禅師河童に登場する寿円禅師の御遺灰が・・・・。

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昔、日照りが続いて、秋芳洞(しゅうほうどう)のあたりが大干ばつに見舞われたことがありました。まったく雨が降らないので、田んぼも畑も川までも干上がってしまい、土地の人は困...…全文を見る

禅師河童に登場する寿円禅師の御遺灰が・・・・。

投稿者:マルコ 投稿日時 2012/5/13 21:26
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この話をもっと知りたくなったマルコは色々と調べていたら驚いたことがありました!!
秋吉台・秋芳洞(あきよしどう)観光サイトより・・・。

秋芳洞の入口から2km位下流に自住寺というお寺があります。このお寺は平城天皇の大同2年(807)にひらかれたお寺であったと伝えられていますが、延元元年(1336)から57年も続いた南北朝の動乱のため、霊場は全く廃墟となり草露に埋もれていました。延元2年この地を訪れた寿円禅師はその由緒を惜しみ再興開山されました。

後村上天皇の正平9年(1354)の初夏、この地方一帯を大干魃が襲いました。作物は枯死寸前で、人々は飲み水にも困る毎日でした。この姿を見て禅師は心を深く痛め、何としても水を村人に与えたいと21日間の雨乞祈願を発願され、旧暦4月1日入洞し祈りを始められたのであります。この頃の風潮として、洞窟は神秘な場として入ればたたりがあると信じられ、誰一人入ったことのないこの巨洞に死を決して入洞されました。

 満願の21日目、まだ明けやらぬ暗闇の中に大粒の雨が降り始め、やがて雷鳴と共に豪雨が襲来しました。村人は外に飛び出しこの慈雨に歓喜しました。禅師は水音に大願成就したことを知り、仏天の加護を感謝しながら合掌して豪雨渦巻く竜ヶ淵に身を投じられました。

後日水が引き、変わり果てた禅師の姿が下流から発見されました。そこは自住寺の門前に近い田の中でした。住民は涙のうちにその御遺体を荼毘にふし、その骨と灰を土に練り込み、禅師の骨灰像を作って自住寺にまつりました。これを遺灰像と呼んでいます。

山口県指定文化財寿円禅師遺灰像は、現在秋芳洞入口川向こうに御堂を建て、そこに安置し一般の方もお参りが出来るようになっています。

まさか・・・寿円禅師の遺灰が使われている像があるなんてマルコはびっくりでした!!南北朝時代って足利尊氏が生きていたころだから・・・なんかこの話が実際あったことのように思えてくるような気がします!!
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