No.0958
おいせものがたり
お伊勢物語
高ヒット
放送回:0603-B  放送日:1987年06月13日(昭和62年06月13日)
演出:大橋六郎  文芸:沖島勲  美術:なべしまよしつぐ  作画:なべしまよしつぐ
島根県 ) 24876hit
あらすじ

お伊勢の家はとても貧乏で、両親と幼い弟妹達と暮らしている。

そんなお伊勢に縁談が来た。嫁ぎ先は沖にあるとある離島で、その島へは船が無いといくことができないが、お伊勢のすんでいるところとは定期的な船の交通などなく、一度島へ渡ってしまえば簡単に帰ることはできなかった。

まだ幼さの残るお伊勢は家族とはなれるのは嫌だったが、お伊勢一人分の食い扶持が減ればそれだけ家族が助かると言われ、島へ嫁ぐことにする。島に嫁いだお伊勢はよく働きいい嫁になったが、いつも家族を恋しく思っていた。

ある晴れた日のこと、お伊勢はとうとう我慢ができなくなり、海へ入ると住んでいた村を目指して泳ぎだした。

だいぶ沖まできたことだった。さっきまでは晴れていたのに急に天候が悪くなり、海が荒れだした。波が高くり、お伊勢はもうすぐ浜に着くというところで、波に飲まれ力尽きてしまった。

(引用/まんが日本昔ばなし大辞典)


参考URL(1)
http://masuda.blog.jp/archives/1019950627.html
ナレーション常田富士男
出典出雲・石見の伝説(角川書店刊)より
出典詳細出雲・石見の伝説(日本の伝説48),萩坂昇,角川書店,1980年7年20日,原題「お伊勢物語」犬島・猫島とお伊勢物語
場所について島根県益田市の沖合いにある高島
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • このページを印刷
地図:島根県益田市の沖合いにある高島
追加情報
このお話の評価9.5000 9.50 (投票数 8) ⇒投票する
※掲載情報は 2011/2/11 22:30 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
お話の移動 ( 22  件):   <前  1 ..  12  13  14  15  16  17  18  .. 22  次>  
コメント一覧
4件表示 (全4件)
まゆぽん  投稿日時 2020/8/25 10:01
こんにちは。
小さい頃(といっても放送日を見ると自分は小学校の高学年ですね)にこの話を見た時、

多分、自分と同じくらいの年頃で親と離されて…でもなかなか帰れなくて「おっかあ、おっとう…」と思いながら寂しがっているのを見てすごく切ない感じで…

ついに泳いで帰る決心をしたけど、波が強くて大変な中を頑張って泳いでいたけど、故郷の島が見えてきたところでそのまま沈んでいった、と思うのですが、そこで彼女の人生が終わっていったのがすごく可哀想で…、

今の時代に生まれた自分の幸せをしみじみ思ったお話でした。

絵もセピア色の紙芝居風の絵だったと思うのですが、それで余計に可哀想な感じでした。
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 19:12
大日霊神社:益田市鎌手
益田市鎌手の亀島に鎮座。鎌手はパノラマの様で美しい入り江です。
http://woodenplane.air-nifty.com/photos/iwami/ohohirumeshrine01.html

益田市鎌手の大浜海岸。特急スーパーおきより。亀島と大日霊神社が見えます。
島根県西部の車窓の風景で一番かもしれないですね。
http://woodenplane.air-nifty.com/log/2015/02/post-2b23.html

大日霊神社
http://blog.goo.ne.jp/jinjya-888/e/218b27fa6d102b2c01aea012a8571c06


伊勢島の名前は、亀島 大日霊神社との関係から漁業関係者の信仰の一環として付けられたと思われます。その後、幼な妻 お伊勢 の物語が出来たのではないでしょうか。なお、伊勢島と大日霊神社は、近い距離にあります。
ゲスト  投稿日時 2015/12/28 17:49
高島(たかしま)は、島根県益田市北部の沖(同市大浜漁港より)約12kmに浮かぶ島である。別名・七戸島。島根県益田市に属する。
最盛期の1960年(昭和35年)には125人の島民が暮らし、島内に益田市立鎌手小学校・益田市立鎌手中学校の分校があった。しかし、過疎化の進行に加え、1972年(昭和47年)の集中豪雨災害などで大きな被害を受けたため、1975年(昭和50年)3月に全住民が対岸の益田市土田町に集団移住して無人島となった。
現在は磯釣りスポットとなっている。

輝石安山岩などの墳出岩からなり、海岸線は日本海による海食を受けて断崖となっている。東に標高約117.4m、西に80mの2つの山があり、平地はほとんど存在しない。河川も存在しない。
島全体が暖流である対馬海流に囲まれているため比較的温暖で、霜や雪は少ない。年平均気温は16℃前後と島根県内で最高である。
本居宣長は『玉勝間』にネズミの多い島と記しており、ハタネズミ・アカネズミが生息する。また、周囲の断崖にはカヤツリグサ科のヒゲスゲが生い茂り、オオミズナギドリの生息地となっている。
現在は無人島であるが、最盛期の1960年(昭和35年)には125人の島民が暮らし、海藻類・貝類・ウニ類の採取や船を出してのイカ・イサキ漁のほか、南東斜面のわずかな平地を集落や段々畑に利用してムギ・豆・サツマイモや野菜を栽培して生活していた。島民の一部には遠洋漁業の乗組員として生計を立てる者もいたものの、名産の「高島海苔」と髪油用のツバキの実が数少ない現金収入源であった。

歴史
高島に人が住み始めた時期については詳らかではない。応永年間に、高島を根拠地とする海賊が現れたため、石見を支配していた益田兼理が兵を送って平定したという。その後、高島に常住する者が現れた。移住者については出羽(現邑南町)の武士の亡命説、馬木城(現奥出雲町)の武士の漂流説、茶臼山城(現浜田市)の水軍の逃亡説など諸説あり、遅くとも15世紀後半には定住者がいたと言われている。
江戸時代には浜田藩の領地となった。正徳元年(1711年)秋、ネズミが大量発生して耕作物や草木の根を食い荒らした。不漁も重なり、島民は浜田藩に生活困窮を訴えたが解決されず、翌年に全員が対岸の本土へ逃散した(高島島民離島事件)。藩は帰島するよう様々な手を尽くして説得したが、最終的に島長を含む4戸18人が帰島したにとどまった。残りの6戸29人はそのまま本土に土着したという。
もともと「七戸島」の別称が示すように、戸数が増えすぎることを避けてきた

乙子狭姫伝説
大宜都比売命の末子、乙子狭姫(おとごさひめ, おとこさひめ)が、朝鮮半島から赤雁の背に乗って日本にやってきて最初に降り立った島が「鷹の住む島」、今日の高島であったという伝説がある。母から託された作物の種子を持ちやってきたが、大山祇神の遣いである鷹に、肉食であるため不要であると追い払われた。このため、高島では作物があまり収穫できないのだという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C)
mitsuzakura  投稿日時 2011/11/2 1:13
島根県益田市のお話です。益田市沖の日本海に浮ぶ高島が舞台となります。

石見舟歌
 ハア どんと どんと と エー
 波 高島で ヨーソレホイ
 おイセよぶ声 なつかしや ヨートコホイ
 トノエ ナニオエー ソレソレ

高島灯台について/浜田海上保安部沿岸域情報提供システム
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/hamada/03_service_page/service_107.htm

ここで原話が読めますが、島での暮らしに飽きたお伊勢が対岸までの距離はおおよそ島を三周するくらいだと知り、泳いで確かめます。そこで対岸に渡ろうと沖に出るのですが、島の周りと沖合では潮の流れが異なり、途中で岩礁に辿り着きますが、そこで力尽き波に呑まれてしまうという内容です。

原話はお伊勢の浅はかさを描いていますが、アニメでは島を三周するくだり(核心部分)がカットされて純粋に故郷へ帰りたいと願うお伊勢像で、悲劇性が強調された内容となっています。

高島はJR山陰本線・石見津田駅の北、約12km沖合にある無人島です。
緯度: 34.832546 経度: 131.835852
投稿ツリー
4件表示 (全4件)
現地関連情報
出典本調査 facebook
Twitter

オンライン状況

14 人のユーザが現在オンラインです。 (10 人のユーザが お話データベース を参照しています。)

新着コメント(コメント24件)