くしがき仙人 についてのコメント&レビュー投稿
昔、飛騨は高山の八軒町(はっけんちょう)に源蔵(げんぞう)という男が住んでいた。源蔵は大工であったが、最近、女房を亡くしてからというもの、ひどく落ち込み仕事も手につかな...…全文を見る

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投稿者:のりくん 投稿日時 2013/1/4 22:14
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高山市に質問してみました。

質問内容:まんが日本昔ばなしで岐阜県高山市を舞台にした『くしがき仙人』というお話があります。
ここに登場した大工のゲンさんが実際に住んでいた家や、ゲンさんの相談にのってくれた近所のお寺とか、今も残っていますか?

回答:飛騨高山まちの博物館 XXと申します。
この度はお問い合わせ、ありがとうございます。

 串柿仙人の伝説の主人公は、高山市八軒町に住む大工の打保屋源蔵とするものと、高山市川原町に住む作助とするものがあります。いずれにしても、住んでいた家は現在は不明です。
 また、彼が相談したのは、高山市内の素玄寺(高山市天性寺町)と伝わっています。こちらは現在もあるお寺です。
 なお、源蔵はその後に剃髪して「喚応是誰(かんのうぜすい)」と名乗り、全国行脚の末に市内の万人講というところに小庵を構え、旅人に湯茶の接待をする日々を送ります。墓は現在も万人講にありますので、ぜひお立ち寄りください。また、当博物館では喚応是誰木像と、接待所の看板、そこで使用した釜を展示しています(現在は展示ケースメンテナンス中で展示しておりませんが、近日中に展示を復活します)。こちらにもぜひお越しください。

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〒506-0844
高山市上一之町75番地
飛騨高山まちの博物館 担当:XX
TEL 0577-32-1205(直通) 
FAX 0577-35-1970
e-mail machihaku@city.takayama.lg.jp
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/7/1 12:52
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高隆山 素玄寺
第四番霊場の本尊・馬頭観世音菩薩は8センチあまりの小さな木彫仏です。「松倉山縁起」によると、比叡山の慈覚大師が中国からの帰朝の途中で嵐に遭遇され、大師が
一心に観世音菩薩を祈念されると、不思議にも馬のいななく声と共に雨風がやみ、無事帰国することができた。そのお礼に自ら彫られた尊像がこの馬頭観世音菩薩だと記されています。またこれを後に佐々木高綱が乞請け、さらに伝わって松倉城主三木自綱が兜に納めていた守り仏であったと言い伝えられています。
 当初は高山市郊外松倉山の岩屋にある観音堂に祀られていましたが、江戸時代の後期に素玄寺観音堂に安置されました。毎年8月9・10日に松倉観音堂へ遷され縁日法要が夜通しで営まれ、絵馬市も開かれます。

高山市天性寺町39 tel.0577-32-2519 JR高山駅タクシー5分 
宗派:曹洞宗 三十三観音第4番:馬頭観世音菩薩(松倉観音) 本尊:釈迦如来 円空仏:不動明王
http://hidakannon.jp/temple_guide/no4_sgn.html
http://www.zensorin.net/fp/sogenji.html
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/7/1 13:02
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「(5)喚応是誰庵主墓(かんのうぜすい)
是誰は高山の大工で打保屋源蔵というた。文化十二年(1815)剃髪(五十二歳)喚応是誰と号した。諸国を行脚し、東は箱館迄へも行ったと「紙魚のやとり」に見える。
同十五年二月高山に帰えり、松倉山に簡居し文政三年馬頭観音堂を修理し、峠よりの
新道を設けた。同十一年二月発起し、桐生万人講に茶接待所を取立て(経費は日下部
家負担)自らは其処に居て行旅の人に法話し善導に力めたという。天保五年十一月二十日死去(1834)」
喚応是誰と言う人は、串柿仙人とも呼ばれていますから、そちらの名前の方が有名かもしれません。
「もとは、八軒町に住んだ大工で、俗名を打保屋源蔵。妻の死を機に剃髪し一人娘も尼にして了心尼と名付け、自分は文化12年(1815)6月諸国行脚に出発。九州から函館まで巡って文化15年2月7日帰郷。
素玄寺の吾秀和尚の世話で寺内に庵を与えられ、松倉観音堂の修理、参道の改修に
奉仕。文政11年(1828)4月に日下部九兵衛の援助を受けて、越中街道の万人講に茶
接待所を開き、旅人に湯茶の接待をしながら処刑罪人の供養を続ける。
松倉観音堂の「不動明王」「出山釈迦」を彫刻。
飛騨の民話「串柿仙人」は是誰の話。享年71・天保5年(1834)11月20日没。」
(『飛騨人物事典』)


2011-07-31(Sun) 20:00 万人講の石碑5_喚応是誰庵主墓 (角竹先生の記述より抜粋したものです。) 徳積善太
http://hidasaihakken.hida-ch.com/e353977.html
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/7/1 13:14
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喚応是誰庵主墓という石碑について、お話します。
この喚応是誰と言う人はそもそも高山の大工で、本名を打保屋源蔵といいました。
文化十二年(1815)に五十二歳のときに剃髪し喚応是誰と号した人です。この人は、諸国を行脚し、東は箱館迄へも行ったと「紙魚のやとり」に書いてあります。
のちに文化十五年(1818)二月に高山に帰り、松倉山にこもり、文政三年(1820)に絵馬市で有名な馬頭観音堂を修理し、峠よりの新道を建設しました。
後の文政十一年(1828)二月に一念発起し、桐生万人講に茶接待所を日下部家負担で設けて、自らは其処に居住して旅行く人に法話を行い、その善導につとめたといわれます。
その方も、天保五年(1834)十一月二十日にお亡くなりになり、その方のお墓をこの万人講に作られたと云う事です。

2011-08-19(Fri) 20:00 万人講の話パート2
http://hidasaihakken.hida-ch.com/e355928.html
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投稿者:ゲスト 投稿日時 2015/7/1 13:21
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シロネコがかわいい
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投稿者:吉兵衛どん 投稿日時 2021/10/30 14:42
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まさに、石の上にも三年
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