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No.0444
たぬきのしっぽ
たぬきのしっぽ
高ヒット
放送回:0278-A  放送日:1981年02月28日(昭和56年02月28日)
演出:勝井千賀雄  文芸:沖島勲  美術:西村邦子  作画:勝井千賀雄
写真あり / 栃木県 ) 37098hit
あらすじ

昔々、那須の山すそにある金剛寿院というお寺に、和尚さんと瑞天(ずいてん)という小僧さんが住んでいた。

小僧さんの仕事は忙しく、掃除、洗濯、食事の支度などをこなし、夜は夜でお経の手習いがある。そのため、自分の寝室に戻る時には、もうクタクタ。それで眠れればいいのだが、瑞天の部屋にはいたずら者のタヌキがやって来るのだ。

「ず~い~てん!!起きろ~!!」タヌキは毎晩やって来て、瑞天が眠るのを邪魔する。こんな訳で瑞天は、夜もろくに眠れず、朝のお勤めでも居眠りをして和尚さんに叱られる始末。

そこで瑞天は、どうしたらタヌキを懲らしめることが出来るか、和尚さんに尋ねた。ところが和尚さんは、「タヌキという奴は魚が好きなんじゃ。」と言い、それ以上は教えてくれなかった。仕方なく瑞天は、冬の寒い中、池のコイを見ながら思案をめぐらした。

さて、夜になりタヌキが瑞天の部屋の前にやってくると、部屋から何やら話し声が聞こえる。

「これ瑞天、庭の池には大きなコイがいるじゃろう?坊主が魚を食うのは、ちと憚れるのじゃが、こう寒くてはかなわん。魚の味噌煮など食いたいものよのう。まさか誰にも聞かれとらんじゃろうな?」

「聞かれていたら大変ですよ。ことにタヌキはコイが大好きな上に、しっぽで釣るのが得意ですからね・・・」

これは、瑞天が声色を使って、和尚さんと話しているように見せかけたのだ。しかしそうとは知らないタヌキは、さっそく池の中にしっぽを垂らして釣りを始めた。

しばらくして、もう大きなコイがかかった頃だろうと、タヌキはしっぽを池から上げようとしたが、どうした事かしっぽが池から抜けない。寒い冬の夜なので、池の水は凍りついていたのだ。こうして、タヌキはとうとうつかまってしまった。

タヌキは、もういたずらはしないと泣いて謝り、瑞天もこれを許した。ところが、タヌキのしっぽがどうしても池から抜けない。これには瑞天も困ってしまった。これを見ていた和尚さん、「お日様が上がるのを待つんじゃよ。」と一言。

それからというもの、瑞天とタヌキは仲良しになり、タヌキはいつも瑞天の後ろについて一緒にお経をあげていたそうな。

 (投稿者: やっさん 投稿日時 2012-7-1 10:07)


ナレーション常田富士男
出典栃木県烏山町
DVD情報DVD-BOX第5集(DVD第21巻)
現地・関連お話に関する現地関連情報はこちら
場所について金剛寿院(大田原市福原1130)
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地図:金剛寿院(大田原市福原1130)
追加情報
本の情報国際情報社BOX絵本パート2-第092巻(発刊日:1980年かも)/講談社テレビ名作えほん第056巻(発刊日:1986年7月)
絵本からの解説いたずらタヌキと小坊主の話ですが、「イソップ物語」にも、キツネが氷にしっぽをとられて動けなくなるという話があります。栃木県烏山町上境にあったという金剛寿院というお寺にまつわる話は、タヌキのいたずらに音をあげた小坊主瑞天(ずいてん)さんが、一計を案じてタヌキをやっつけるというわけです。タヌキが魚好きなことに目をつけた瑞天さんは、池のコイをとるということにして、和尚さんと相談するふりをし、一人芝居をうつのです。
タヌキはそれを聞くと、先まわりして自分が池のコイをつろうと、しっぽを池にたらしておいたのはよいが、いざもち上げてみると、池にはあつい氷がはって、しっぽはぬけません。そんな間ぬけなところが、昔話のタヌキのにくめない点です。(栃木地方の昔ばなし)(国際情報社の絵本より)
講談社の300より書籍によると「栃木県のお話」
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※掲載情報は 2012/7/1 10:07 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
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コメント一覧
3件表示 (全3件)
匿名希望  投稿日時 2014/12/8 14:26
このタヌキって、ウザい事をやらかしてますね。
でも、小僧さんにこらしめたのが功を奏して。
改心して、小僧さんと一緒にお経を唱えるなんて感心です!
マルコ  投稿日時 2013/3/3 16:30
マルコは今回、栃木県大田原市福原1130 にある金剛寿院さんに行ってきました!!
「たぬきのしっぽ」では「栃木県烏山町」にあると書いてあったのですが、栃木県の那須の山裾にある「金剛寿院」というお寺はマルコの調べた結果、ここしかありませんでした。

とっても、のどかな田園風景の中にあるお寺といった感じでしたよ。
お寺の門の左側には「金剛寿院のモミジ」という約150年の大きなモミジの木がありました。
お寺の境内にも「金剛寿院のイチョウ」という約250年の古木がありました。秋の紅葉の時に来たらきっと綺麗でしょうねぇ・・・。
お寺の門には「大本寺・金剛寿院」と金文字で書かれた額がありました。
お話を伺ったお寺のおばさまによると、ここいら一帯のお寺の総元締みたいな役割を「金剛寿院」は果たしていたそうです。金剛寿院は、那須家が戦の必勝祈願などを行う祈願所であるとともに、複数回にわたって佐竹氏との和睦や同盟の仲立ちをした寺院だそうで、800点超の古文書が伝来しているそうです。古文書の中には、歴史的に見ても重要なものとかが含まれているようです。

そういえば「神仏に誓う戦国の同盟 伝承館でテーマ展」っていうのを「那須与一伝承館」でやっていたみたいですよ。

下野新聞より引用

戦国の動乱期に、那須家と常陸国の佐竹氏が和平のために交わした起請文を紹介するテーマで「金剛寿院2 件文書と那須氏」が、南金丸の那須与一伝承館で開かれている。
福原の金剛寿院2 件伝法寺は、那須家が戦の必勝祈願などを行う祈願所。伝来する800点超の古文書のうち、実物の起請文5点を含む約30点を公開する。

起請文は、神仏にかけて順守や履行を誓約するもので、牛王宝印と呼ばれる厄よけの護符が描かれた紙を使用。宇都宮城を攻めようとしていた佐竹氏の17代当主、義昭が、1557(弘治3)年に那須氏との関係改善を目的に交わしたものなど、和睦や同盟関係を確認する内容となっている。伝承館は「金剛寿院2 件の僧侶は複数回、両家の和睦を仲立ちしたとされている。和睦が何度も破られた裏付けでもあり、戦国時代の緊張感が伝わってくる」としている。

金剛寿院の向かいには福原八幡宮という神社があって元々は「金剛寿院」の氏神様だったようです。市指定有形文化財になっています。

福原八幡宮の詳細(生涯学習課文化財係ホームページより引用)

源頼義みなもとのよりよし・義家よしいえ父子が戦勝祈願のため八幡社を勧請したとも伝えられ、後に那須氏の祖である須藤すどう貞信さだのぶが氏神として社殿を造営したといわれます。社殿の屋根には那須家の家紋である「一菊ノ紋いちぎくのもん」がつけられています。明治初期の神仏分離前までは金剛寿院(福原)の神仏混淆社でした。

金剛寿院に残る棟札によれば、貞享2年(1685年)に社殿を修復し、さらに寛政2年(1790年)に本殿・拝殿・玉垣を修復し、現在に至っています。修復の大檀那はいずれも那須氏で、貞享2年は那須遠江守資弥すけみつ、寛政2年は那須与一資明(すけあきら)です。
本殿柱には地紋彫が施され、組物は三手先みてさき詰組、繋虹梁つなぎこうりょうは龍彫物です。彫刻の手法も優れています。

龍の彫刻が見事な神社でした、今までいろんな寺社仏閣の彫刻を見てきたマルコですが、何か珍しい部分に龍が彫られていました。

お寺の門をくぐると、右側にありましたよ、あの池がありましたよ。
たぬきがしっぽで池の鯉を釣ろうとした池がありました。
池の真ん中に小さな橋がかかっているところなんか、アニメとそっくりでした。
ずいてんさんがお話の最初の方で「人間不心得を起こして地獄に落ちても後の祭りというものじゃ・・・。」って言いながら、鐘をついていた鐘つき堂もありました。
アニメの方では、なんだか馬鹿に大きい鐘つき堂に見えたのですが、実際の鐘つき堂は普通でしたよ。
お寺の本堂の屋根の感じといい、雰囲気といい、アニメとそっくりでした!!
江戸時代の初期の頃に火事でお寺は焼けてしまって、焼け残った木材で本堂を立て直したのだそうです。

マルコが金剛寿院さんを訪ねた時、ご住職は不在。代わりに、ご住職の奥様でしょうか?
お寺のおばさまが話を聴かせてくださいました。おばさまは、まんが日本昔ばなしの話で「金剛寿院」が登場したことを、何となくは話に聞いていたみたいですがあまり詳しくは知らなかったそうです。ニコニコしながら、このお寺の話をたくさん聞かせてくれました。
そして、帰り際「宝持山・聖観音・金剛寿院」と達筆で書かれた御札をくださいました。
ほんのりと墨汁のいい香りがしました。
ここのお寺は「那須三十三所観音霊場」の十九番目の霊場だそうです。

金剛寿院のおばさま、お話をたくさん聴かせていただいてありがとうございました。
この場をお借りして、お礼を申し上げたいとおもいます。
これは、私からの提案なのですが「たぬきのしっぽ」を金剛寿院の名物にしたらどうでしょうか?このお話はDVDになっているようなので、お寺を参拝しに来た方にDVDを見せて、お寺の歴史などを語ったら、きっと喜ぶと思いますよ!!
マルコ  投稿日時 2013/2/15 22:24
金剛寿院で探したところ、一応「那須の山裾」にある同名の「金剛寿院」というお寺がありました。

金剛寿院伝法寺概要
 伝法寺の創建年は不詳ですが奈良時代末期に開山したと伝えられています。その後、藤原良門郷が奥州下向の際ここに訪れ、正八幡宮の分霊を勧請した事で神仏混合の霊場として整備されます。最盛期には125ヶ寺の末寺を抱える大本寺として隆盛を極め下野三金剛の1つで10万石の寺格をもったそうです。中世は那須家の祈願所として庇護され、寺宝として5通の武将起請文(昭和45年大田原市指定有形文化財)が残されていて、その内4通は佐竹氏が那須氏に対して書かれたもので、中世の歴史を知る上で貴重な存在となっています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により向かいにある福原八幡宮と分離して現在に至っています。

金剛寿院

住所
栃木県大田原市福原1130

電話番号
0287-28-0240
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