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No.0252
じょうこういんのこくうぞうさん
浄光院の虚空蔵さん

放送回:0157-A  放送日:1978年10月28日(昭和53年10月28日)
演出:亜細亜堂  文芸:沖島勲  美術:横瀬直士  作画:須田裕美子
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仏の顔も三度まで

むかしむかし、広島の安佐郡八木というところに浄光院というお寺があって、そこには虚空蔵さんという小さな木像が祀ってあった。この虚空蔵さんは、病気も治すし、お参りすればお金も儲けさせてくれるという、大層ありがたいもので、近在でも評判だった。

ところで、この里には一人の男の子が住んでいた。この子の家は百姓であったが、お参りにきた人々のあとをついて行っては、虚空蔵さんのありがたいお話を聞いているうちに、虚空蔵さんを独り占めしたいと思うようになった。それというのも、男の子は百姓仕事が大嫌いだったので、虚空蔵さんに頼んでお大尽にしてもらおうとしていたのだった。

男の子は、夜中にこっそり浄光院に忍び込み、虚空蔵さんを背中の駕篭の中に放り込むと、一目散に山を下りはじめた。ところが、背中の虚空蔵さんが急に重くなり、男の子は道の真ん中に倒れこんでしまった。しばらく泣きわめいていると、通りかかった里のきこりが人を集め、一心に祈り続けて男の子を助けてくれた。そうして虚空蔵さんは元に戻された。

しかし、男の子はまだあきらめていなかった。何日か後になってまた夜中に虚空蔵さんを持ち出したが、やっぱり山の中腹までくると両手が痺れ、また体が動かなくなってしまった。

今度は虚空蔵さんが憎らしくなってきた男の子は、虚空蔵さんを縄でぐるぐる巻きにして思いっきり引っ張り出そうとした。ところがびくともしないどころか、逆に虚空蔵さんに引き寄せられ、寺の柱に頭を思いっきりぶつけてのびてしまい、そのまま石になってしまった。

父親は、全国あちこちから偉い坊さんたちを呼んで助けを乞うたが、どうやっても息子は元には戻らなかった。仏の顔も三度といって、どうしても言うことを聞かない子供には、「虚空蔵さんの石になっても知らんでよ」と言って戒めるのだという。

(投稿者: kokakutyou  投稿日時 2012-8-17 1:45)


参考URL(1)
http://www.bairin-e.edu.city.hiroshima.jp/053%20tiikitannkenn.htm
ナレーション常田富士男
出典垣内稔(未来社刊)より
出典詳細安芸・備後の民話 第一集(日本の民話22),垣内稔,未来社,1959年11月25日,原題「浄光院の虚空蔵さん」,採録地「安佐郡」,話者「米尾広吉、辻治光」
場所について虚空蔵菩薩像は広島市安佐南区八木の山中にある(地図は適当)
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地図:虚空蔵菩薩像は広島市安佐南区八木の山中にある(地図は適当)
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※掲載情報は 2012/8/17 2:08 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
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ゲスト  投稿日時 2017/4/4 5:24
三回目の虚空蔵さんの顔がちょっと怖い
ゲスト  投稿日時 2015/10/19 19:49
阿武山(あぶさん)は、広島市安佐北区と安佐南区にまたがる山である。北から時計回りに半円を描くように麓を太田川が南流する。
2層の地質からなり、下部が浸食が進みやすく風化しやすい後期白亜紀の花崗岩、上部山頂付近が中期-後期ジュラ紀の硬い岩石で構成されている。
中腹に棲む大蛇が人里に下りてきて害を与えていたが、戦国時代の武将香川勝雄が1532年2月27日にこれを退治した、との「蛇王池物語」が伝わっており、山頂付近に水神を祀る貴船神社の祠もある。ハイキングコースが整備されている。
古墳、遺跡群などが多数確認されている。
毛利輝元が広島城築城の際、阿武山を玄武としたという説がある。
2014年8月の広島市の土砂災害では、幾筋もの土石流が発生し、山裾に広がる住宅地に甚大な被害をもたらした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AD%A6%E5%B1%B1_(%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C)


権現山~阿武山~太田川ハイキングコース
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1172553513667/index.html


阿武山信仰の山道途中に、「浄光院の虚空蔵さん」が祭られていたものと思われます。現在残念ながら上楽地山道にある「浄光院の虚空蔵さん」から阿武山への登山道がweb上見当たりません。
またこの八木地域には、阿武山の龍神退治をした光廣神社と、阿武山山頂の御神体であったはずの「蛇落地観世音菩薩」もあります。
当時の阿武山信仰の賑わいを感じるお話です。
「浄光院の虚空蔵さん」の場所もweb上解らなかったのも残念です。
梅林小学校さんのサイトはとても為になりました。感謝です。
ゲスト  投稿日時 2015/10/19 17:32
(柏渓山)浄樂寺
  浄楽寺は、浄土真宗本願寺派のお寺で、八木の柏谷にあることから山号を柏渓山と称しています。
元和5(1619)年僧・順超の開基です。順超は、正明坊の出で、正明坊はもと中深川村(現・高陽町)にあったといい、芸藩通志によると中深川村明光寺境内に薬師堂がありこれがもと牛尾山正明院とよんでいたとありこの事でしょう。
現在の本堂は、明治11(1878)年から四年かけて可部の福王寺から移築したものでその経費は3,043円46銭5厘という記録があるそうです。なお、本堂の前に昭和61(1986)年秋本堂を修復した記念として鬼瓦のモニュメントが建立されています。
鏡の御影 絵画上の用語。円窓を描き、その中に表わした神仏の影像。
京都西本願寺に伝わる親鸞上人の肖像画の一つ。専阿彌陀仏(生没年未詳)によって上人の存命中に描かれたものといわれる。鎌倉似絵の貴重な遺品。
http://masuda901.web.fc2.com/page5dsx40.html
【浄土真宗本願寺派】浄楽寺
住所 〒7310101 広島県広島市安佐南区八木4-19-30
電話番号 0828732004
ゲスト  投稿日時 2015/10/19 16:56
上楽地の山道を歩いていくと、むかし男の子がぬすみ出したと伝えられる虚空蔵さんの木像がありました。
↑梅林小学校ちょうさ隊 より

広島豪雨災害:「八木蛇落地悪谷」の地名変更は江戸時代以前では
今の八木地区が元々「八木蛇落地悪谷(宝暦12年の八木村における土地調査結果が引用)」という地名であり、そこが「八木上楽地芦谷」と改名され、そのうち「上楽地芦谷」が省略されて「八木」となったと受け取る人がいないだろうかということ。
上楽地 =「上楽寺」(寺の寺号は「浄楽寺」)と、地名としての「蛇落地」はよく似てるけど、どちらがルーツで、どちらに呼び換え統一したのかは地誌を読まないとわからない。でも、そうとう古い話よ。明治時代じゃないかな。
「浄楽寺」は、「上楽寺」と音読みが一緒なのだ。浄楽寺の開基は元和5年(1619年)。寺の名前が地名を作ることも、逆に地名が寺の名前を作ることもある。これだけの材料ではなんともいえないが、地名に深く関わっている寺名であることは間違いない。
附近にある観音堂が「蛇落地観世音菩薩」と呼ばれる。その観音堂の紹介の近くに、「18才、十五人力の香川勝雄が阿武山にいた大蛇を退治する話。」という「蛇王池の碑」の紹介がある。
http://takanashi.hateblo.jp/entry/2014/08/28/235406
ゲスト  投稿日時 2015/10/19 16:22
八木(やぎ)は広島県広島市安佐南区の地名。
古の養義郷。935年の「倭名類授賞聚抄」には養我と書かれており、平安期以降に八木と呼ばれるようになった。
大昔から極秘とされ窺い知ることのできない、得難い秘伝の謡や曲(『八木邑伝の大躍五番六調子』)が八木村にはあり、いつの頃からか雨乞いの祈願として使われるようになり名高い三種の雨乞い法があった。極秘にするあまり知るものが少なくなったため、大正6年80歳以上の老人が集まり村の若者に教え込み、光広八幡神社の大祭日である八朔に踊られた。
かつて太田川は、阿武山の麓に環り流れていた。延喜2年の洪水の時、今井田の障子岩倒れで水勢川筋が移り現在の位置となったと伝えられている。
出雲国につながる雲石街道、太田川の水運によって、古くより陸上交通、水上交通で大きな役割を果たしている。
1221年の承久の乱で活躍した香川経景が褒賞として安芸国八木を与えられ、その子香川景光が八木城(現在の城山地区・八木5丁目)を築城した。その後毛利元就によって太田川を守る要塞となった。
明治の廃藩置県で広島県沼田郡八木村になり、1955年に緑井村、川内村と合併して安佐郡佐東町が発足(国道54号佐東バイパスの名称は、この佐東町に由来)。1973年、広島市と合併して広島市佐東町になり、政令市に移行して広島市安佐南区八木となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8_(%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82)
ゲスト  投稿日時 2015/10/19 16:19
佐東町(さとうちょう)はかつて広島県安佐郡に存在した町である。
1973年3月20日に安佐郡の高陽・安古市両町及び安芸郡瀬野川町とともに広島市に編入されて消滅した。この合併をもって高宮・沼田両郡の統合(1898年10月1日)の結果設置された安佐郡は消滅し、約75年の歴史にピリオドを打った。
1664年(寛文4年)まで存在した郡(佐東郡)の名前に由来する。1664年に佐東郡は沼田郡に改称するが、佐東町域を構成した川内中調子、川内温井、緑井、八木の各村はいずれも佐東郡に属していた。
※安芸国には佐西郡も存在し、そちらは1664年に佐伯郡(2005年11月3日消滅)に改称している。
江戸時代、広島藩 沼田郡に属していた。
1889年4月1日市町村制施行。佐東町域には当時いずれも沼田郡に属する川内・緑井・八木の各村が存在した。
1898年10月1日高宮・沼田両郡が統合して安佐郡が成立する。これにより川内・緑井・八木各村は安佐郡に属する村になった。
1955年7月1日川内・緑井・八木各村が対等合併して佐東町が成立する。
1973年3月20日安佐郡高陽・安古市両町および安芸郡瀬野川町とともに広島市に編入されて消滅する。同時に安佐郡も消滅する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%9D%B1%E7%94%BA
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