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No.1132
そできりばけもの
袖切り化け物
高ヒット
放送回:0714-B  放送日:1989年09月02日(平成01年09月02日)
演出:若林忠生  文芸:沖島勲  美術:渡辺由美  作画:若林忠生
神奈川県 ) 21976hit
薄情者には、黄泉の赤坂を越えられない

神奈川の大山へ向かう途中の茶店で、捨吉(すてきち)と権兵衛という男が一休みしていました。ここの茶店の主人が言うには「これから通る黄泉の赤坂では“袖を置いて行け~”と不気味な声が聞こえてくる」という話でした。

気の短い捨吉はそんな噂話を気にするでもなく、権兵衛を置いて先に黄泉の赤坂を登って行きました。山道の途中、今にも死にそうな爺さんに出会いましたが、捨吉は薄情にも見て見ぬふりをしました。その後から権兵衛も山道を登ってきましたが、既にもう爺さんは息絶えていました。

可哀そうに思った権兵衛は、着ていた着物を脱いで死んだ爺さんにかけてあげました。ふんどし一丁で山を登り続けた権兵衛でしたが、どういしたわけか歩きにくかった山道が急にひらけたように歩きやすくなりました。おかげで無事に黄泉の赤坂を超え、峠の茶屋にたどり着くことができました。

先に茶屋にたどり着いていた捨吉は、死んだ爺さんの幽霊から「袖を置いて行け」と追いかけられ、全身傷だらけの大けがを負っていました。黄泉の赤坂は、薄情者は越すことができない、と言われているそうです。この後、捨吉は治療に長い時間とお金がかかり、権兵衛は無事に大山参りを済ませる事ができたそうです。

(紅子 2012-4-12 20:53)


ナレーション市原悦子
出典神奈川県
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追加情報
本の情報二見書房[怪談シリーズ]第2巻_幽霊こわ~い(発刊日:1994年6月25日)
このお話の評価9.5000 9.50 (投票数 6) ⇒投票する
※掲載情報は 2012/4/12 20:53 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
8件表示 (全8件)
ゲスト  投稿日時 2021/9/12 20:46
相模民俗学会編『神奈川の伝説』
➡️「赤坂の袖切り神」

足柄上郡大井町~秦野市へ北上する途上の峠道が赤坂とのことです。
マルコ  投稿日時 2013/8/15 18:34
画像が悪くてハッキリしないのですが、権兵衛が滝で禊をしているシーンの左下に建物の屋根?らしきものがあるんですが、おそらく「二重の瀧」の近くにある「二重社」の屋根ではないかと思うのです。

二重社について
二重社は阿夫利神社の摂社で、高大山・江の島・鎌倉詣で神が奉祀されております。
御祭神は殖産、灌漑、雨乞いの守護神で、霊験のあらたかさは、よく知られている所であります。特に萬物の生命の根源である「水」をつかさどり、俗に龍神にもたとえられて、廣く根強い信仰と崇敬が集められています。
真摯なる祈りを捧ぐとき神威炳乎(しんいへいこ 輝くの意) 諸願は成就すと言われております。
大山阿夫利神社 二重社横の案内板より
マルコ  投稿日時 2013/8/15 18:29
ラストの方で権兵衛が滝に打たれて禊をしている場面があったのですが、禊をしていた場所はひょっとすると大山の『二重の瀧』かもしれません・・・。

大山川の源流をあんし、大自然の巨岩が二段にわかれ、上流の断崖(八ケ)より突如として湧水し水場(ヤツボ)を形成、二段の岸壁に流れ出ずる所より二重の瀧を言われております。神聖にして清浄なる所から浄めの瀧とも呼ばれ、修験者の禊の行場でありました。
又、江戸時代には、新年早々大工、鳶、左官職等の代表者が数日間下社に篭り二重の瀧に打たれ、心身を浄めてその年の賃金を決議したといわれています。
大山阿夫利神社 二重社横の案内板より

って書いてあったので、そう思いました!!
マルコ  投稿日時 2013/8/15 18:19
http://ginjo.fc2web.com/141ooyamamairi/ooyama_mairi.htm
に「落語「大山詣り」の舞台を歩く」と題して大山参りの詳しい情報があります。

捨吉と権兵衛がしょっていた大きな木刀。ありましたよね。
捨吉が『五穀豊穣』権兵衛が『授福除災』の文字の書かれた大きな木刀を持っていたのですが、これって『納太刀』とか『奉納太刀』っていうのだそうです。

かつて大山参りをするにはこれを奉納する習慣があり、当時は木太刀の大きさを競っていたといいます。これは大山石尊の御神体が大石(石剣)であることから、自分の願いを祈るため、昔、武士たちが大事な刀を奉納したのがもとになっているのだそうです。

このように、大山信仰はもと武士階級からはじまりましたが、のち庶民の信仰になるにつれ、刀剣が木太刀に変わったものらしいです。

数百年にわたって奉納された刀剣が一時はおびただしい数にのぼっていましたが、戦時中の物資の供出でなくなってしまったそうです。

この木刀の納太刀にも銘がはいっていて、小さいものは七~八寸(21~24センチくらい)、大きいものはおとなの身長の2倍以上も あり「大願成就」「大山石尊大権現」などと書いて、道中をかついできて、神前に納め、かわりに他人が納めた木太刀を持ち帰りお守りにしたといいます。

このしきたりは浮世絵などにも描かれています。明治時代になり鉄 道が走ってからは、大きな木太刀を車内に持ち込まれ、振り回されては危なくてしょうがない!!ということでそのため車内持ち込み禁止になりいつか納太刀奉納の習慣はなくなっていったということです。
マルコ  投稿日時 2013/8/15 17:56
このお話は
丹沢の大山の茶屋→黄泉の赤坂→峠の山田村→大山
の道を行く途中での出来事みたいです。

ということは、黄泉の赤坂は丹沢の大山から山田村へ向かう道の途中にあるということになります。
丹沢の大山の場所はわかるから、山田村さえわかればいいのですが・・・。
ゲスト  投稿日時 2013/8/15 17:30
http://ooyamakaido.com/modules/xwords/entry.php?entryID=139&categoryID=13
に袖切り化け物のあらすじ載ってましたよ。
マルコ  投稿日時 2013/7/6 18:33
似たような話で山梨県甲州市洲市塩山上於曽に「袖切り坂」伝説がある坂があるそうです。

袖切り坂は昔の街道にあたっており、歩いて旅をする人の中には、この坂で力尽きて命を落とす人もいたそうです。そういう人の魂が成仏できずに坂にとどまって、生きている人に何かしらの悪さをすると信じられていたそうです。そんなものだから、この坂で転んだ人を取り殺すともいわれているそうです・・・。怖い・・・。
つまりは、この坂を通る人に何かしらの悪さをする死霊のことを『袖切り化け物』とも『袖もぎ様』とも呼ぶんだとか。

このお話では、今にも死にそうな爺さんを薄情にも見て見ぬふりした捨吉には大怪我をするという不幸が・・・・。

黄泉の赤坂を登ってくる間に弔うもののいない白骨を見つけると、草をかぶせて念仏を唱え、死んだ爺さんを可哀そうに思い、着ていた着物を脱いでかけてあげた権兵衛には「歩きにくかった山道が急にひらけたように歩きやすくなる」という良いことが起こったんですね・・・。

マルコが思うに、人に何かしらの悪さをする死霊たちが、権兵衛の優しさに感謝して山道を歩きやすく広くしたんだと思います・・・。人ならぬ者たちのなせる業?ということでしょうか?
マルコ  投稿日時 2013/7/6 18:11
黄泉の赤坂を越えたところにある峠下の山田村の茶店という所は(現・都筑区北山田町)中川村に統合した後に横浜市都筑区になったようです。
今のところわかるのはここまで!!あんまり役に立ちそうにないんですが・・・。
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