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No.0119
ひなのよばやし
ひなの夜ばやし
高ヒット
放送回:0073-A  放送日:1977年02月26日(昭和52年02月26日)
演出:馬郡美保子  文芸:沖島勲  美術:馬郡美保子  作画:馬郡美保子
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あらすじ

今から何百年も前、修善寺で戦(いくさ)があった頃の話。

この修善寺から遠くないある村に、ある日一人の老人が訪ねて来た。老人は深い傷を負っており、この村にある古い屋敷の前まで来ると、そこでばったり倒れてしまった。このお屋敷のお婆さんはたいそう親切な人で、老人を蔵座敷に運ぶと、懇ろ(ねんごろ)に看病した。おかげで老人の傷も日増しに快方に向かっていった。

そんなある日、老人は布団から起き上がり、何やらノミで木を彫っている。老人が作っている物は一対の男雛と女雛だった。完成した雛は見事な出来栄えで、男雛には気品があり、女雛には美しさの中にどこか寂しい影を宿してきた。

「この男雛はワシのゆかりの若殿にそっくりじゃ。また女雛はワシの縁につながる娘にそっくりじゃ。どうか末永く可愛がって下され。」老人はそう言い残すと、それから数日後の夜、どこともなく去っていった。

それからお婆さんは、毎年桃の節句になると、このひな人形を飾っていた。ところがある年の節句、お婆さんは風邪を引いて寝込んでしまった。すると桃の節句も過ぎ去ろうとする真夜中、何やら蔵座敷の奥でヒソヒソと話し声が聞こえる。

「今夜は桃の節句だと言うのに、お婆さんはどうされたのだろう?箱の中とは少々窮屈だが、お囃子して若君殿を慰めぬか?」こうして五人囃子は、にぎやかにお囃子を始めた。

お婆さんは、夢うつつの中でこのお囃子を聞きながら、お囃子の中に琴の音が欠けているのに気づいた。そこで布団から起き上がると、立てかけてあった琴をお囃子にあわせて弾き始めた。そうして琴を弾き終えると、いつしか眠りについてしまった。

翌朝、お婆さんが起きて見ると、蔵の奥にある雛の箱はめちゃくちゃになっていた。これを見たお婆さんは、あの老人が作った雛には魂が乗り移っていると悟った。

それからというもの、この地方では、年に一度は雛を箱から出さないと、その年は不吉なことが起こると伝えられている。また老人が作った男雛は源頼家公に、女雛はその乳母の娘、桜の前にそっくりだったという。

(投稿者: やっさん 投稿日時 2013-3-11 17:16)


参考URL(1)
http://www.surugawan.net/guide/129.html
ナレーション市原悦子
出典岸なみ(未来社刊)より
出典詳細伊豆の民話(日本の民話04),岸なみ,未来社,1957年11月25日,原題「雛の夜ばやし」,採録地「湯ガ島」
場所について修善寺の指月殿(源頼家公墓所)
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地図:修善寺の指月殿(源頼家公墓所)
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※掲載情報は 2013/3/11 17:16 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
3件表示 (全3件)
もんた  投稿日時 2020/2/15 20:24
本格的に歴史を知らないと分からなくなります。これはむつかしい。
もみじ  投稿日時 2013/3/13 0:21
源頼家について、いつも便利なwikiで調べてみた結果ですが
頼家が暗殺された修善寺の事件より、
どちらかといえば…その前の
比企能員の変にまつわる人なんじゃないかなぁ(・ω・)?
という感じがしました。

比企家というのは、源頼朝や頼家の乳母をしたこと、頼家の妻を出したことで
鎌倉幕府内で大きな権力を持てるようになった一族らしいです。



お話の中では男雛は頼家に、女雛は乳母の娘の…ってなってますよね。

頼家の乳母は、比企能員の妻です。
そして、この乳母の娘が頼家の妻になってます。
名前は桜の前ではありませんが、「若狭局(わかさのつぼね)」というそうです。
さらに、頼家には四男一女がいて、たったひとりの娘は竹御所だそうです。
男子四人は全員非業の最期を遂げています…(´Д`;)
竹御所は北条政子に引き取られ、結婚してますが、
初産が難産になったため死産の挙句に死亡という可哀想な最期です(´・ω・`)
若狭局は、後に怨霊となって北条家の娘に取り憑いたとされています。


比企能員の乱は、比企氏と北条氏の権力争いですが、
北条氏の方が一枚上手であったようです。乱が起きてからわずか一ヶ月にして比企氏は滅亡してしまったとか。

この乱で、頼家の嫡男である一幡(母:若狭局)は死亡。
(一説には一度は母と逃げおおせたものの後から殺害されたという)
比企一族は館に火を放ち、自決の道を…。
そのあとも逃げおおせた者がいないか掃討があったとか…。
ちなみに能員の舅も逃げている途中で殺されているそうです(・ω・;)

この一件は頼家を激怒させ、頼家が北条時政を本格的に暗殺さんと働きかける
大きな要因にもなったようです。
結局、頼家は病気が悪化し出家させられて修善寺に押し込められるのですが…。

比企氏の館のあった場所(妙本寺)は神奈川なので、
修善寺のある伊豆からは、かなり距離があるのですが…
修善寺の事件は、頼家だけを殺害するために仕組まれたものだったと思うので
「大きな戦」にはあたらないと思うんですよね(・ω・)

なので、私としては
「比企能員の変の生き残りのお爺さん」ではないか?と推測してみます。

歴史としてわかるのはこのくらいでしょうか…。
マルコ  投稿日時 2012/4/22 17:48
この話って「昔、修善寺というところで大きな戦があった頃の話じゃ」「老人が作った男雛は源頼家公に女雛はその乳母の娘の桜の前にそっくりだっだ。」といっていたから・・・。源頼家が元久元年(1204年)に時政の密計により、修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯で暗殺された。という事と繋がるんじゃないかな?誰か歴史に詳しい人教えてくださーい!!
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