鬼婆の仲人 についてのコメント&レビュー投稿
むかし、越後の国の与板(よいた)に、早くに両親を亡くした貧しい若者がおった。若者はぶっきらぼうで人付き合いが悪かったが、働き者で、年寄りにはたいそう優しく親切じゃった。...…全文を見る

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投稿者:のりくん 投稿日時 2012/7/1 10:44
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長岡市にメールで問い合わせてみました。

先日長岡市情報政策課にご照会いただきました「まんが日本昔ばなし 鬼婆の仲人」についての照会について回答をします。

「鬼婆の仲人」については、与板の民話として「与板町史」に掲載されている「大坂屋の嫁」を題材に作られたものではないかと思います。民話の中でも「与板の殿様一万石、大坂屋は二万石」と盆踊り唄に歌われるほどの・・・という記述があります。

お問い合わせの盆踊り唄について、地元の民謡団体の方などに照会をしてみましたが、現在、盆踊りや地元の祭りの際に「与板の殿様一万石、大坂屋二万石」という歌詞がある曲はわからないということでした。

与板町史に記述されている「大坂屋の嫁」は、昭和46年に出版された「近世越後風土記」から略記されたもので、ひょっとしたら昔にはそのような盆踊り唄があったのかもしれません。
なお、長岡市与板地域には前述した本を収蔵している図書館がありませんので、こちらにお出での際に資料等を調べられるとしたら、市内の長岡市立中央図書館へお立ち寄りください。「与板町史」「近世越後風土記」等をご覧になることができます。

「鬼婆の仲人」に出てくる「おおさかや」は「大阪屋」という漢字を使っていますが、与板町史の中では「大坂屋」という名称で出ています。民話に出ている「大坂屋」は江戸時代に活躍の越後屈指の豪商といわれた「大坂屋」ではないかと思われます。現在のお菓子の大阪屋さんとは関係がないと思われます。

以上、調べた範囲で回答をさせていただきます。
与板地域にお出かけの際は、直江兼続の展示をメインとした「兼続・お船ミュージアム」や前述の大坂屋の別荘といわれる「楽山亭」、与板城址などをご覧いただければ幸いです。

長岡市与板支所地域振興課 xx 電話:0258-72-3100 FAX:0258-72‐3341
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投稿者:beniko 投稿日時 2012/7/1 21:01
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では出典元情報もあわせて追記。※今日、たまたま読んでみましたので、せっかくだから書いておきます。

出典元である、里の語りべ聞き書き 第11集(三丘社)では、原題「大阪屋の嫁」となっていました。話者は多分「山本ハツ(新潟県)」さんです。その中でも「与板の殿様一万石、酒の大阪屋は二万石」と盆踊りの歌にうたわれるほどの大金持ちになった。と明記がありました。
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投稿者:ニャコディ 投稿日時 2012/7/1 22:29
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のりくんさん、紅子さん、調べていただいてありがとうございました。

「大坂屋」と「大阪屋」かぁ……。
ごめんなさい、あらすじを書いた時点では全然気にしてなかったです。
それにしても二万石の豪商とは凄いですねぇ。
もしかして現代まで店が続いたりしているのでしょうか?

このお話には弥三郎婆(この人も良い人なのか悪い人なのか、いまいち良く分からない……)も登場しますし、詳しく調べると面白いかもですね。


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投稿者:マルコ 投稿日時 2013/1/1 19:08
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昔、西蒲原郡分水町中島に弥三郎という猟師が住んでいて弥三郎婆はその猟師の母だったそうな・・・。弥三郎は実直で親孝行な男だったそうですが、弥三郎婆は性格が悪く残虐な行為が多く、彼女は近くに葬式があるという話を聞くと「やんれありがてぇや、また人間をごっつおになれるか」と言って喜んだそうです・・・。いやはや何とも恐ろしいお婆さんですねぇ。

弥三郎婆は自分の息子に今までの悪事がばれて、弥彦山に住み着いたそうです。
その後、宝光院の住職典海阿闍梨というお坊さんのさとしで今までの悪事を悔い、妙多羅天女という神様になったということです。
弥彦神社のすぐ近くにある真言宗宝光院の本堂に弥三郎婆である妙多羅天女像が今も安置されているそうです。
このお寺の本堂の裏に「婆杉」という大きな杉の木があって、弥三郎婆が持ってきた死体を掛けて置いたそうです・・・・。怖いなぁ・・・。鬼婆が天女になってしまうとは・・・仏様の力はすごいですねぇ・・・。
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投稿者:マルコ 投稿日時 2014/3/6 13:21
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このお話に登場する弥三郎婆は秋の終わりを告げる二十四節気のひとつの日に現れるということになっていました。

アニメの絵を見ると、田んぼの稲刈りをしている季節で、稲木干しが行われていました。しかも、田んぼには霜が降り、土がぬかるんでいる。

そこで、マルコは二十四節気って何かを調べてみました。

「日本の十二節気・七十二候」 
根本/浩
高校教師。新聞連載やテレビ「世界一受けたい授業」に講師として出演するなど、多方面で活躍中

の本を見てみると、

秋分 末候 10月3日~7日ごろに「水初めて涸る」つまり、田んぼの水を抜いて乾かし、稲刈りの準備をする。

それを考えると、秋分~霜降までの秋の間に弥三郎婆は現れるのではないかということです。

ハッキリしたことはわかりませんが。

秋分 末候 10月3日~7日ごろ

寒露 10月8日~22日ごろ
    初候 雁来る 10月8日~12日ごろ。次候 菊花開く10月13日~17日ごろ。末候 きりぎりす戸にあり10月18日~22日ごろ。

霜降10月3日~11月6日ごろ
初候 霜はじめて降る 10月23日~27日ごろ。次候 時雨時施す10月28日~11月1日ごろ。末候 楓蔦黄なり 11月2日~6日
ごろ。
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2019/1/28 9:38
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いい話だな~と思ったら
ただの人攫いやんけ!
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投稿者:カケス 投稿日時 2019/2/9 10:44
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このお話、娘が突然弥三郎婆に拉致されて、知らないところに連れてこられて
かわいそう、とも思えてしまいます。
しかし与板に伝わる話では若者は娘を連れて娘の実家へちゃんと里帰りをしています。
そして娘の父親にも気に入られています。詳細は以下のURLへどうぞ。

http://ojima3.com/yoita/legend04.html

そうですよね、やっぱりお嫁さんのご両親にはご挨拶しないとですね。
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投稿者:ゴンザ 投稿日時 2019/12/27 20:51
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演出、文芸、美術、作画がお夏石や長津呂のかくれ里とまったく同じだ!
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投稿者:Perenna 投稿日時 2020/6/13 23:22
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この昔話と似たような話が、未来社の「遠江・駿河の民話」にも収録されています。
題名は「弥三郎婆さ」です。
「むかし、弥三郎婆さという、鬼婆のようなものすごい婆さがすんでいました。」という書き出しで始まっています。
弥三郎婆さは村で葬式があると墓地の松かげに隠れ、葬送の人たちが帰ると墓を掘り起こし、死体をむさぼり食っていたそうです。
この婆さと村の若者が、ある雨の降る夕暮れ、山の坂道でばったり出くわしてしまいました。
若者は、婆さのご機嫌をとっておいたほうが食い殺されなくてすむと考えて、婆さを背負って家に連れ帰ってやると提案します。
弥三郎婆さは若者の親切にうれしくなり「おまえに嫁を世話してやる」と約束します。
数日後、若者が家でどうなることかと待っていると、空はにわかにかきくもり、いまずまがひらめき、雷が鳴り、ものすごい火柱がたったかと思うと、座敷の真ん中に白木の棺が置かれていました。
棺のふたをあけると、十八、九歳のそれはそれは美しいお姫様が眠っていました。
そのお姫様は江戸の商家の娘で、弥三郎婆さが仮死状態にして拉致してきたのでした。
江戸の豪商の主人は娘が生き返ったのを聞いてよろこび、若者との縁談を認めました。
悪鬼のように嫌われた弥三郎婆さも、こうして恩に報いたのです。

原話は浜松市と書かれています。
浜松市と与板町に伝わる「弥三郎婆」のあいだには、どのような関係があるのでしょうか?
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