トップページ >  お話データベース >  近畿地方 >  京都府 >  大仏の食いにげ
No.1424
だいぶつのくいにげ
大仏の食いにげ
高ヒット
放送回:0906-A  放送日:1993年10月16日(平成05年10月16日)
演出:白梅進  文芸:沖島勲  美術:安藤ひろみ  作画:坂本英明
写真あり / 京都府 ) 28719hit
鋼でできた大仏はクワーン、木でできた大仏はコツコツ。

昔、京の大仏さんと奈良の大仏さんが一緒に伊勢参りに行くことにしました。

大きな体の二人でしたが、なかなか伊勢には到着せず昼になってお腹が減ってきました。そこで山の中の蕎麦屋に立ち寄り、二人ともお腹いっぱい食べました。しかし、食いに食いまくった後に、二人ともお金を持っていない事に気が付きました。

これはエライことになった、と蕎麦屋の主人に気づかれないように走って逃げだしました。しかし体が大きい大仏さんの事、すぐに息切れして走れなくなり、カンカンに怒った蕎麦屋の主人に追いつかれてしまいました。

蕎麦屋が、棒(蕎麦打ち棒)で奈良の大仏さんの頭を叩くと「クワーン、クワーン」と鳴りました。それを聞いた蕎麦屋は「おのれ!あれだけ食っといて“食わん食わん”とは何事だ」と言い、今度は京の大仏さんの頭を叩きました。すると「コツコツ」と音が鳴り、「コツコツ返すというなら、そう言わんかい」と言って、許してくれました。

それから二人は一生懸命にお金を貯めて、蕎麦代をコツコツ返したそうです。

(紅子 2011-12-24 23:04)


ナレーション市原悦子
出典京都のむかし話(日本標準刊)より
出典詳細京都のむかし話(各県のむかし話),京都のむかし話研究会,日本標準,1975年03月20日,原題「大仏の食いにげ」,採録地「京・山城の話」
現地・関連お話に関する現地関連情報はこちら
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • このページを印刷
追加情報
このお話の評価8.2000 8.20 (投票数 10) ⇒投票する
※掲載情報は 2011/12/24 23:04 時点のものです。内容(あらすじ・地図情報・その他)が変更になる場合もありますので、あらかじめご了承ください。
お話の移動 ( 34  件):   <前  1 ..  28  29  30  31  32  33  34  次>
コメント一覧
10件表示 (全10件)
ゲスト  投稿日時 2022/1/31 16:05
面白いですなぁ…
自主学習で昔話を探していたので丁度いいですね!
これにします❤
ゲスト  投稿日時 2022/1/31 16:05
面白いですなぁ…
自主学習で昔話を探していたので丁度いいですね!
これにします❤
猫  投稿日時 2021/3/16 22:27
ツッコミどころ満載で大変面白い作品です。
いくら食い逃げしたからといって大仏をたたいたりするのは蕎麦屋もちょっと罰当たりな気もしますが…
でも大仏も代金を相手に払ってもらおうという考えは浅はかですね。
もし自分があの蕎麦屋だったら、狐や狸の仕業と勘違いするかもしれません(笑)
ゲスト  投稿日時 2020/12/11 7:43
この蕎麦屋さんは、天国に行けるだろうね。
アザヴ  投稿日時 2018/12/1 16:39
世の中には、こんなとんでもない大仏様もいるんだ…
ゲスト  投稿日時 2018/11/6 23:20
奈良の大仏は、東大寺の大仏
京都の大仏は、方広寺にあった幻の大仏ですね

厳密に言えば、方広寺の大仏は兵火で焼けて頭の欠けていた奈良の大仏に代わる存在として秀吉が作ったもので、本来なら同時期には存在していないものなんですよね
ゲスト  投稿日時 2017/4/3 21:32
大仏に追い付く蕎麦屋って化け物かよ
某仏具屋店主  投稿日時 2016/3/10 22:31
仏門に入っている私ですが、こんあ罰当たりな事をした仏様もあったもんなんやなと、笑い転げましたなあ。だどもほっこりする話でもあるんでな。
しかし、実際に仏様や神様が悪戯をすることもあり(座敷童が代表例)、そのような話が結構伝わっているので、これもその一つだろうのう。

ゲスト  投稿日時 2016/3/9 10:04
私の中では一番衝撃的なお話です。
大仏様が食い逃げする?!なんて!
大仏様、食い逃げする時、走って逃げるし、、、。すごいお話だなあー。
マルコ  投稿日時 2012/10/6 17:50
この話に登場する京都の大仏さんというのは太閤秀吉と関係があるようです。

京都に方広寺というお寺があります。秀吉を祭った豊国神社の隣にある寺です。この寺に「京都の大仏さん」があったそうですよ。

京都の大仏さんについてのホームページより

大仏殿は2000年の発掘調査により全面82メートル、側面57メートル、高さ50メートルの大仏殿の中にうるしを塗っていたことが判明した。現在その場所は公園となっている。天正14年に豊臣秀吉により創建された。しかし、慶長元年の大地震によって破壊し同年7年に炎上し、その後、同年15年に徳川家が勧めて、秀頼公に太閤の追善供養にと19メートルの金銅大仏を復興させたのですが、この大仏も不運にも寛文2年の大地震により倒壊してしまいました。この大仏は徳川家により寛永通宝に改鋳され、特にその貨幣には寛文の文字が刻まれ、文銭・大仏銭と呼ばれました。そしてその代わりに同年4年に木造の大仏が造られましたが、またもや寛政10年に落雷火により焼失し、天保14年に尾張を中心に伊勢・美濃・越前の人々の寄進により木造半身の大仏像がまつられましたが、昭和48年に火災により消失し、現在は本堂・大黒堂・大鐘楼を残すのみとなっております。



投稿ツリー
10件表示 (全10件)
現地関連情報
出典本調査 facebook
Twitter

オンライン状況

25 人のユーザが現在オンラインです。 (23 人のユーザが お話データベース を参照しています。)

新着コメント(コメント24件)