Re: ちごちごの花

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昔、信州の美しい奈良井川のほとりに、大金持ちの長者が住んでいました。子供がいなかった長者は、ある時不思議な夢を見ました。先祖が悪い事をしたので、その償いに何か良い事をす...…全文を見る

Re: ちごちごの花

投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/9/2 17:41
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(長者の)先祖が悪い事をした

塩尻峠の合戦 による長者屋敷跡北側にある小屋城陥落と村井氏の滅亡だろうか?
また想像力を逞しくすると、「稚児様」は村井氏殿様の忘れ形見であり、「女乞食」は落ち延びた村井氏妻か娘であったのだろうか?

小屋城 こやじょう
別名村井城ともいうこの城(城というより居館)は村井氏によって造られた。村井氏は官牧埴原牧の牧人埴原氏の系統といわれる。 勢力の拡大と共に牧場地帯から松本平南部の平坦地、村井に居館を建て村井氏と称した。埴原城を 要害城として築いた最初の豪族であろう。
村井氏はこの館を中心に現在の松本市中山、内田、寿、芳川、塩尻市広丘、片丘にわたる一帯に 勢力を張っていたといわれる。
天文17年(1548)武田信玄が筑摩郡に侵攻を始め、小笠原氏の配下になった村井氏は小笠原長時が 塩尻峠の合戦で 信玄に敗れるとともに滅亡した。信玄はただちにここを府中攻略の前進拠点として 改築し、天文19年に本格的な侵攻を開始した。
7月10日村井城に到着、13日近隣の 熊井城を攻め落とし、15日にはイヌイの城 (埴原城といわれる) を攻め落としたが、小笠原氏の本城である林城や深志城 (後の松本城)などは自落してしまった。
信玄は19日村井城から深志城に移り、改築に取りかかり侵攻拠点をそちらへ移した。
それによって村井城は役目を終え、安曇侵攻の中継基地となった。
<場所> 松本市芳川小屋
http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/joukannagano/koya/koya.html


小屋城跡 泉龍寺前の道を右へ行き、集落内の四つ角付近に村井氏居館、小屋城があったという。かつてそこに標柱と説明板があったが、平成一四年春道路拡幅工事で一時取り払われていた。しかし、平成一五年四月には新しい説明板が立てられた。
村井氏は古代埴原牧の牧監をしていた埴原氏から発展した犬甘氏の支族で、鎌倉、室町、戦国時代を通じてここに居館を構えていたが、天文一七年(一五四八)七月武田信玄が侵攻して落城。その後信玄はこの城を普請して府中(松本)攻略の拠点とした。
都波岐神社 泉龍寺前を南へ行ったところにある。道に面して鳥居があり、木立の中に長い参道と社殿がある。祭神は猿田彦命、創立は不詳。本殿、御門屋、舞屋、鳥居の配置など古式を留めているといわれる。
http://zen.hayai-zeirishi.net/archives/32

村井城(むらいじょう)
長野県松本市にあった日本の城。別名、小屋城。
木曾義仲の家臣、手塚光盛が居住したと伝えられている。
鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地を支配した村井氏が居を構えた。村井城は平時の館で、埴原城を詰城としていた。 天文17年(1548年)、甲斐の武田晴信(後の信玄)が小笠原長時と戦うと、村井氏は小笠原氏に属し、この館を府中の防衛拠点としていた。
しかし、小笠原氏が塩尻峠の合戦に敗れると、共に戦った村井氏は滅亡し、村井城は武田晴信のものとなった。同年10月、晴信は直ちに村井城の鍬立普請を指図し、林城攻略の前進拠点とした。
続いて天文19年(1550年)7月、晴信は林城を落とすと、深志城をこの地の拠点としたため、村井城は廃城となったと考えられている。
現在、遺構などは一切残っておらず、住宅地の中に「小屋城跡」と書かれた標柱と説明看板があるのみである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E5%9F%8E_(%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD)
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