No.0569
とぶき
飛ぶ木
高ヒット
放送回:0356-B  放送日:1982年08月28日(昭和57年08月28日)
演出:小林治  文芸:沖島勲  美術:工藤美由紀  作画:須田裕美子
写真あり / 栃木県 ) 33049hit
あらすじ

享保8年(西暦1723年)8月8日に、宇都宮で大洪水が起こった。世にいう、五十里洪水(いかりこうずい)である。羽黒山明神(はぐろやまみょうじん)近くに住むお松ばあさんは、この大洪水をひと月も前に予言していた。

ひと月前、お松ばあさんが二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)の拝殿わきでウトウトしていると、何やら話し声を耳にした。それは、もうすぐこの一帯で起こる大洪水の被害を最小限にするため、神様たちが相談している声だった。神様たちは、羽黒山の銀杏の木と白沢明神(しらさわみょうじん)の大杉を使って、溢れる大水をせき止める作戦を話し合っていた。

お松ばあさんは、この神様の話を息子の与太(よた)に聞かせたが、与太は信じなかった。しかし現実に、このところの大雨の影響で鬼怒川の堤防が壊れ、川の水があふれ始めた。その時、羽黒山の銀杏の木が倒れ、大波が集落に流れ込む事を防いだ。そして、白沢の大杉が空を飛んできて、その銀杏を支える杭のようにズボっと突き刺さり、大水に耐えた。

こうして神様の計画通り、集落一帯は大した被害が出ることなく、夜になると水も引いた。
銀杏と杉の大木のおかげで、五十里洪水の被害は最小限に抑えられたそうだ。

(紅子 2011-9-9 2:35)


参考URL(1)
http://st0011.nas931.utsunomiya.nttpc.ne.jp/ext/minwa/ks/minwa71.html
ナレーション常田富士男
出典栃木県
備考享保8年(西暦1723年)8月10日、五十里大洪水の話
現地・関連お話に関する現地関連情報はこちら
場所について二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)
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地図:二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)
追加情報
講談社の300より書籍によると「栃木県のお話」
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※掲載情報は 2011/9/9 2:35 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
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ゲスト  投稿日時 2022/1/26 11:38
フライングツリー!
ゲスト  投稿日時 2022/1/21 17:58
鬼怒川、鬼怒沼と関係するのかな?
坊屋良子  投稿日時 2015/9/15 6:33
三陸津波の「みちびき地蔵」と同様、鬼怒川水害の話も伝承されているのですね。
マルコ  投稿日時 2014/3/6 19:20
「大杉に支えられ、大銀杏の横たわっていたあたりは、逆木と呼ばれている」の逆木はどこにあるのか調べてみたところ栃木県宇都宮市宮山田町 にある上河内緑水公園に逆木用水と言う用水があるのでそこのあたりが『逆木』らしいです。

写真付で見たい方は↓

http://maywind.sakura.ne.jp/tochigidam/blog/2013/09/post-15.html

http://www.doboku.shimotsuke.net/sakasagidoumon.html

 鬼怒川の氾濫は、流域の住民に大き
な被害を与え、江戸時代においては、宇都宮藩にとって大きな悩みの種でありました。
 元和6年(1620)城主本多正純は、農民の苦難を救うためと、新田開発を目的に、分流している西鬼怒川へつなぐ逆木用水掘削工事に着手し、あわせて下流の今里宿から宇都宮城下を流れる田川へ結ぶ「新筏川」をも開削させ、城の改築、町割などの工事用材の運搬に供しました。これが後の「御用川」です。
 これにより宝暦4年(1754)に上小倉村外47ヶ村による「逆木用水組合」が設立され、川除工事など出水による災害防止に努めてきましたが、はじめ用水路であった西鬼怒川は次第に大きくなりたびたび氾濫し、絶えず被害を受けていました。
 その原因は主として逆木分流口が悪いと思われ、明治になってからは県知事に災害防止対策の陳情を重ね、明治25年(1892)知事に「西鬼怒川分水口逆木治水工事請願書」が出されました。その後、明治29年(1896)の大洪水をきっかけに、明治30年(1897)に栃木県の一大事業として、鬼怒川本流から2孔の隧道により分水し、下流に新たな水路を設け従来の西鬼怒川に合流させ、安定した水流維持を図るための工事が行われました。これが「逆木洞門」です。
 その後、鬼怒川中部土地改良事業の一環として風見発電所が新設され、その放水口より鬼怒川本流をサイフォンで横断して取水することにしたため、昭和42年(1967)「逆木洞門」は閉鎖されました。

逆木隧道工事
 明治29年(1896)の大洪水を契機に洞門掘削を含む逆木工事が実施されました。工事は従来の西鬼怒川分流口を締め切り、新たに字稚児ヶ渕に2本の隧道を貫通させ、ここから西鬼怒川に流入させるもので、工事は明治30年(1897)に着手し、工事費11万5千余円、延べ人員23万8千余人が動員され、1年5ヶ月後に竣工しました。
 この工事によって、従来からの慣行となっていた東鬼怒川、西鬼怒川の水量配分比6分対4分を東鬼怒川7分、西鬼怒川3分としました。(しかし、その後の明治35年(1902)の水害等により後日談がありますが、この件については別途記することにします。)

所 在 地    上河内町宮山田(西鬼怒川)
管 理 者    上河内町
建設時期    明治30年(1897)着手、
          明治31年(1898)5月中旬完成
用途・目的    西鬼怒川治水事業
規  模     隧道延長:170間(85間づつ2孔洞)
          (170間=309.10m・85間=154.55m)

マルコ  投稿日時 2014/2/18 11:40
紅子さん!!ちょっと訂正していただきたいことがあるのです!!

それは何かと言うと、『二荒山神社』の送り仮名が(ふたらさんじんじゃ)となっているのを(ふたあらやまじんじゃ)に訂正してもらいたいのです。

ふたらさんじんじゃだと、日光二荒山神社 (にっこう ふたらさん じんじゃ) になって別の神社になってしまうのです。

まん日でいうと「ふたあらやまじんじゃ」は『飛ぶ木』の神社ですし、「ふたらさん じんじゃ」だと『そうめん地蔵』の地蔵寺の住職が参詣に行った日光の神社なのでまったく別の神社なのです!!

他の人が見て勘違いしないように

『二荒山神社』の送り仮名が(ふたらさんじんじゃ)となっているのを(ふたあらやまじんじゃ)に訂正してもらいたいのです。

よろしくお願いします。

ゲスト  投稿日時 2013/2/15 22:45
宇都宮の地名は、二荒山神社と関係があります。もっと端的にいうと、二荒山神社イコール宇都宮、ということです。二荒山神社は、かつて、下野国「一の宮(いちのみや)」といわれていたようです。この一の宮がなまって宇都宮となった、と伝えられているのです。ところが、これですまないのが、歴史のある地名の由来なんですね。これは、一説に過ぎません。ほかにも、下ノ宮から移しまつった「うつしの宮説」、樹木のうっそうと茂る丘上に鎮座する「鬱の宮説(うつのみや)」、さらに、「征討宮説(うつのみや)」、「内の宮説(うちのみや)」、などなど。いずれの説も、二荒山神社の別称が地名に転化したという点では変わりないようです。

ところで、宇都宮の地名はいつ頃から、“登場した”のか。も、知りたいですよね。歴史書や古文書によると、鎌倉期から“見える”、ということです。以来、宇都宮は、二荒山神社の門前町として発展し、江戸期には、“小江戸”とも呼ばれ栄え、そして、現在に至っているわけですね。

 宇都宮は、二荒山神社が転化した地名とお話ししましたが、まさに、二荒山神社を中心として開けてきた街、なんですね。
マルコビッチ  投稿日時 2011/12/14 21:54
詳しく調べてみました!!

五十湖は現在のダムサイトの1キロほど上流に、天和3年(1683)、日光大地震のとき山崩れによって天然の堰堤ができ、湖水が出現した。江戸日本橋から50里の距離にあることから、五十里湖と呼ばれた。その後、享保8年(1723)8月、雨が続いた後に、決壊して洪水を引き起こした。大水は塩谷郡・那須郡・芳賀郡の村々を襲い、その追い討ちをかけるように享保17年(1732)下野の国は天候不順の冷害に見舞われ、作物の収穫も半分以下 多数の餓死者をだした。

・・・「飛ぶ木」の時代は本当に大変だったみたいです・・・天変地異に飢饉に百姓一揆が続発していたようですし・・・。
beniko  投稿日時 2011/10/24 19:54
足を使って得た貴重な情報を、教えてもらってありがとうございます。
実際のところのお話とまん日アニメとは、違うのかもしれませんね。
やっさん  投稿日時 2011/10/24 11:07
まあ、日本昔ばなしでは多少のアレンジはありますからね。

あるいは、別の言い伝えもあるのかも知れませんね。
マルコビッチ  投稿日時 2011/10/21 15:32
二荒山神社の社務所に行ってきました・・・。
社務所の方々はとっても優しく いろいろ教えてくれました・・・。
「主人公のお婆さんは宇都宮大工町の小倉屋新衛門という人のお母さん」
「大杉に支えられ、大銀杏の横たわっていたあたりは、逆木と呼ばれている」そうです・・・。
・・・あれ!?お婆さんが住んでいた場所が・・・昔ばなしと違うぞ!?
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