No.1088
うまくらべ
馬比べ

放送回:0686-A  放送日:1989年02月11日(平成01年02月11日)
演出:小林治  文芸:沖島勲  美術:千葉秀雄  作画:生野裕子
兵庫県 ) 17304hit
あらすじ

昔々、二人の旅人が旅をしていた。

一人の名は大工と彫刻の名人、左甚五郎(ひだりじんごろう)。もう一人の男の名は絵の名人で知られる狩野 法眼(かのうほうげん)と言った。

しかし長旅はしんどい。甚五郎は、近くにあった木で瞬く間に見事な馬を作り上げると、驚いたことに彫り物の馬は見事な馬になり、いなないたかと思うと走り出した。

「どうじゃ~お主にも一匹作ってあげようか」と言われ、しゃくにさわった法眼は、「けっこう」とばかりに、なにやら筆をとりだして紙に馬の絵を書き出した。するとどうだろう。法眼が紙に向ってぷうぷう息を吹きかけると・・・紙の絵の馬が動き出し、ぽーんと絵から本物の馬が飛び出してきた。

こうして、それぞれ馬で旅を続けていると、二人の前に河が立ちふさがった。紙で出来た法眼の馬は水を怖がって河に入らない。仕方が無いので馬を担いで渡ることにした。法眼をよそに、甚五郎の馬はざぶざぶと平気に河を渡っていたが、途中でざぶんと水にもぐったかと思うと、馬はみるみるうちに流されてしまう。これは、木は軽いので水に浮いて流されるためだった。「木で出来た馬は流される運命じゃの~♪」と愉快がる法眼。

なんとか川岸にたどりついた2人。そこへ突風が吹いてきて、法眼は馬と一緒に空高く飛ばされてしまった。「いくら立派な馬でも紙で出来た馬じゃのう~」と甚五郎。

宿に着いた甚五郎。すると風に飛ばされた法眼と馬が、宿の前の木に引っかかってぶら下がっていた。法眼は木から下り、馬に息を吹きかけると、馬はまた紙の絵に戻ってしまった。

その夜のこと。甚五郎は馬を宿の前の木につないでいたが、その馬が突然の雷に打たれてしまった。雷に打たれた馬は焼けてしまい、可哀想に足一本残すだけとなり、甚五郎は悲しんだ。

さて、翌朝、先に宿を出た甚五郎に気がついた法眼は、紙から馬を出して甚五郎の後を追おうとするも、そこでハッとした。昨夜の雨漏りで、紙が濡れてしまい、絵の馬はにじんでいる。これでは馬が出て来るはずがない。法眼は猛然と甚五郎を走って追いかけていった。

それからまた2人は仲良く歩いて旅を続けたと言う。

(投稿者:マルコ 投稿日時 2014/3/5 13:30)


ナレーション常田富士男
出典兵庫県
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※掲載情報は 2014/3/5 18:11 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
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頭方  投稿日時 2018/11/30 9:56
下唇おじさん、有名画家狩野法眼として登場。市原悦子が声を担当した二作目。
マルコ  投稿日時 2014/3/5 13:53
狩野法眼にまつわるこんな昔ばなしもあるそうです。

http://ameblo.jp/fflapper/entry-10830206657.html

より。

夜、稲穂をはむ怪物。 ~ 絵師 狩野法眼元信 ― 神波多神社 山辺郡山添村 民話 「波多野村史」

むかし、ある夏のことでした。諸国行脚するみすぼらしい旅絵師が村におとずれました。一夜の宿をもとめ、神波多神社の神宮寺に宿泊を許されたのでした。

10日ほど逗留したときです。絵師はお礼に絵を奉納しようと考えました。さて、何を描こうと境内をあるきまわったり、考え込んだりします。やがて、人々が寝静まった丑三つの頃。神殿の裏でじっと考え込んでいる絵師に月の光が差し込みます。輝く白壁に、力をこめて筆をはしらせました。そしてたくましい一頭の牛を描きあげたのでした。

翌日、絵師はふらっと寺を後にしました。

季節は秋になり、黄金色の稲穂が村一面にひろがります。刈り取りが無事済み、稲架にかけられました。ところが、一晩たった朝、無残にも稲穂が食い荒らされているではありませんか。それが翌日も、翌々日にもつづきました。これはたまったものではない。村人たちは動物の捕まえようと、夜、番をすることにしました。
田を巡回し、あやしいものの姿がないかあたりを見回します。すると、もしゃ、もしゃと穂を食む音が聞こえてきました。月が雲にかくれた暗闇で、なにやら大きな影が穂架のそばに見えます。すっかり肝をひやした村人は、気をとりなおし、「こ、こら!稲をあらす奴は、だれだぁ!」と、声をあげて、影にむかってはやしたてました。影は、のっそりと動き出し、やがて駆け出しました。「ま、待てぇぇ!」村人たちは懸命に、影を追いかけます。追っていくと、神社の境内へと逃げ込みました。神殿の裏で影はジッと立ち止ります。村人は松明をともし、影にかざします。影の正体は、大きな立派な牛でありませんか。月が雲からのぞきます。牛は、月の光を浴びながら、すぅっと・・・白壁へと吸い込まれていきました。すっかり仰天した村人。

なんということでしょう。夜な夜な稲穂を食い荒らしていたのは、あの絵師が描いた牛だったのです。翌朝、村人たちは、絵師を探しました。伊賀上野城下にいると聞きつけ、連れてきました。絵師は、ことの顛末を聞くと、牛の絵に松の木を描き足しました。牛に綱をつけ、その松に結わえたのでした。それからというものの牛が、夜な夜な悪さをすることはなくなったとのことでした。

牛を描いた絵師は、有名な「狩野法眼元信(かのうほうげんもとのぶ)」と伝えられています。
マルコ  投稿日時 2014/3/5 13:47
狩野 芳崖を狩野法眼にしてください。似ていたので間違えました。

狩野元信出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

狩野 元信(かのう もとのぶ)
文明8年8月9日(1476年8月28日)? - 永禄2年10月6日(1559年11月5日)は、室町時代の絵師。狩野派の祖・狩野正信の子(長男または次男とされる)で、狩野派2代目。京都出身。幼名は四郎二郎、大炊助、越前守、さらに法眼に叙せられ、後世「古法眼」(こほうげん)と通称された。弟は雅楽助。

父・正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理(後述)しつつ大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる[2])、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。

絵師 狩野法眼元信。これが、このお話に登場する有名な絵師さんだと思います。狩野芳崖だと、同じ狩野家でも、時代が後の人物になってしまいます。

狩野芳崖出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

狩野芳崖(かのう ほうがい)
文政11年1月13日(1828年2月27日) - 明治21年(1888年)11月5日)は、幕末から明治期の日本画家で近代日本画の父。幼名は幸太郎。名は延信(ながのぶ)、雅道(ただみち)。号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦[1]と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。

マルコビッチ  投稿日時 2011/10/18 20:51
そうなんだ・・・。
マニアック  投稿日時 2011/10/18 20:45
詳しいあらすじは、覚えていないが、常連キャラ下唇のおじさんの声、いつもは常田さんが担当していたが、めずらしく市原さんが、担当していた。
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