No.1265
あこやのまつ
阿古耶の松
高ヒット
放送回:0799-B  放送日:1991年06月08日(平成03年06月08日)
演出:阿部幸次  文芸:沖島勲  美術:阿部幸次  作画:上口照人
山形県 ) 28751hit
あらすじ

昔、奥州の藤原豊光(とよみつ)という豪族に、阿古耶という娘がおりました。

ある晩、阿古耶が琴を弾いていると、老松のある丘で琴の音に合わせるように舞を舞う若者が現れました。その若者の舞は素晴らしいもので、それから毎晩のように琴を弾くと現れる若者に阿古耶は徐々に惹かれていきました。

そして、どちらからともなく会い、二人は人目を忍ぶ仲になりました。阿古耶は「あなたはどちらの方ですか?」と問うと、若者は「千歳山の方から」「お名前は?」と問うと、「名取の太郎」と答えるだけで、それ以上はいくら聞いても教えてくれませんでした。

しばらくして、名取の川で洪水が起こり、流された橋を掛け直すことになりました。橋の材木を探した結果、千歳山の丘に生える老松を材料にする以外はないという結論になりました。

明日、老松を切り倒す作業に入る時になって、その晩現れた若者はいつも以上に憂えた顔をしてやってきて、阿古耶に自分が老松の精であることを明かしました。そして、自分が切り倒されるのはもはや定められた運命であると言い、阿古耶に引導を渡して欲しいと頼むと、泣きながら引き止める阿古耶の前で霧のように消えてしまいました。

翌日切り倒される作業に入った老松は、最後の嘆きのように松の葉を散らしながら、夕暮れには切り倒されてしまいました。ところが、切り倒した老松を運ぼうとすると全くびくともしないのです。人を増やし、縄も増やしても全く動きません。

その様子を見ていた阿古耶は、「引導を渡して欲しい」と言った若者の言葉の意味を知り、現場に行きました。そして「貴方の最後の願い通り、私が導いて差し上げます」と言って、かけられた縄を軽く引っ張るとあれほど動かなかった老松はするりと動き出しました。

名取川に新しい橋はかけ直され、阿古耶は老松が生えていた場所に新しい若い松を植えて、その横に草庵をむすびました。阿古耶は生涯をその草庵で閉じ、彼女が植えた松は時を経て立派な松に成長しました。人々は、その松を「阿古耶の松」と呼んだそうです。

(投稿者: もみじ 投稿日時 2012-7-23 11:03 )


参考URL(1)
http://www.ne.jp/asahi/titoseyama/akoya/bansyouji.html
参考URL(2)
http://turi-tozan.at.webry.info/201011/article_2.html
ナレーション常田富士男
出典出羽の伝説(角川書店刊)より
出典詳細出羽の伝説(日本の伝説04),須藤克三,角川書店,1976年3年10日,原題「阿古耶の松」
場所について阿古耶の松(万松寺)
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地図:阿古耶の松(万松寺)
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※掲載情報は 2012/7/23 12:23 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
7件表示 (全7件)
名取新一郎  投稿日時 2021/4/2 16:13
清和源氏で陸奥国名取郡に住んで郡名を氏とした名取太郎宗長の末孫で名取肥後守盛の子孫で武田信玄公に仕え、永禄4年、川中島の合戦にて軍資金を献上し、信玄公の御朱印が押された感謝状が名取肥後守に与えられ、その感謝状が我が家の家宝としてあります。
『阿古耶の松』伝説。このことから、いつ頃、名取太郎が甲斐の国に移り住んだのかが?・・・もしかして、名取の太郎が甲斐の国に移り住まなければならなくなり、二人は人目を忍ぶ仲になったその阿古耶の姫との分れが、このような伝説に?・・・(名取家の庭には代々赤松が植えられています。)
①名取公(崇神帝子孫)。
②名取朝臣(同)。
③清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏流。
④中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
⑤三輪氏。
などにもみられる。
ゲスト  投稿日時 2021/3/26 13:39
ささやき橋と似ている部分もありますね
ゲスト  投稿日時 2015/10/23 12:27
奈良の都、藤原豊成(右大臣)は、上下共に優しく評判が良かった。
奥方との間に、花の様な美しい姫君をもうけ、中将姫と名付けて寵愛していた。
しかし、奥方は若くして病気で亡くなってしまう。まだ中将姫が7歳の時だった。
右大臣も奥方の突然の病死に、途方に暮れる毎日を過ごしていた。

そんな様子をみた周りの人は、右大臣に再婚をすすめる。
勧めるままに、上司中納言の娘を奥方として迎え入れることになる。
中将姫が第二の母を得たことはうれしかったのだが、それは束の間であった。
世にありがちな、継子のいじめに日々中将姫は悩まされていたが、父君の前では母の冷酷さを表さなかった。
後に迎えられた奥方に、あこや姫という妹をもうける。
右大臣も大喜びであったが、あこや姫を設けてから、奥方の中将姫に対する虐待がひどくなっていく。
虐待が日々激しくなっていくと、奥方は恐ろしいことを思いつく。
ある日、毒まんじゅうを作り中将姫に食べさせようと恐ろしい計画を立てるのだが、
あこや姫がこっそり毒まんじゅうを捨て、姉の難を救っていた。
奥方は邪魔をする娘に仕方なく、第二策として家来の藤平次という者に、中将姫を遠く離れた雲雀山に連れ出して殺させることにした。
藤平次は奥方の言いつけに反対できず、中将姫をかついで雲雀山へ向かう。
しかし、罪もない天使のような愛らしい姫に刀を向けることなどできず。
「すぐここへ戻ってきますから、寂しくてもしばらくこの炭焼小屋にご辛抱なされ・・・」
と言い、中将姫の髪と片袖をちぎり取って館に戻り、奥方に示して中将姫を無きものとしたと伝える。
右大臣は、忽然といなくなった中将姫を心配したが、家来の藤平次が急に暇を取って
館から去ったので、藤平次が姫をどこかに誘拐したのではないか、と嘆き悲しんでいた。

それから6年の歳月を送った有る日、豊成は家臣をつれて雲雀山へ狩りをしにいった。山々をつたい狩立てて日を暮らし、帰途につくべきある山陰を通った時に、一軒のあばら家を見つけた。こんな山奥に住むのは、樵(きこり)だろうと通りすぎようとしたところ、美しい若い女の立ち姿を見た。
それが娘の中将姫だとわかり、右大臣は驚いた。その側に男がいたのだが、それが藤平次であった。藤平次は涙ながらに、ここに初めて奥方の中将姫に対する無情な仕打ちを述べ、自分がこの雲雀山中にお連れしたが、刀を向けることはできず今日まで育ててきたことを伝えた。
右大臣は鬼のように恐ろしい奥方を成敗しようとしたが、あこや姫は憤激する父を諫めて、母君の罪を許してあげて下さいと懇願した。
右大臣は中将姫を再び館に連れ戻したかったのだが、姫は、「わたしがまた戻ると母君に要らぬ苦労をかけねばならない。
それよりはいっそ出家して仏の道を歩み心安くこの世を送った方がましだ」と。
それから中将姫は尼になり、止める藤平次を振り切り大和国法隆寺に入ったという。
中将姫17歳の時だった。

右大臣は、奥方の恐ろしい心根、娘の出家など、世の無情を感じている間、奥方は重い病にふせる。奥方は自分の罪の恐ろしさに気付き、ようやく悟って善心にたちかえ、許しを乞うが奥方は亡くなってしまう。
こうして、右大臣は官位を退き、行脚の旅に出てしまう。

一人残されたあこや姫は、母を弔い家出の父の跡を慕って都を出ていく。
恋しい父は奥州路にありと聞き、風の便りに聞くまま東へ北へと旅を続ける。
奥州白石に入った時に、長旅の疲れで病気になる。
通りかかった一人の百姓に助けてもらい、介抱してもらった。その百姓の家が、現在の青根温泉の川崎村であったらしい。
その途中に姫が休息したという金ヶ瀬付近の洞窟を、いまでも「阿古耶の室(むろ)」とよんでいるそうだ。姫が療養中に、湯気をみつけ温泉を発見する。
都では治療のために貴重としていることを聞かせ、温泉の効能を村人に伝えたという。その評判が遠い村にも伝わり、遠くからわざわざ青根温泉に入るものが増えた。
この温泉の効能が村の役に立てたと、恩返しができたことで、あこや姫は再び旅にでる。

そして笹谷峠を越え、出羽国へ入るが、病後まだ完全に治らなかったせいか、ここで病気が悪化し、千歳村に辿りついた時は、重体になっていたそうだ。
ここでも村人たちの厚い介護に助けられたのだが、病は良くならず 父の行方もわからずまま、
「私が死んだならば、平清水の付近に埋めて下さい。そして松を植えて墓標にして下さい」と村人に頼んだ。
「消えし世のあととふ松の末かけて 名のみ千歳の松の月影」という詩を残し亡くなったと伝わる。 御年18歳。
村人たちは姫のはかない身の上に同情し、菩提と弔い後に西行がこの地に足をとどめ、あこや姫の物語を聞いて歌を残したとも伝わる。
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この話は、「宮城県の伝説 富田廣重 著」に掲載されていたもので、
富田氏は、「各地にある阿古耶姫の伝説なかで、青根温泉の由来として今でも残されている口碑として記しておく」とある。
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/3048fe26b161af3abab1743079a8ea41
ゲスト  投稿日時 2015/10/23 10:30
青柳のはなし ~ 小泉八雲「怪談」より ~
【あらすじ】
 能登畠山氏に仕える若侍・友忠は、主君の使者として幕府の最高権力者・細川政元公に会うため京に向かっていた。途中吹雪に見舞われ、偶然見つけた一軒の家に一宿を頼むことにした。その家には老夫婦と一人の美しい娘が暮らしていた。その娘・青柳の美しさに一目惚れした友忠は、彼女に求婚し、一緒に京へと連れて行くことになった。ところが、青柳は細川公に見初められ、召し上げられることになった。だが、友忠と青柳の一途な想いに心を打たれた細川公の粋な計らいで、二人はめでたく結婚することができ、幸せな日々を送った。
 しかし、結婚から5年後のある日、青柳が突然の激痛に襲われる。痛みにあえぎながら青柳は、実は自分は柳の精であることを告白し、自らの宿る木を切り倒されてしまったため、生きていくことはできないと告げ、姿を消してしまう。悲嘆にくれた友忠は、出家し、旅の僧となって、再びあの青柳と出逢った家を訪ねた。そこには無残にも切り倒された柳の切り株が三つあるだけだった。友忠はそこに墓をつくり、青柳と両親のために祈りを捧げた。
http://blog.goo.ne.jp/np4626/e/e72d44c0008d443152fbd028d44a9a58
ゲスト  投稿日時 2015/10/22 16:09
いい話です。涙が出ます。
ゲスト  投稿日時 2014/4/15 20:21 | 最終変更
地域分類が秋田県になっていますが、実際は山形県山形市の物語だと思われます。
老松のあった千歳山は山形市にあり、名取川は奥羽山脈を挟んで東側の宮城県です。
___
※分類を山形県に訂正(2014/4/18)
araya  投稿日時 2011/12/9 22:04
宮城県柴田郡川崎町今宿笹谷にある万松寺は阿古耶の菩提を弔う寺として知られ、二代目となる阿古耶の松もあるそうです。また南西には阿古耶が松の菩提を弔うため、山頂に庵を結んだ千歳山もありますので、とりあえず両方をマッピング候補地として挙げておきます。

阿古耶の松 http://g.co/maps/wbu6b
千歳山山頂 http://g.co/maps/psytx

紹介サイト
http://www.ne.jp/asahi/titoseyama/akoya/bansyouji.html
http://turi-tozan.at.webry.info/201011/article_2.html
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