人間、人からどう呼ばれようが、大切なのは中身昔、京都のある所にたいそう大きな榎木(えのき)を境内に茂らすお寺があった。この榎木の大木は遠くからもよく見え、寺の名物になっていた。
この寺の和尚は良覚僧正(りょうかくそうじょう)と言い、比叡山の大僧正まで務めたことのある立派なお坊さんであったが、それ故か人一倍自尊心も強かった。
そんな良覚僧正、ある日、街の人々が自分のことを良覚僧正と呼ばずに“榎木の僧正”と呼んでいることを知る。「自分よりも榎木の方がありがたいのか!?」そう思うと、僧正は榎木の僧正と呼ばれるのがどうしても気に食わなかった。
そこで僧正は、ある日植木屋を呼んで境内の大榎木をバッサリ切り倒してしまった。ところが榎木を切り倒したあとには大きな切り株ができた。人々はその上で茶会を開いたり、囲碁を打ったりして、切り株はたちまち街の人たちの憩いの場になってしまう。そして僧正は“切り株の僧正”と呼ばれるようになった。
これを知った僧正は、カンカンになって怒り、人夫を雇って切り株を掘り起こさせた。すると、今度は切り株を掘った後にできた穴に水がたまり、なんとも立派な堀池となった。この見事な堀池はまた寺の名物となり、いつしか僧正は“堀池の僧正”と呼ばれるようになった。
僧正はまたもカンカンになって怒り、人夫を雇って堀池を埋め、さらに念を入れて「当寺の僧正の名は良覚也。他の通り名で呼ぶべからず。」と書いた立て札まで立てた。さて、名物も無くなりさびしくなった寺であったが、なんと僧正は“立て札の僧正”と呼ばれるようになったのだ。
これを知った僧正、こんな風に呼ばれるのだったら、まだ榎木の僧正の方がよかったと、大きな榎木があった頃を思い出してはたいそう後悔したそうな。
(投稿者: やっさん 投稿日時: 2012-4-9 11:26)