真南嶽山 218メートル
▼国土地理院25000地図 羽黒、加波山、岩間、笠間(地図に山名なし。唐桶山の南、218標高点)
▼最寄駅 JR水戸線・宍戸駅
▼登山口 茨城県笠間市上加賀田の大日堂
▼石仏 大日堂の左手奥
国土地理院の地図に真南嶽山という山名はなく、地元で呼んでいるは真南嶽(まなだけ)を山名とした。かつては大日山とも呼ばれた小さな里山である。そのふところに大日堂があり、境内右手の沢に入るところに姥神が坐す。乳房を出した老婆の姿が多い姥神であるが、この姥神は豊満で若さがみなぎっている。この石仏、笠間市の資料では奪衣婆としている。奪衣婆はあの世の入口である三途の川で、渡ってくる亡者の衣服をはぎ取る痩せこけた老女。それに比べ、はるかに若々しいこの石仏は姥神に違いない。このブログでたびたび案内してきた出羽三山から勧請された姥神である。これが出羽三山から勧請したという確かな根拠はないものの、北関東から東北南部の山にある姥神はすべて出羽三山、とくに湯殿山に関係があること。また、この御堂が出羽三山の湯殿山系と同じ真言宗であり、大日山と呼ばれたこと。天明年間に小身坊という行者が再開山したことなど、江戸時代初期にこの茨城県南部に遊行し、大日山を各地に開いた湯殿山系真言宗修験者の影響が見られることなどから、姥神と判断した。大日山については、徳原聰行編著『常総・寛永期の大日石仏』(平成15年、筑波書林)で、この真南嶽山に伝わる「こしん坊」の民話を紹介している。そこには、こしん坊が「真南嶽山と唐桶山の中間にある大日山にこもった」とあり、ここに言う大日山はいま残る大日堂なのだろう。同書は、湯殿山とその本地仏である大日如来に関係する地名と石造物が茨城県南部にたくさんあることを紹介し、その背景をさぐった本である。真南嶽山へは、大日堂手前で林道が二分する場所から尾根に通じる踏み跡を辿る。山頂は雑木林で石仏も展望も何もない。
大日堂に立つ案内に、この御堂を再開山したのは「天明年間(1781~88)」小身坊という行者による、とありました。ところが境内にある石燈籠には「宝永四年(1707)」の銘がありました。それも胎蔵界大日如来の種字アークが入ったものです。小身坊という行者の大日堂再開山がどういうものであったのかはわかりませんが、石燈籠の年号からして、大日堂の信仰は小身坊が入る前からあって続いていたと考えられます。ちなみにもう一つの石燈籠には「安永六年(1777)」の銘がありました。
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