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No.1195
なばのなきぜき
なばの泣きぜき

放送回:0754-B  放送日:1990年06月23日(平成02年06月23日)
演出:小林治  文芸:沖島勲  美術:千葉秀雄  作画:藤森雅也
熊本県 ) 6449hit
泣いたら怪力になる男の話

昔、子供たちが山で木に生えているキノコを採っていた。この地方ではキノコのことを、なばと言っていた。子供たちは、キノコが高い所にあって取れないので苦戦していた。するとそこに一人の大きな子供があらわれた。

子供たちが「お前あの木に生えている、なばさ採ってくれれば半分やるぞ」と言うと、その大きな子供はすぐさま木に登り、なばを取ろうとしたが途中で落ちてしまった。大きな子供は泣き叫び暴れ始め、周りには竜巻が巻いていた。

そしてその子供は、木を根元から引き抜いて村に持って行った。子供たちは怖くなり走って村へ帰った。その時からその大きな子供の事をなばと呼ぶようになった。

それから何年か経って、村の近くの川が大雨で溢れそうになった。村人たちは壊れそうな堰(せき)を直していたが、なばだけはいつも何もせず犬と戯れていた。そんな事だから、村人たちはなばのことを、木偶の坊や、役立たずなど悪口を言っていた。

さて、村人たちの努力で堰の修繕は終わろうとしていた。ところがその時、なんと堰を支える柱が傾いてきたのだ。その時、誰かがなばに石を当てた。すると、なばはあの時と同じように泣き叫び暴れ始め、川に飛び込んで傾いていた柱を直し始めた。なばのばあさんは「なば頑張れ、お前ならできる。村人たちにお前の力を見せてやれ」と言って励ました。

なばは何度も流されそうになった。しかし、なばは立派に堰を守り抜いたのだった。その堰は、なばが泣きながら作ったという事で、なばの泣きぜきと名付けられた。

(投稿者: KK 投稿日時 2012-10-8 20:29 )


参考URL(1)
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/k_minwa.html#9
参考URL(2)
http://longlivenama.blog8.fc2.com/blog-entry-424.html
ナレーション市原悦子
出典熊本の伝説(日本標準刊)より
場所についてなばの泣き石(小嵐山)
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地図:なばの泣き石(小嵐山)
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※掲載情報は 2012/10/9 1:33 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
6件表示 (全6件)
ゲスト  投稿日時 2015/11/7 22:31
■黒川
阿蘇谷の外輪山北東部麓を無田口・豆札から三野、手野、小嵐山、山田、小倉、内牧および三久保を西流し、さらに赤水、数鹿流ケ滝をへて立野の北向山原生林の手前で白川に合流します。約20㎞の流れです。雨の後、火山灰で川が黒く濁るので黒川といわれます。東岳川、古恵川、平保の木川、豆札川および宮川の支流があります。
肥後 五河の一つで、阿蘇神宮寺の坊社近辺を流れたので坊中川とも言われました。健磐龍命が国造の時、阿蘇カルデラ湖の西側低地を蹴破った際、手野あたりに大鯰が水を堰き止めていたが、説得したところこの黒川を流れ落ちていったと言います。
鹿漬川(黒川の一部別名)
阿蘇盆地外輪山の北に小嵐山(京都の嵐山を小さくしたような山からこの名がある)の前を流れる川は遙か古代、鹿を漬けていたのか鹿漬け川という。地元ではなまって“しっけがわ”といいます。
川魚と貝類: おやにらみ、かまづか、あぶらめ(あぶらはや、タカハヤ)、どんこ、鯰、うなぎどじょう、タニシが子供の頃、捕れたが、今は岸壁がコンクリートになり魚影は少ない。 
小嵐山橋
子供の頃、貸ボート屋がありましたが、今はやる人がなくありません。復活して欲しいものです。
なばのなき石
昔、竹原村に なばの生えた木をもって帰った馬鹿力の男がおました。鹿漬川に堰をして田圃に水を流す工事の苦役に刈り出されたが、ぼんやりしているのでみんなからののしられ泣きだしたが、泣けば泣くほど力が出て、泣きながら一人で造ったと言います。(昔話)

■東岳川(ひがした゛けかわ) •阿蘇山の東の山 根子岳を源流として、宮地を通り中通で黒川に合流する黒川の支流です。上流で泉川を合わせます。
■西岳川(にした゛けかわ) •阿蘇山の西の山 楢尾岳を源流として、阿蘇町坊中から、東岳川の西側を平行して流れ、内牧で黒川に合流する黒川の支流です。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/asopage.htm
ゲスト  投稿日時 2015/11/7 21:56
なばの泣き堰⇒小嵐山堰
今からさかのぼること400年前、加藤清正公によって築かれたとされ、有明海に注ぐ白川の上流(立野発電所より少し上流から白川・黒川に分かれる)にある、なばの泣き堰で有名な小嵐山堰。
http://www.aso.ne.jp/~aso-toti/menu04/08.html
ゲスト  投稿日時 2015/11/7 21:35
小嵐山(しょうらんざん) 阿蘇市
所在地: 阿蘇市一の宮町中通
解説: 阿蘇の麓(ふもと)に位置する阿蘇市一の宮町は、町を取り囲むように外輪山が広がっており、四季折々の美しい姿を見せてくれます。この阿蘇外輪山からつき出た部分を「鼻」といいます。阿蘇には7つの鼻があり、その1つ「木落が鼻(象が鼻)」 が一の宮町中通にあります。
この鼻の下部の小高い丘を小嵐山といい、ながめは京都の嵐山からのながめと似たところがあります。小嵐山の下には鹿漬川(しつけがわ)が流れており、この川を嵐山の大堰川に、また以前架かっていた木橋を嵐山の渡月橋(とげつきょう)に、阿蘇五岳のすばらしい景色は京都の東山から比叡の山々に見立てることができます。
このような京都に似た風情をこよなく愛したのが、阿蘇惟治(これはる)です。その惟治の歌碑が、丘の上に登る階段の途中にあります。
   「月花にあはれ嵯峨野(さがの)の面影を うつすやここの小嵐山」
惟治は、文政5年(1822年)から明治3年(1870年)まで阿蘇神社大宮司を務め、阿蘇神社の造営(注)をおこないました。惟治は宮中へのあいさつなどのため京都を訪れていますが、そのときに見た嵐山の風情と、この丘の風情を重ねていたのか、この丘を小嵐山とよぶようになりました。小嵐山の頂上には惟治が景色をながめたときの東屋などは残っていませんが、その後も地域住民の憩いの場となったようです。
そして、誰の手かはわかりませんが、太平洋戦争後、多くの石仏が建てられています。一見すれば地蔵菩薩にみえますが、よく観察すると台座に字が刻まれており、十一面観音菩薩、阿弥陀如来、千手観音菩薩、馬頭観音菩薩などいろいろな仏が彫られています。
現在、小嵐山は展望公園になっており、この下を流れる川でつりやボート遊びが楽しめるようにもなっています。
(注)天文年間(1532~55年)に社殿が焼失して以来、長く仮の社殿のままでしたが、天保6年(1835年)~嘉永4年(1851年)にかけて阿蘇神社の大造営が行われました(現在の阿蘇神社)。
参考文献: 一の宮町教育委員会 編・発行 『文化財一の宮』 1985年
周辺情報: 近くには中通古墳群があり、小嵐山の上からながめれば、古墳の形や群集している状態がよくわかります。
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_8093.html
ゲスト  投稿日時 2015/11/7 21:16
泣いたら怪力になる男 、こんな話は初めて読みました。
なば、すごいですね。始めの方の竜巻のシーン結構好きです。神様の生まれ変わりかしら。
ゲスト  投稿日時 2013/10/16 16:06 | 最終変更
 北外輪山(きたがいりんざん)のふもとの村で、鹿漬川(しつけがわ)を堰(せき)止めて、田に水を引き入れる工事をすることになりました。鹿漬川の水は根子岳(ねこだけ)・高岳(たかだけ)・中岳(なかだけ)・往生杵島岳(おうじょうきしまだけ)、そして北外輪の水も集めて流れるのですから、水かさも多く、堰止める工事はなま易(やさ)しいものではなかったのです。昔のことですから、今のような機械はなくて、みんな人手(ひとで)に頼り、工事は大がかりなものでした。

 なばの力はこんな時には大変(たいへん)役(やく)にたちました。どうしても動かないような大きな岩もなばは三声(みこえ)、四声(よこえ)大きな声で泣き叫びながら岩をかかえました。
 大きな杭(くい)を川の中に何本も打って竹を渡し、しがらみをかけるのです。そこに岩や石を積み上げて川の水を堰止め、そこから水は水路をつたって田んぼに導かれます。ですから、この堰は人々の暮らしを豊かにしてくれる大切なものなのです。

 なばは一生懸命に岩や石を運び続けました。なばの力がなくては、もっと日にちがかかってしまい、今年の稲つくりには間に合わなくなってしまったかも知れません。すっかり工事が終わって、村人たちは大喜び、

「さあ、これで田んぼの水も世話なしばい。」

と、酒もりをして、堰の完成を祝(いわ)ったのでした。

 翌朝、昨夜(さくや)のお酒のせいで、すこし頭の具合がよろしくない村人たちは、水の流れ具合を見にやって来ました。そしてさえない頭にかぶった手拭(てぬぐ)いで目頭(めがしら)をこすってみました。

 堰の一部が壊れて水がどんどんもれているのです。もちろん水路には水は流れていきません。一番大きな石がなくなっていたのでした。

 よく調べてみると、なばの運んだ石だったのです。そして不思議(ふしぎ)なことに、その石はまた元のところに戻っているというのです。大石(おおいし)は小嵐山(しょうらんざん)と呼ばれている山の中腹(ちゅうふく)から運んだものでした。

 なばも首をひねりながら、また川まで運んできました。でもやっぱり、翌日は元のところに戻っています。なばは意地になっていました。毎日その石を運んでくるのに、翌日は山の中腹にかけ上っている大石の秘密は、どうしても解けません。なばも、とうとうあきらめました。他の石を使うことにしたのです。

 何回も何回も泣きながら運ばれた石には、なばの涙がどれだけ流れたことでしょうか。なばの泣き堰の由来(ゆらい)はこれで終わりですが、すがた形は変わっても、この堰はいつまでも残ってその役目を果たしていくことでしょう。
 一方、大石のほうも小嵐山の中腹にドカンと腰(こし)をすえて「わたしはここが好きなんですよ」とでもいうように、長い年月をそのはだに刻みながら、阿蘇の厳しい気候にたえ、がんこに大地に張り付いているのです。

 「なばの泣き石」いつまでもお元気というところですか。

http://www.aso-dm.net/?%E3%81%AA%E3%81%B0%E3%81%AE%E6%B3%A3%E3%81%8D%E5%A0%B0%28%E3%81%9C%E3%81%8D%29
araya  投稿日時 2011/12/6 0:03
『熊本の伝説』(日本標準)の確認はできていませんが、『肥後の民話』(荒木精之,未来社)から小嵐山、下記の参考サイトから「なばの泣き石」をポインティングしました♪

http://g.co/maps/fs3fe

なばの泣き石の紹介サイト http://longlivenama.blog8.fc2.com/blog-entry-424.html
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