(菰野の文化財リストより)
http://www.town.komono.mie.jp/library/gallery02.html#list044
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