No.0884
とりのすさばき
鳥の巣裁き

放送回:0556-B  放送日:1986年07月12日(昭和61年07月12日)
演出:芝山努  文芸:沖島勲  美術:門野真理子  作画:後藤真砂子
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あらすじ

むかしむかし、薩摩と長州と土佐の侍が一緒に旅をしておった。道中の三人はそれぞれのお国自慢で意地を張りあってしまうことがあったそうじゃ。まあ、みんな自分の住んどる所が一番ええから、自慢したくもなるんじゃろう。

さて、三人は三河の国で、ある宿屋に入った。その宿の二階の部屋からは見事な松が見え、松のてっぺんに何やら鳥の巣のようなものがあった。

三人はあれは何の巣かと言う話になり、薩摩の侍は「コウノトリ」、長州の侍は「ニワトリ」、土佐の侍は「カラス」と言いだして聞かんようになってしもうたそうな。そうして口喧嘩の挙句とうとうお互いの首を懸けて、夕食の時に宿の主人に聞いてみることになった。

夕食を待っている間、はじめに長州の侍が、次に薩摩の侍が、最後に土佐の侍が、便所に行くと言って部屋を出て行った。三人の侍はそれぞれ、こっそり宿の主人の所へ行き、一両やるから自分に都合の良い鳥の名前を答えてくれと頼んだのじゃった。主人は訳が分からなかったが、とりあえず三人の話を聞いておいたそうな。

ところが、土佐の侍が部屋に戻ってしばらくすると、部屋の中から激しく言い争う声が聞こえてきた。主人が慌てて飛んで行くと、三人の侍は刀を手にして睨み合っておった。そうして三人の侍は「あれは何の巣じゃ!?」と主人に詰め寄った。

すると主人はにっこりと「あの松のてっぺんに巣をかけたのは、一番初めにコウノトリで、卵がかえると二羽の鳥(ニワトリ)となり、今ではただの空の巣(カラス)でございます。皆さま、正しゅうございます。」と答えたそうな。そうして、さらに続けて「それでは皆さま、お約束の一両ずついただきます。」と言ってお辞儀をしたんじゃと。

三人の侍は顔を見合わせて苦笑いするほかなく、やっと仲直りしてその晩は楽しく飲み明かしたそうな。道中心得にもあるように、他国の人と旅をする時はあんまり意地をはるものではないということじゃなぁ。

そうしてあの松のてっぺんの巣、あれは本当は、宿の小僧が投げ上げた箒の先だったということじゃ。

(投稿者: ニャコディ 投稿日時 2013-6-4 20:51 )


ナレーション市原悦子
出典松岡利夫(未来社刊)より
出典詳細周防・長門の民話 第二集(日本の民話46),松岡利夫,未来社,1969年10月20日,原題「鳥の巣裁き」,採録地「熊毛郡」,話者「林虎一、後藤柳助」
場所について山口県の熊毛町(地図は適当)
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地図:山口県の熊毛町(地図は適当)
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※掲載情報は 2013/6/4 22:51 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
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Wii  投稿日時 2022/2/16 18:40
これや「味噌すりと武士」、「追いつかれたお月さま」みたいに、わりと近代に成立した昔話も多いかもw
吉兵衛どん  投稿日時 2022/2/15 21:41
お侍さんってのは気難しい人が多いなぁ(笑)みそ豆ばなしに出てくる二人もそうだったけどほんとにちょっとしたことですぐ斬り合おうとする。まぁそれくらいのことでも命を投げ出せるくらいの覚悟がないと武士なんてやってられないのかな…
Perenna  投稿日時 2020/4/19 23:44
この昔話を「周防・長門の民話 第二集」で読んでみました。
これは明らかに、明治以後に作られた創作系の昔話ですね(笑)
薩摩と長州と土佐の侍が泊まった三河の国の宿屋の描写は、次のように書かれています。
「二階から向うをみるちゅうと、なかなか景色のええ築山がある。そいて築山の上に、大きなみごとな五葉の松が植えちゃある。そいでのう、その五葉の松のずってんこう(頂上)に何やらの鳥が巣をかけちょるてい。」
この記述を読んで、これは江戸幕府の徳川家と松平一族をそれとなく揶揄しているのでは?と勘ぐってしまいました。
三河国はもちろん徳川家(松平家)の発祥の地です。
築山というのも、徳川家康の正室だった築山御前を連想します。
さらに、五葉の松とありますが、江戸時代の三河国の地誌書で「三河国二葉松」(みかわのくにふたばのまつ)という書物がありました。
さらに、三河国の宿屋の親爺は、次のように答えています。
「五葉の松のずく(いただき)に巣をかけたのは、一番はじめに鴻がきて巣をかけました。そいで卵を生みましての、かえったのをみましたら二羽の鳥でござりました。ま、つまり鶏でござりましての、それを大事に大事に育てよりましたが、そのうちに雛もいつの間にか大きうなりましたで、それが立って逃げてしまいよりました。で、あとは、それあの通り、空巣(からす)にござります」
この言葉も極めて意味深長で暗示的な印象を受けます。
なんとなく、「織田がつき羽柴がこねし天下餅ひろうて食うはひとり徳川」という歌を連想しました。
幕末の動乱で薩長土肥の官軍に敗れた徳川家は政権の座を失い、江戸城も明治新政府に明け渡すことになりました。
この昔話は漠然とながら、織田→豊臣→徳川→薩長土という政権の移り変わりを示唆したものなのではないでしょうか?
薩摩、長州、土佐の侍が三河国の宿屋の亭主に金をつかませて、自分たちの主張をごり押しして悦に入ったりするところも、明治以後の藩閥政治家らしい振る舞いだなと思ったりします。
匿名希望。  投稿日時 2013/9/20 12:55
てっきり、新撰組かと思った。(笑)
ニャコディ  投稿日時 2013/6/5 20:45
「売り手よし・買い手よし・世間よし」ですか~
現代でも企業倫理やCSRでよく見かける言葉です。
三河商人も近江商人も、昔から素晴らしい理念を持っていたのですね。

確かに宿の主人のあの笑顔で、あんな見事な場の収め方をされたら、
納得しちゃいますねえ。
もみじ  投稿日時 2013/6/5 17:21
「売り手よし・買い手よし・世間よし」の三方よしは
近江商人だったはず…(・ω・;)と思って調べてみたら

三方よしは戦後に商人の商売理念をわかりやすく表現したものらしく
その商家による家訓によって言葉の意味するところも違うそうな。
地域的にそれほど離れていない三河も一緒だったようです。
調べてみたら確かに三方よしで、でてきたし。

ごめんなさい、滋賀出身者としては気になってしまったので。
お気を悪くされたら申し訳ないですm(_ _)m 他意はありません。

araya  投稿日時 2011/12/4 12:51
坂本竜馬が世間的に評価されるのは、1904年の日露宣戦布告で明治皇后の夢に現れてからのことですから、薩長土の三藩で語られるのも薩長同盟が成った幕末より明治後半以降かと(^_^)。もしかしたら「みそ買い橋」と同時期ぐらいかもしれませんね。
beniko  投稿日時 2011/12/4 11:37 | 最終変更
つまりこの話は現代人が作った、創作昔話って事ですか?実際にこういった事が起こったんですよ~、というものではない、という事ですかね?
araya  投稿日時 2011/12/4 7:07
長州に伝わる昔話でありながら、なぜ舞台を三河としたのか疑問でしたが、宿屋の主人が三河商人ということで納得しました。三河商人には「売り手よし・買い手よし・世間よし」の「三-方よしの理念」があり、私利私欲に走らず誰にとっても良い商いを-することで知られています。主張の違う薩長土の三人を誰も-傷つけることなく、その場を収める適役としてこれほどの適材はなく、そのための三河の舞台であったかと♪?

もちろん、江戸に向かう途上の有名地としても無理はありませんし、三人と三河の三つながり、江戸-を起こした家康の地と江戸を終わらせた三藩などなど。これほどの舞台はないというくらいのベストマッチ。この昔話を考えた方の造詣にも感服させられました。
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