赤子坂 についてのコメント&レビュー投稿
昔、昔、幾昔も前の事、甲州と信州とで戦をしておった。 清春のあたりは信州に近いから、いつも攻めたり攻められたりと大変じゃった。そのうち、信州の大河原という所のお殿様が...…全文を見る

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投稿者:のりくん 投稿日時 2012/10/17 10:37
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長野県と山梨県の境目あたりに『新国界橋』があり、近くにレストラン『国界』もありますのでおそらく『オオガワラ』の残党が通ったのはこの辺なのだろうということは想像できますが、
信州の『オオガワラ』というのがよくわからないのですね。
ネットでちょっと検索してみると『大河原』関連のお城は下伊那の大鹿村(映画『大鹿村騒動記』の舞台になった村です)にあるそうで、近くの福徳寺付近はのりくんも休日などに通過する(近くに『アルプカーゼ』という有名なチーズ牧場があるのでそこにチーズを買いに行きます)から場所は分かるのですが、

この地域は地理的に昔から愛知県など中京文化圏と戦争したり交易していた場所なので、仮に物語の時代背景が戦国だとしても
残党が逃亡するならば名古屋方面に行くと思いますし、そもそも大河原城の香坂一族は南北朝対立時代のお殿様であって戦国時代とは関係ないはずです。

長野県は北信地域、東信地域、中信地域、南信地域に大別できますが、北信は新潟県とのつながりが強く、東信は群馬県、南信は愛知県、そして中信が山梨県とつながりが強いのでおそらくは中信に『オオガワラ』関連の豪族がいたんじゃないかと思えるのですが、よくわかりませんでした。
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投稿者:KK 投稿日時 2012/10/17 19:37
大河原は、長野県下伊那郡大鹿村大河原の事だと思います。赤子坂は、今の山梨県北杜市長坂町中丸赤子坂、上の地図の姥が懐の下にあります。そのころは、甲斐の武田晴信と信濃の村上義清が争っていた頃の話です。地元では、信州大河原の豪族は香坂家ではなく真田家と伝わっているそうです。
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投稿者:のりくん 投稿日時 2012/10/17 21:59
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ああ、確かに戦国時代ならば村上義清と武田の戦争で間違いないでしょうね。
ただ村上義清は当時北信と東信をおさめていたので南信はほとんど関係ないはずです。
村上義清関連で『オオガワラ』というと大河原城ではなくて佐久(東信)にある
『大河原峠』の界隈を指していたのかもしれません。

村上義清の部下に『保科』という一族がいます(徳川時代に活躍した保科正之のご先祖様)が、彼らの家紋を調べてみたら『梶の葉』でした。
『赤子坂』の終盤、赤子の服に梶の葉の家紋があって悲劇の決め手になってしまうシーンがありましたから、おそらくはオオガワラのお殿様というのは東信は佐久地域大河原峠の豪族保科一族(もっとも保科一族はどちらかというと高遠で有名ですが)か望月一族なのではないでしょうか?
梶の葉の紋自体は保科一族のみならず
諏訪一族や諏訪神社の紋にもなっていたはずです。
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投稿者:のりくん 投稿日時 2013/1/5 9:58
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佐久市に問いあわせてみました。

質問内容:まんが日本昔ばなしで『赤子坂』というお話があります。

おそらくは武田信玄と村上義清の戦争が舞台になっていると思いますが、
敗れた信州側の『オオガワラ』お殿様というのが誰のことか分からなかったのですが、
佐久市界隈でオオガワラと言いますと大河原峠のことかと思いますが、
この一帯を治めていた村上義清の部下の武将はいたのでしょうか?

回答:お問い合わせいただきました件について

 お世話様です。
 お問い合わせいただきました件について、昨年末と同じく
文化財課に問い合わせましたところ、下記のとおりです。

?「オオガワラのお殿様」に関する伝承は、佐久市には残っていません。
?「オオガワラ」というのは依田窪地域(長和町・武石村付近)を
指すのではないでしょうか。
?武田信玄の戦にまつわる伝承については、上小地域(上田・小県郡地域)
の方が多いので、そちらの上田市・東御市などに問い合わせた方が分かること
が多そうです。
?佐久市近辺にいた村上義清方の武将というと、「芦田氏」がいたが、これも
現在の立科町が拠点なので、佐久市界隈を治めていたとは言い難いです。

とのことです。よろしくお願いします。

 佐久市役所庶務課 XX
 〒385?8501
 佐久市中込3056番地
 電話 0267-62-2111(内線399)
 FAX  0267-63-1680
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/4/3 2:45
花を置いたばっかりに…
乳母も無念だったでしょうね
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/4/26 9:52
母乳が出るということは乳母にも子供がいる筈だし
夫もいる筈だ。
ならば若様にみずぼらしい服装をさせ、高貴な身分を証明させる物は
すべて処分し、乳母の家族と共に他の場所へ脱出する道もあったはずなのに。
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2016/5/12 15:19
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どんこは、悪戯っ子と認定します。
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投稿者:Perenna 投稿日時 2019/4/12 22:45
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長野県下伊那郡大鹿村大河原に伝わる昔話をインターネットで調べてみました。
大正6年に出版された「日本伝説叢書・信濃の巻」には、「釜澤の詩」というものがあります。(コマ番号259/272)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953569

南北朝時代に大河原城を拠点として東国経営を押し進めようとしていた、宗良親王・尹良親王父子のことが書かれています。
また、信州大河原の豪族の香坂氏で有名な人物といえば、この親王父子を庇護して南朝方に忠勤を尽くして足利方と戦った香坂高宗という武士がいます。
大正5年に出版された「贈位功臣言行録」という本の香坂高宗の人物伝には、次のようなことが書かれていました。(コマ番号70/264)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955104/70

「応永三十一年、尹良親王は南朝のために義兵をあげしが、事遂に成らず、其子良王を二心なき武士に託し、信濃大河内にて自殺したまひぬるよし、信濃宮伝に見ゆ。」

尹良親王の嫡子の良王が、この昔話のモデルになっているのではないでしょうか?
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