ちごちごの花 についてのコメント&レビュー投稿
昔、信州の美しい奈良井川のほとりに、大金持ちの長者が住んでいました。子供がいなかった長者は、ある時不思議な夢を見ました。先祖が悪い事をしたので、その償いに何か良い事をす...…全文を見る

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投稿者:araya 投稿日時 2011/12/15 20:33
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信州の美しい奈良井川のほとり、八幡原の村。この2点から「長野県松本市大字島内字八幡原」が民話の舞台になりますね。他にも八幡原の地名は幾つかありますが、奈良井川沿いで川の氾濫の痕跡が見られた地形から、島内の八幡原と推定しました。八幡原公民館がありましたので、そちらを仮のポイントとしました。

http://g.co/maps/ezwza
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投稿者:のりくん 投稿日時 2012/7/1 11:07
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塩尻市に問い合わせてみました。

塩尻市観光課宛にお送りいただきましたお問い合わせ事項につきまして回答させていただきます。

ちごちごの花という話が載っているものは『しおじりむかしばなし』という資料のみでした。稚児伝承についての資料といえるほどのものは見つけることができませんでしたが、関連がありそうなものとして、『塩尻の伝説と民話』の長者屋敷、『信州の民話伝説集成 中信編』の長者屋敷、『しおじり学びの道』、『塩尻市誌2』に多少ちごちごの記述がありましたのでご紹介させていただきます。

不明な点等ございましたら、塩尻市立図書館0263-54-2741までお問い合わせいただければと思います。
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投稿者:のりくん 投稿日時 2012/7/2 8:59
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長者屋敷のあった場所は現在長者原公園と呼ばれている塩尻市の奈良井川のほとりです。
長野県塩尻市広丘吉田440ですね。常会集会所を仮のポイントにできると思います。現地に実際に行ってみましたが、井戸の跡はありませんでした。国道19号線を挟んで向かい側に塩尻市吉田小学校がありますが、ここの校章はちごちごの花です。学校の庭には数は少ないですが今もちごちごの花が植わっています。
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投稿者:のりくん 投稿日時 2012/7/19 14:51
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えびの子水苑について塩尻市観光課から回答をいただきました。

もともと河岸段丘になっていて奈良井川から水をひくのに不向きな地形だったので作られた溜池でしたが、
初めて作られた記録が残っていないため安土桃山時代(以前)くらいであると推定することしかできない。とのことでした。
時代ごとに整備されてきて現代のえびの子水苑として整備されたのは1980年代だそうです。
ここからは勝手な推測ですが
戦国時代に武田信玄に占領された塩尻市は
武田系の家来である城伊庵の支配下で、かなりメチャクチャな圧政の迷惑を被った。
で、江戸時代くらいに城伊庵の子孫の長者が先祖の悪行の罪滅ぼしとして溜池を整備したり新しい溜池をつくって治水事業をしたということなのではないかと思います。

あの当時は男色や稚児愛は黙認されていましたから、

当時長者の家で身よりの無い捨て子が養われてレイプされたりしていたことを、村人たちは治水してもらった見返りに大目にみてあげていたということではないかと思っています。
東北地方の貧しい農家では「間引き」をしていましたが、この当時の塩尻市では間引きの代わりに長者屋敷へ稚児として献上していたのだと思います。
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投稿者:のりくん 投稿日時 2012/7/24 21:28
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塩尻市にはシャルムという洋菓子屋さんがありまして、ここにちごちごの花というお菓子が扱われています。フィナンシェですが美味しいですよ。お店の方に聞きましたが、まんが日本昔ばなしとは関係ないそうです。
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/9/2 15:24
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城 景茂(じょう かげもち)(城伊庵)
(大永2年(1522年) - 天正15年(1587年))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。後に徳川家の家臣。受領名は和泉守。法号は意庵。弟に玉虫定茂、子に城昌茂。
生涯
元上杉家の家臣・玉虫氏の出自で、永禄3年(1560年)に武田信玄に仕えて足軽大将になった際に越後の名族である城氏の名跡を継いだ。武田軍では弟とともに鉄砲衆を率い、永禄12年(1569年)に本郷八郎右衛門が戦死した際にはその足軽の一部を引き継いだ。
元亀4年(1573年)4月に信玄が死去し、それに乗じて徳川家康が三河長篠城を攻撃した際には援軍として三河に出陣し、天正6年(1578年)からは遠江に在番した。武田征伐で武田氏が滅亡すると息子と共に家康に仕え、天正15年(1587年)に駿府で66歳で没した。
http://enpedia.rxy.jp/wiki/%E5%9F%8E%E6%99%AF%E8%8C%82
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/9/2 16:02
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長者原公園
この辺りは、長者ケ原とか八幡原とか呼ばれ、一面芝に覆われていたが、現在は公園になっている。ここは戦国時代の居館跡で、土塁に囲まれ、その一部が今、わずかに残っている。この土塁に大典記念に植えられた桜が今は大木になり、花見に恰好の場所となっている。また、この芝原には、オキナグサ(チゴチゴ)がたくさん生えていて、子どもたちがよく採りに行ったという。また、明治のころには競馬も行われたとのことである。ここは、戦国の時代(天文年間)、武田の家臣の城伊庵(じょういあん)という人が、館を構え水堰(野村区の湧水)の水をここまで引いてきたというから、たいへん勢力があったと思われる。

えびの子水苑
えびの子水苑は、吉田区ふるさとづくり推進会議によって、従来のえびの子池を昭和55年から3年をかけて造りかえたものである。東西約120メートル、南北約100メートルの池で、池の島には、遊歩橋がかけられ、そのわきには、東屋やベンチが設けられている。住宅化が進む吉田にあって、格好の区民の憩いの場となっている。

http://www.city.shiojiri.nagano.jp/tanoshimu/manabinomichi/gakusyugaide/zenkojikaido.html
善光寺街道 2011年10月1日(北国西街道)
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/9/2 17:41
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(長者の)先祖が悪い事をした

塩尻峠の合戦 による長者屋敷跡北側にある小屋城陥落と村井氏の滅亡だろうか?
また想像力を逞しくすると、「稚児様」は村井氏殿様の忘れ形見であり、「女乞食」は落ち延びた村井氏妻か娘であったのだろうか?

小屋城 こやじょう
別名村井城ともいうこの城(城というより居館)は村井氏によって造られた。村井氏は官牧埴原牧の牧人埴原氏の系統といわれる。 勢力の拡大と共に牧場地帯から松本平南部の平坦地、村井に居館を建て村井氏と称した。埴原城を 要害城として築いた最初の豪族であろう。
村井氏はこの館を中心に現在の松本市中山、内田、寿、芳川、塩尻市広丘、片丘にわたる一帯に 勢力を張っていたといわれる。
天文17年(1548)武田信玄が筑摩郡に侵攻を始め、小笠原氏の配下になった村井氏は小笠原長時が 塩尻峠の合戦で 信玄に敗れるとともに滅亡した。信玄はただちにここを府中攻略の前進拠点として 改築し、天文19年に本格的な侵攻を開始した。
7月10日村井城に到着、13日近隣の 熊井城を攻め落とし、15日にはイヌイの城 (埴原城といわれる) を攻め落としたが、小笠原氏の本城である林城や深志城 (後の松本城)などは自落してしまった。
信玄は19日村井城から深志城に移り、改築に取りかかり侵攻拠点をそちらへ移した。
それによって村井城は役目を終え、安曇侵攻の中継基地となった。
<場所> 松本市芳川小屋
http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/joukannagano/koya/koya.html


小屋城跡 泉龍寺前の道を右へ行き、集落内の四つ角付近に村井氏居館、小屋城があったという。かつてそこに標柱と説明板があったが、平成一四年春道路拡幅工事で一時取り払われていた。しかし、平成一五年四月には新しい説明板が立てられた。
村井氏は古代埴原牧の牧監をしていた埴原氏から発展した犬甘氏の支族で、鎌倉、室町、戦国時代を通じてここに居館を構えていたが、天文一七年(一五四八)七月武田信玄が侵攻して落城。その後信玄はこの城を普請して府中(松本)攻略の拠点とした。
都波岐神社 泉龍寺前を南へ行ったところにある。道に面して鳥居があり、木立の中に長い参道と社殿がある。祭神は猿田彦命、創立は不詳。本殿、御門屋、舞屋、鳥居の配置など古式を留めているといわれる。
http://zen.hayai-zeirishi.net/archives/32

村井城(むらいじょう)
長野県松本市にあった日本の城。別名、小屋城。
木曾義仲の家臣、手塚光盛が居住したと伝えられている。
鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地を支配した村井氏が居を構えた。村井城は平時の館で、埴原城を詰城としていた。 天文17年(1548年)、甲斐の武田晴信(後の信玄)が小笠原長時と戦うと、村井氏は小笠原氏に属し、この館を府中の防衛拠点としていた。
しかし、小笠原氏が塩尻峠の合戦に敗れると、共に戦った村井氏は滅亡し、村井城は武田晴信のものとなった。同年10月、晴信は直ちに村井城の鍬立普請を指図し、林城攻略の前進拠点とした。
続いて天文19年(1550年)7月、晴信は林城を落とすと、深志城をこの地の拠点としたため、村井城は廃城となったと考えられている。
現在、遺構などは一切残っておらず、住宅地の中に「小屋城跡」と書かれた標柱と説明看板があるのみである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E5%9F%8E_(%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD)
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/9/2 17:52
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塩尻市吉田地区ではおきな草のことを「ちごちご」と呼んでいます。
そのちごちごの花が芽吹きました。
吉田小学校のシンボルの成長を、リアルタイムで見守っていきたいと思います。
今日のちごちご
http://www.shiojiri-yoshida-e.ed.jp/htdocs/okinatoday/okitoday.htm
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/9/2 18:22
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吉田地区の概観
「塩尻市公民館五十年のあゆみ(平成13年3月10日発行)337ページ」より抜粋
吉田は塩尻市の北端に位置し、その北側は松本市芳川村井に接している平坦な地域である。
地区の東側には田川が南から北に流れ、その地域には水田が広がっている。
この地域は千年以上前には田川の流域を指して「良田の郷」と呼ばれていたが、元弘年間ころの古文書の中に「吉田」の地名が出てくるので、「良田」から「吉田」に変わったものと推察されている。(塩尻市誌別冊P418)
その後数百年を経た明治22年に、吉田・野村・高出・郷原・堅石・原新田の6カ村が合併して広丘村となり、さらに昭和34年に塩尻市に併合され、塩尻市広丘吉田区となった。
地区のほぼ中央に国道19号線とJR篠ノ井線が並行して走り、その西側の奈良井川東岸の段丘上一帯は水利に恵まれず、吉田原と呼ばれ、かつては桑畑や原野が広がっていたという。
長者原に居を構えて6代目に当たるという男性は、「昭和の初めの子どものころには、6戸しかなかった」と話している。
昭和20年ころまでは国道の東側には松林が点在し、村井駅へ通ずる道は、大きな松林に覆われて昼間でも薄暗く、一人では怖くて歩けなかったほどであったが、秋にはマツタケも採れたという。
大正から昭和にかけての養蚕が盛んであった時代には、村井にあった繭の集荷所に向かう繭を積んだ荷車や牛車が通るだけの、のどかな農村であった。

吉田地区の成立
昭和39年、松本から諏訪にかけての地域が新産業都市に指定されてから、国道19号沿いに多くの企業や事業所が進出するようになり、吉田地区はそれに加えて、市の市街化計画による宅地造成が始まりました。
昭和40年に20区画、44年に81区画、46年に183区画と、区画が年々増加しています。人口は、52年には5千人を超え、60年には6千人を超え、急増しました。
このため、区の運営にもさまざまな支障が出てきたので、区を分ける検討を重ね、平成6年4月1日、広丘から分離して吉田地区となり、吉田地区内が5つの区に分区されました。
このときの吉田地区の人口は、2,689世帯・7,499人であり、その後も区画整理や宅地造成などが進んだことにより、平成26年4月1日現在の吉田地区の人口は、3,943世帯・9,422人となっています。

参考:塩尻市公民館五十年のあゆみ
http://www.city.shiojiri.nagano.jp/tanoshimu/kominkan/yosidakominkan/yoshidachikugaikan.html
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投稿者:頭方 投稿日時 2018/12/18 8:13
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ちご様、顔も性格も永沢君に似てる気がする。
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