トップページ >  お話データベース >  関東地方 >  栃木県 >  二ツ道のおいはぎ
No.0434
ふたつみちのおいはぎ
二ツ道のおいはぎ
高ヒット
放送回:0271-A  放送日:1981年01月10日(昭和56年01月10日)
演出:なべしまよしつぐ  文芸:久貴千賀子  美術:西村邦子  作画:なべしまよしつぐ
栃木県 ) 23011hit
おいはぎを追い払った、キツネ親子の話

昔、馬頭街道が通る栃木県の山奥に「平野」という村がありました。

この村は自然が豊かで、みんな平和で幸せに暮らしていました。子ども達が小川でとった魚を、近くにいたキツネの親子にも惜しみなく分ける程、仲良く穏やかでした。

ところがある時、村に近い街道に一人のおいはぎが住みつき、村人たちを襲っては身ぐるみ剥して金品を奪い取るようになりました。村人たちはこのおいはぎを恐れて、街道を通る事ができなくなり困ってしまいました。

この事を知ったキツネの親子が、悪いおいはぎを懲らしめる事にしました。キツネは、ぴかぴか七色に光る大きな石を担いだ若者に化け、おいはぎのいる街道に出向きました。案の定、若者の目の前に刀をもったおいはぎが現れ、若者に襲いかかりました。

若者に化けたキツネは、さんざんおいはぎを痛めつけ、おいはぎを街道から追い払いました。おかげで平野の村には平和が戻り、安心して街道を通る事ができるようになりました。

(紅子 2012-9-29 16:32)


ナレーション市原悦子
出典栃木県烏山町
DVD情報DVD-BOX第8集(DVD第38巻)
場所について那須烏山市志鳥の平野地区(地図は適当)
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • このページを印刷
地図:那須烏山市志鳥の平野地区(地図は適当)
追加情報
本の情報国際情報社BOX絵本パート2-第081巻(発刊日:1980年かも)/講談社テレビ名作えほん第090巻(発刊日:1987年12月)
講談社の300より書籍によると「栃木県のお話」
このお話の評価7.9000 7.90 (投票数 10) ⇒投票する
※掲載情報は 2012/9/29 16:32 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
お話の移動 ( 39  件):   <前  1 ..  6  7  8  9  10  11  12  .. 39  次>  
コメント一覧
8件表示 (全8件)
新・アーリアジャスール  投稿日時 2018/11/17 23:56
TBSで一番視聴率が高かったのはこの話ですね。
マルコ  投稿日時 2014/3/21 20:12
このお話に名前が登場する喜連川。狐と喜連川。なんか名前が似ているので、何でかな?って思ったらこんな面白い記事を見つけました。

http://www.246.ne.jp/~you99/ousyu1.htm

喜連川宿:(栃木県塩谷郡喜連川町)源平合戦で武功のあった塩谷氏、その後の足利氏と約800年にわたり中世から江戸時代まで続いた城下町宿場。町には荒川・内川・江川・岩川という四つの河川が南北を貫流しているが「喜連川」という川はない。この喜連川の地名の由来には諸説あり、その昔荒川が「狐川」と呼ばれていたのが変化したという説が有力という。昔 荒川の上流にキツネが住んでいたので荒川はキツネ川と呼ばれていたが、キツネ川ではあまり格好良くないので、荒川・内川・江川が喜んで連なって流れているということで、喜連川(キツレガワ)としたのではないかと言われている。

とのこと。なんか面白いですね。このお話でも、狐の親子が子供たちからお魚をもらうシーンがありましたけど。それとなんか関係しているのかな?っておもいました。
マルコ  投稿日時 2014/3/1 17:29
烏山民話の会の方に『二つ道の追いはぎ』の二つ道はどこにあるのか質問してみました。

そうしたら、当時、「新・ユーアイゴルフクラブ」と言うゴルフ場の開発のため、道を整備したため『二つ道』消失した。

とのことです。

それらを考えると、このお話の二つ道は、「新・ユーアイゴルフクラブ」の近くにあるって事ですね。

今は「新・ユーアイゴルフクラブ」は閉鎖になってしまってないみたいですが、場所だけ書き込みします。

所在地:栃木県那須郡那珂川町白久1337-2
東北自動車道・矢板 25km以内
新・ユーアイゴルフクラブのコース紹介

2013年12月末をもちまして、ゴルフ場の運営を終了致しました。
長い間ご利用頂きまして誠にありがとうございました。

当コースはフラットでフェアウェイも広く、ゆったりとゴルフを満喫できるコースと自負しています。また、ブラインドホールが少なく、ティグランドからグリーンを見ることができ、初めての方でもセルフプレーが可能かと思います。距離もたっぷりとあり、桜、椿コースと18ホールありますが、それぞれ技あり、力あり、味わいありと個性的ビギナーの方から上級者まで、充分楽しんで頂けると思っております。プレー後は総黒御影石のお風呂でゆっくりとおくつろぎください。

フェアウェイが広く、距離も長く、初心者から上級者まで、すべてのクラブを使用できる本格的アメリカンスタイルのチャンピオンコースです。尚、日本プロゴルフ協会協力コースにもなっております。プロが指定するコースで、是非皆様のチャレンジをお待ちしております。 .
マルコ  投稿日時 2014/2/16 18:34
ごめんなさい、説明不足でしたね。
でも、国道293号線の方にマッピングしてくれてありがとうございます。

とりあえず、マッピング位置はこれで大丈夫です。

お手数おかけして申し訳ありませんでした。
マッピングありがとうございます。
beniko  投稿日時 2014/2/15 14:21
さっぱりわからないので、Googlemapの座標(経度緯度)をお知らせください。
マルコ  投稿日時 2014/2/15 9:56
紅子さん!!ちょっと場所の訂正をお願いします。

栃木県のまん日である『二つ道のおいはぎ』

市原さんのナレーションで『喜連川と馬頭を結ぶ馬頭街道と呼ばれる道は途中家一軒ない深い山の中を通っておりましたそうな。その山また山の寂しい街道から少し南へ下ったところに平野と言う村がありました。ところがあるとき、村に近い街道の二つ道に分かれたあたりに追いはぎが住み着いたのです。』と言っていました。

二ツ道のおいはぎの原作本と思われる『からす山の民話』の本を読むと、 本でのタイトルが「バイパスのおいはぎ」となっており、『馬頭街道の平野地区を過ぎて東へ行き、道が二つに分かれて30メートルほどでまたひとつの道に合わさる『二つ道』と言う場所。今はバイパスになっている。』
話者 小口芳夫

となっていたので、『馬頭街道』を調べてみました。

現在では『馬頭街道』と言う名前の街道はありませんでしたが、馬頭街道と言うくらいだから、栃木県の馬頭を通り、平野地区を通り、今はバイパスになっていて途中家一軒ない深い山の中を通っていた。

これらの情報から考えると

『栃木県の国道293号線』が馬頭街道である。

国道293号線は喜連川から馬頭を結んでいますし、別名馬頭バイパス志鳥バイパスと呼ばれているのです。それに、マルコは喜連川から馬頭まで何度も国道293号線を通ったことがあるのですが、平野地区から馬頭までの道のりは山の中を通って行き、確かに、民家が少ないです。

ですから、今の場所の位置だと、誤解しやすいので、平野地区を通る、国道293号線の方に訂正していただけないでしょうか?

よろしくお願いします。
マルコ  投稿日時 2014/2/15 9:03
二ツ道のおいはぎの舞台となった『平野』。平野焼、志鳥焼、という焼き物を焼く窯があるみたいですね。二つ道を調べてみて、わかったことを書き込みします。

県北7窯の歴史たどる 大田原で企画展 栃木より
2013.11.20 02:19
 ■黒羽藩御用「岡の台」など紹介

 大田原市黒羽地区など県北地域で焼成された江戸時代後期~大正時代の焼き物の歴史をたどる企画展「黒羽とその周辺地域のやきもの」が黒羽芭蕉の館(同市前田)で開かれている。12月8日まで。黒羽地区や周辺の7つの窯を紹介し、黒羽藩御用窯とされる「岡の台瀬戸焼」や短期間で閉じられた窯などの貴重な作品が並び、初公開作品も多い。

                   ◇

 近代陶芸を代表する板谷波山(はざん)(1872~1963年)の指導を受け黒羽の地で焼かれたという「かなめ焼」、現在の矢板市にあった「成田焼」など貴重な焼き物も展示している。

 江戸時代~大正時代、黒羽地区や周辺で開かれた7つの窯は、岡の台瀬戸焼、かなめ焼、成田焼、平野焼、志鳥焼、益子焼、小砂焼で、約200点を展示。

 岡の台瀬戸焼は文化年間(1804~18年)の頃、岡の台(現大田原市前田、同市黒羽田町)で焼かれていた。黒羽藩11代藩主、大関増業(ますなり)の肝煎りで始まったとされ、近世の下野国内では最も古い窯とされる。

 かなめ焼は岡の台瀬戸焼の伝統を受け継ぎ、明治39(1906)年に黒羽陶器株式会社が設立され、解散するまでの約20年間、現在の飯縄(いづな)山神社境内(同市前田)で焼成された。那須与一が源平合戦で扇の要(かなめ)を射抜いた故事にちなみ、「かなめ焼」と名付けられた。焼き物は薄くて耐火性に富み、茨城県出身の波山の指導を受けて芸術性の高い作品が作られたという。

 那須や塩原温泉などの観光地の土産品として人気を集め、大正時代には質の高さが評価され、皇室関係の御用品を調製したこともある。

 成田焼、平野焼は江戸時代に現在の矢板市で焼成。志鳥焼は幕末、現在の那須烏山市志鳥で開かれ、明治37年頃に窯が閉じられた。

 同館の新井敦史学芸員は「薬研(やげん)、湯たんぽ、手焙(てあぶ)りなど今では目にできない焼き物も多い。じっくり鑑賞してもらいたい」と話す。問い合わせは同館(電)0287・54・4151。
マルコ  投稿日時 2014/2/14 21:24
馬頭街道の平野地区を過ぎて東へ行き、道が二つに分かれて30メートルほどでまたひとつの道に合わさる『二つ道』と言う場所。今はバイパスになっている。
ところが舞台らしいです。
投稿ツリー
8件表示 (全8件)
現地関連情報
出典本調査 facebook
Twitter

オンライン状況

61 人のユーザが現在オンラインです。 (19 人のユーザが お話データベース を参照しています。)

新着コメント(コメント24件)