喚応是誰庵主墓という石碑について、お話します。
この喚応是誰と言う人はそもそも高山の大工で、本名を打保屋源蔵といいました。
文化十二年(1815)に五十二歳のときに剃髪し喚応是誰と号した人です。この人は、諸国を行脚し、東は箱館迄へも行ったと「紙魚のやとり」に書いてあります。
のちに文化十五年(1818)二月に高山に帰り、松倉山にこもり、文政三年(1820)に絵馬市で有名な馬頭観音堂を修理し、峠よりの新道を建設しました。
後の文政十一年(1828)二月に一念発起し、桐生万人講に茶接待所を日下部家負担で設けて、自らは其処に居住して旅行く人に法話を行い、その善導につとめたといわれます。
その方も、天保五年(1834)十一月二十日にお亡くなりになり、その方のお墓をこの万人講に作られたと云う事です。
2011-08-19(Fri) 20:00 万人講の話パート2
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