Re: 綿帽子をかぶったお地蔵さん

綿帽子をかぶったお地蔵さん についてのコメント&レビュー投稿
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Re: 綿帽子をかぶったお地蔵さん

投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/11/2 18:40
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出雲街道 美甘宿 前後に地蔵さんあります。
http://8tagarasu.cocolog-nifty.com/sakamitisannpo/2010/05/post-61e4.html

美甘宿 舟形地蔵さん
http://jiromaru.nobody.jp/kaido/izumo3.htm

岡山県の北西部、鳥取県との県境に接する新庄村の東に位置する美甘村は、新庄村と共に出雲街道の宿場町として発展した町並みが今も残ります。
周囲を標高1,000m級の山塊に囲まれ、村内の主な集落も600m級の丘陵平坦地に形成されている美甘村ですは、古来より出雲・山陰と山陽を結ぶ要衝にあった為に、常に戦火に見舞われ続けてきました。
出雲街道が本格的に整備され始めたのは江戸時代に入ってから。津山藩によって新庄と高田(後の勝山)に宿場町が設置されます。新庄川に沿って深い谷の崖縁や急斜面などを開削して整備された新道であったものの、荷物輸送の人馬は平坦地の2倍、費用は3割増を要しました。こうした中で、高田と新庄の中間に位置する美甘は人馬の休憩所、中継点として整備されました。ただしこの時はまだ正式な宿場町ではありませんでした。
その後、輸送業の発達、出雲街道の交通量の増加、さらに山陰諸藩の大名の参勤交代の際の宿泊所として、寛文6年に津山藩がお茶屋を、安永4年には松江藩が本陣をこの美甘に置いた事によって、商家や旅籠屋が軒を連ね、宿場町の様相へと変わっていきます。江戸期の文献には街道に沿った約240mの間に33軒の家並みが並んだと記されています。
さらに街道渡世以外でも、「たたら製鉄」などの鉱業・製鉄業では周辺地域から資本家が参入し、明治中期ごろには最盛期を迎えました。
美甘宿は新庄川に沿った細長い平坦部を縫うように走る出雲街道沿いに形成されています。
また宿場から北へは、真庭郡や蒜山方面へ至る往還が出雲街道から分かれています。
国道は美甘宿の北側をバイパスしていますが、集落への入口には「美甘宿」の表示が設置され、さらに以前訪れた時よりも、古い商家の多くに改修工事、修景作業が進められていました。すでに取り壊された豪商の商家もありましたが、今後のより一層の町並み保全に期待されます。
http://www.ichiro-ichie.com/06sanyo/okayama/mikamo/mikamo01.html
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