むかし、伊豆は宇佐美のある神社に、それはそれは大きな楠(くすのき)があった。
ところがある年、戦船(いくさぶね)が作られるとき、この大きな楠は伐採され、船を作るときの材料にされた。船は安宅船(あたけぶね)という大型の戦船で、左右に25丁づつ、50丁の櫓(ろ)があり、その櫓には楠の芯の一番堅い部分が使われていた。この船には、50人の櫓を漕ぐ男達と、上のやぐらにはお侍が50人が乗っていた。
あるとき、土佐の室戸での逗留がひどく長引いたことがあった。それで、乗り込みの者はみな陸に上がっていた。
ところで、この船には伊豆出身の十吉(じゅうきち)という漕ぎ手がおり、この時、船の中で一人留守を守っていた。すると、「十吉、十吉・・・」と、どこからともなく声が聞こえてきた。不気味な声は言う。「十吉、伊豆いこう、伊豆いこう・・・」
十吉は翌朝、この事を船長(ふなおさ)に話してみた。船長は、にわかには信じられないようだったが、とにかく今夜は二人で船に残ってみることにした。
その夜、二人が耳をすませていると、やがて潮が船端を打つ音が激しくなってきて、船がきしむ音を立て始めた。そしてやはり、「十吉、伊豆いこう、伊豆いこう・・・」と聞こえてくるのだった。
それからしばらくして、船は品川に向かうことになり、室戸を出発した。ところがその船足の早いこと早いこと。風もさほど強くないし、漕ぎ手たちも特別力を入れているわけでもないのに、たちまちのうちに船は伊豆の宇佐美沖にさしかかった。すると、どうしたことか急に船足は遅くなり、とうとう船は停まってしまった。
上のやぐらでは、この様子を見て、船の大将も訝しく思っていた。そこで船長は大将に進言した。
「実は、あそこにおります伊豆の十吉と申す者が、夜な夜な船の声を聞いております。伊豆の生まれの十吉に、同じく伊豆で生まれたこの船が自分の思いを伝えたのでしょう。なんとかこの船の心を慰めなければ、この伊豆の海から先に進むことができないと思われます。」
そこで大将は十吉に尋ねた。「十吉とやら。その方なにかいい手立てはないか?」
「はい。オラあ、この船に使われている木が、元の宇佐美の神社の境内に戻りたがっているんじゃねえかと。この上はぜひとも木を戻して、木霊をお慰めしないと。」
そして十吉は、楠の芯の部分で作った櫓を一本手に取ると、小舟で宇佐美に渡り、神社の楠の切り株に挿し込んで、深くお参りをした。
そしてそれからは船が「伊豆いこう」と言うことはなくなったものの、不思議なことに、いつも伊豆の海に向かうときには、驚くほど船足が速くなったということだ。
宇佐美の神社の大きな楠の切り株は、十吉が櫓を挿したところからひこばえが生えて、ずんずん大きくなり、今では切られる前の大楠によく似た大木になっている。
(投稿者: やっさん 投稿日時 2011-9-10 9:06 )
ナレーション | 市原悦子 |
出典 | 岸なみ(未来社刊)より |
出典詳細 | 伊豆の民話(日本の民話04),岸なみ,未来社,1957年11月25日,原題「伊豆いこう」,採録地「錦田」 |
場所について | 春日神社 |
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