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No.0485
みそすりとぶし
味噌すりと武士
高ヒット
放送回:0304-B  放送日:1981年08月29日(昭和56年08月29日)
演出:堀口忠彦  文芸:沖島勲  美術:あかばんてん  作画:堀口忠彦
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庄屋さんの知恵のおかげで、追分の町が戦火から逃れる。

ある夏の日、天誅組(てんちゅうぐみ)が、ここ追分(おいわけ)の町を通るという通報が入った。

なんでも勤皇方(きんのうがた)の天誅組は、大和に入るためこの追分の町を通るらしく、これを阻止するために幕府方の郡山藩(こおりやまはん)の武士たちが、町のいたる所に配置されていた。天誅組の壮士(そうし)たちの強さは追分の町にも聞こえていた。郡山藩の武士たちも気が立っていたが、お百姓さんたちも、家を焼かれたらどうしよう、ひどい戦にならなければよいが・・・などと気が気でならなかった。

そんな時、庄屋さんが人々を集めて、郡山藩のお侍さんのために味噌汁を作ってあげようと言い出した。お百姓さんの中には、「どうして戦をするお侍に、味噌汁を飲ませねばならないのだ?」と反対する者も多かったが、庄屋さんは人々に頭を下げ、どうにかみんなを説得した。こうして、庄屋さんのたっての願いということで人々も聞かない訳にはいかず、皆で味噌すりをすることになった。

ところが、あまりに朝早くからゴリゴリと味噌をすっては寝ているお侍さんを起こしてしまうので、明け六つの鐘を合図に味噌をするようにと、庄屋さんは皆に念を押した。

こうして追分の町では、どこの家でも味噌すりの準備をして、明け六つの鐘を待った。やがて東の空が明るみ、「ゴーン、ゴーン」と霊山寺(りょうせんじ)のお坊さんが明け六つの鐘をつき始めた。そして鐘をつき終わったのを合図に、皆で一斉に味噌すりを始めたのだ。

追分の家という家で、ゴリゴリ、ゴリゴリとすり鉢で味噌をすったので、その音は地響きのような音を立てた。これにびっくりしたのは郡山藩のお侍たち。「な、なんじゃ、これは? 天誅組じゃ!! 天誅組がきたぞー!!」お侍さんたちは震え上がり、クモの子を散らすように逃げていってしまった。

これを見て庄屋さんは、外に出て皆に呼びかけた。「これ皆の衆、出てきなされ。もう戦はありませんぞ。」こうして、庄屋さんの知恵のおかげで追分の町で戦はなかったそうな。

 

(投稿者: やっさん 投稿日時 1-7-2012 11:22)


ナレーション市原悦子
出典奈良県
DVD情報DVD-BOX第5集(DVD第24巻)
場所について奈良市大和田町の追分(地図は適当)
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地図:奈良市大和田町の追分(地図は適当)
追加情報
講談社の300より書籍によると「奈良県のお話」
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※掲載情報は 2012/1/7 11:22 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
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ゲスト  投稿日時 2022/2/12 19:13
味噌スリだけでこんな音が出るっていっぱい人がいたんだろなぁ
ゲスト  投稿日時 2016/1/19 19:10
この時の大和郡山藩主は柳沢保申(やなぎさわ やすのぶ)でした。
のちにこの天誅組の鎮圧で功を上げたということですが、このお話は天誅組が狭山藩を攻撃した後かもしれません。狭山攻撃後、高取城攻撃で200名の高取藩兵により天誅組は翻弄の上大敗北、その後は天誅組の創部が貧弱と判明し幕府軍がかなり優勢に進めたそうです。
ちなみに柳沢保申は第一次東禅寺事件の対応でヴィクトリア女王から称賛されました。
nanashi  投稿日時 2016/1/6 20:06
昔ばなし全1474話中、いちばん時代が新しい(江戸末期・明治維新寸前)のはこのお話でしょうかね?
じゅりあちゃん  投稿日時 2014/7/9 21:37
 武器ではなく、智恵の勝利と云ったところでしょうか。                  源平合戦の折に富士川の戦いと云うのがあり、水鳥の羽音に平家が驚いて敗走したという故事がありますが、郡山藩もなんでもない物音に恐怖を感じたのでしょう。
マルコ  投稿日時 2013/8/1 23:05
天誅組とはなんぞや? ウィキペディア引用
天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した(天誅組の変)。天忠組とも。

文久3年(1863年)8月13日、孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えて京を出発した。これに従軍した半田門吉の『大和日記』によると結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であった。このほか淡路島の勤皇家で大地主であった古東領左衛門は先祖代々の全財産を処分し、天誅組の軍資金として供出した。彼らがいつの時点で天誅組を称したかは詳らかではない。

8月17日、幕府天領の大和国五条代官所を襲撃。代官鈴木源内の首を刎ね、代官所に火を放って挙兵した。桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨を宣言し、「御政府」あるいは「総裁所」を称した。五条御政府と呼ばれる。

挙兵の直後の8月18日、八月十八日の政変が起こり、大和行幸は中止となり京の攘夷派は失脚してしまう。挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となった。天誅組は天の辻の要害に本陣を移し、御政府の名で武器兵糧を徴発し、吉村寅太郎は五条の医師乾十郎とともに十津川郷(奈良県吉野郡十津川村)に入り、反乱に加入を説得。その結果、野崎主計ら十津川郷士960人を募兵して兵力は膨れ上がったが、烏合の衆に過ぎずその武装は貧弱なものだった。十津川の人々も半ば脅迫されて急きょかき集められた。しかも休息も食事もなく戦闘に参加せられるなど、戦意に乏しかった。

あまりの酷さに玉堀為之進ら十津川郷士は指揮官に抗議したが、中山らに憎まれ天辻峠で斬首されている。

天誅組は高取城を攻撃するが、少数の高取藩兵の銃砲撃を受けて混乱して敗走。この時点で三河刈谷藩から参加していた伊藤三弥のように早々に脱走するものもあった(後に伊藤は松本奎堂の密書を岩倉具視に届けたと弁明しているが、岩倉具視と松本奎堂の関係を考えればあり得ないことである。伊藤三弥と同郷の碩学森銑三は「脱走した三弥の言い訳に過ぎない」と断じている)。この伊藤三弥の脱走は天誅組の脆弱さを示す例としてしばしば引用される。

幕府は諸藩に命じて大軍を動員をして天誅組討伐を開始する。天誅組は激しく抵抗するが、主将の中山忠光の指揮能力が乏しいこともあり敗退を繰り返し、しだいに追い詰められる。朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が京都在住の十津川郷士前田雅楽に下され、急遽現地に赴いた前田は十津川郷士を説得。ここに主力の十津川勢が9月15日に離反。郷士代表の野崎は責を負い自害する。9月19日、忠光は天誅組の解散を命じる。残党は伊勢方面へ脱出を図るが、鷲家口(奈良県東吉野村)で幕府軍に捕捉され壊滅した。

志士たちの霊は京都霊山護国神社に祀られている。


槍隊、鉄砲隊が編成された。総勢は1000人余。脱藩浪士が指揮し、兵士の主体は十津川郷士であった。浪士は土佐藩、久留米藩出身者が中心だった。身分は郷士や庄屋、神官、僧侶。年齢は13歳から46歳までいて、20歳代の若者が多い。主将の中山忠光は19歳だった。

装備は狭山藩などから徴発したゲベール銃(蘭:Geweer、小銃)、槍、刀などで極めて貧弱だったと思われる。松の木で木製の大砲を十数門製作するが発火せず全く役に立たなかった。
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