愛発関(あらちのせき)とは、近江国と越前国の国境に置かれた関所。東海道の鈴鹿関と東山道の不破関とともに三関の1つであった。
詳細な位置は確定していないが、福井県敦賀市南部の山間部の北陸道沿いなどにあったと考えられている。候補としては、
1.近江国からの山中越と深坂越が一つになった後に設置されたとの推定から敦賀市疋田にあった。
2.敦賀平野への出入口である敦賀市道口にあった。
の2つが挙げられる。文書の記録や発掘調査、および近年の研究により現在では敦賀市疋田が有力とされる。
歴史
天智天皇の頃に近江宮を東国から防衛するために設けられたとされ、郡衙や軍団と同等以上の規模だったと考えられる。天平宝字8年(764年)に藤原仲麻呂が反乱を起こした際には、息子のいる越前国への逃走を防ぐために関が閉じられた。その後、延暦8年(789年)に廃され、弘仁元年(810年)の薬子の変では愛発関を閉じた記録はなく、代わって近江国の相坂関に連絡が行っており、この頃には完全に廃止されていたとされる。
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